The authors ask that, if the world was born out of chance, how is it that nature acts according to rational laws? If we’re all here because of random and meaningless events, it doesn’t make sense that, one, there are mathematical and scientific laws that govern our world, and, two, that our efforts could discover what those laws are. We would be fumbling in the darkness of randomness, looking for explanations that didn’t even exist.なかなか、うまい語りであるが、これは17世紀の機械論の登場のときに既に主張されていたこと:
But the universe is full of patternspatterns that extend to the smallest particles of an atom, that can be seen in the orderliness of the periodic table of elements. Furthermore, they’re patterns that the human mind could discover and comprehend. How does random chance explain all that?
著者たちは、世界が偶然に生まれたのなら、自然が合理的法則に従うのはどういうことかと問う。我々がここにいるのが、ランダムで意味のない現象の故であるなら、我々の世界を統べる数学的で科学的な法則があり、これらの法則を我々が発見できるということが意味を為さない。我々はランダムの暗闇で手探りしている。そして、存在さえしなかった説明をも探している。
しかし、周期表の秩序に見られるように、最も小さな小片である原子に至るまで、宇宙にはパターンが満ち溢れている。そして、されらの法則は人間の精神が発見し、理解できる。ランダムな偶然で説明できるのだろうか。
神の奇跡を擁護するMarin Mersenne(1588-1648)自然法則が遍く有効であるのは、超越神がそれを保証するからだと。
メルセンヌの首尾一貫した立場は、自然の秩序に示される神の力能と、いかようにも作用しうる神の絶対的な力能という、長き歴史にわたって形成された重要な区別に依存していた。機械論哲学がメルセンヌや後のボイルに訴えたのは、神がこの世界に作用を及ぼすときの通常のやり方を完璧に表現するものと考えられたからである。自然法則とは、秩序の根本原因でる神の意思が表現されたものであるが、神を拘束するものではない、神は望むならば別のやり方でも行動することができるのだから。機械論哲学は奇跡の起こる可能性を排除したのではなく、真の奇跡を認識する手段をはっきりさせた。自然法則のことばで説明しえない出来事、それこそが奇跡なのである、と。
J.H. ブルック:科学と宗教 p.142
しかし、論点は常にひとつだ。それは自然法則なのか、神の直接介入なのか。その自然法則を誰が裏書しているかではない。自然法則までが科学。そこから先は宗教か哲学の領分。Jonathan Wittが何を論じようが、Mark Earleyが何を謳い上げようが、それは科学の外側。
で、科学の外側にJonathan WittやMark Earleyが見る"Meaningful World"(意味ある世界)があるのだろうか。意味・意義・価値などは宗教によって決定されるものなので、彼らの宗教の教義がどうなっているか次第ではある。その教義では、世界が何者かの手になるものだというだけの理由だけで、決まるのだろうか。
とりあえず教義を推測してみると..
まずは、ランダムや偶然を排しているので、世界の再現性はありそう。すなわち、同じ世界を何度でも創れるし、意図的に少しずつ違った世界も創れそう。
「そして、存在さえしなかった説明をも探している」というのは、「直接介入を自然法則で説明しようとしている」という主張かな。すなわち、世界は介入を受けている。
これだと、世界を創った何者かにとっては、世界は意味がありそうだが、世界の中の存在にとって意味があるという教義は見出せない。パラメータサーベイの対象としか思えない多世界を示唆するようなものでは。
とすると、かなり違うアナロジーが教義にあるのかもしれない。たとえば、「演出(神)・脚本(神)のある舞台で、観客(神)を前に役を演じる俳優たち」と「筋書きのないまま、誰の指示も受けることなく、観客のいない舞台を動き回る俳優たち」という対比をするとか。
これ(演出と脚本と観客の存在=意義・目的)だと教義らしい感じがする。ただし、「舞台を降りることがない俳優」たちは、直に脚本を読むこともなければ、直に演出者の声を聞くこともなく、観客の拍手を聞くこともないが。
Kumicitには、Jonathan WittやMark Earleyの、書かれざる前提としての宗教教義は想像もつかない。