まずは渡辺久義先生によるアリストテレスの目的論の解説から:
アリストテレスが考えた自然界の生成に働く四つの原因とは、「形相因」「目的因」「質料因」「作用因」であるが、彼はこれを説明するのに大工が家を建てる例を使っている。「形相因」とは建てようとする家の設計図(紙に描かれていても頭の中にあるものでもよい)であり、「目的因」とはその家を建てる動機としての使用目的であり、「質料因」とは木材やコンクリートといった建築材料であり、「作用因」とは大工の労働力である。この四つの原因(causeであるが本当は要因であろう)がなければ、いかなるものも生じたり成長したりすることはないという。「宇宙自然界には当然、目的があり、動機があり、デザインがあった」とアリストテレスが考えていたというの渡辺久義先生の主張らしい。変なつながりでアリストテレスが「宇宙自然の本質は、機械作用でなく創造でなければならない」と言ったように読めるが、もちろんそこは渡辺久義先生の主張であり、宗教バージョンな目的論。
つまり近代科学は、アリストテレスの四つの原因のうちの「質料因」と「作用因」だけを残して「形相因」と「目的因」を切り捨ててしまったのである。しかしアリストテレスにとっては、宇宙自然界には当然、目的があり、動機があり、「デザイン」があった。従って彼にとっては、大工の例は違和感のないごく自然なものであったと思われる。
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アリストテレスの世界観は目的論的世界観と言われる。これに対して近代科学のそれは機械論的世界観と言われる。そして今、科学者たちは嫌でも目的論的観点を無視できないような状況に追い込まれていると言ってよいであろう。まず何より宇宙自然の本質は、機械作用でなく創造でなければならない。そして創造には目的がなければならない。目的も意味もない創造などというものはない。
[渡辺久義: 現実を解明する形而上学, 2004/7],強調はKumicitによる
だいたい「本質」なんて、自然法則で機械仕掛けの宇宙を記述する機械論が取り扱かえるものではないので、科学は「宇宙自然の本質は、機械作用でなく創造でなければならない」を肯定も否定もしない。
アリストテレスな目的論の流れで現在の物理を考えるなら:
この目的因をめぐってアリストテレス以来激しい論争が繰り返されてきたのである。たとえばケプラー、ニュートン、カントといった近代科学の創始者ですら、目的因の立場にたっていたのである。目的因が敗退したかに見えるのはごく最近のことである。という方向になるはずだ。といっても、あくまでも、機械論で記述できている限界のすぐ外側を、"目的因的"に記述をするに過ぎないが。
現代物理学においては、あらゆる基礎方程式は変分原理というものから導かれる。これは簡単にいえば、物理法則はある関数( 作用とかラグランジュアンなど) の積分を極大または極小にするように決まるというのである。なんのことか分からない人のために変分原理の例をあげよう。光の伝播に関するフェルマーの原理というものがある。それによると、たとえば空気中から水の中のある点に光が進む時、光は直線上を進むのではなく、最短時間で行けるように屈折した道筋を進むのである。つまり光はあらかじめ行くべき点を知っており、最短時間になるように進む道を選んでいるかのように振る舞うのである。これなどは目的因と解釈することができる。その意味で現代物理を目的因的に再構築することも可能なのである。
[松田卓也:まじめな天文学者のまじめなET探し]
渡辺久義先生の宗教バージョンな目的論は、富樫人工世界と同じ論理を使う
「目的がある」という宗教バージョンな目的論を唱えた渡辺久義先生は:
私は以前ある人から、花はすべて人間の目の高さに合わせて咲くようになっている、我々の目よりも低い花は上を向いて咲き、それより高い花はほぼ下を向いて咲く、という話を聞いてはっと目を開かれたことがある。考えてみればまさにその通りではないか。花はネズミの目やキリンの目に合わせて咲きはしない。「人間原理」などという言葉を聞くよりも前のことであったが、これも事例を積み重ねていくことによってますます強固なものになっていく「人間原理」的事実の一つである。デントンが指摘する通り、火が人間の体格に合わせた手ごろなサイズと付き易さ(ほどよい付きにくさ)になっているように、花も我々人間に合わせて咲くようになっていると考えざるをえない。青木繁伸:植物園を見れば、:スズランとか、カキランとかクリスマス・ローズとか低いけど下向きの花があるけど、何か?
[渡辺久義: 火と数学を同列においてみるということ, 2004/2]
渡辺久義先生の間抜けなボケで、事実に基づかないネタを述べているが、それはよくあること。問題はその論拠によって主張された「花は人間のために咲いている」である。この主張は、富樫人工世界の論拠と同類である:
火と人の血と植物と空と海は因果律的にいって全く無関係であり、並列的な関係になってない。植物と火は何の縁もないし、人の血と空の間に何の繋がりもない、これは直感的にいって当然認められることであろう。この宇宙がわざわざ質感上の無条件なそれらしさに合わせて世界を流出させる義務はないから、空はどんな色(光の反射波長)でもよく、植物は何だっていいし、火が赤色でなければならないという要請はどこにもない。従ってもしこの宇宙が基底現実であるならば、それぞれがまるで他の存在を気遣うかのように的確な比で並び、都合よく熱い太陽や火が赤色系で、温かみのある人間の血が赤で、空と海が涼しげに青系で、植物が質感的に鬱陶しくないように緑に成るなどということは決して起こらない。当然質感者を無視してそれぞれが独自に光の波長を偶然的に設定するから、例えば空は不気味に赤黒く、海は黄色く、太陽は紫に、火は青に、植物は鬱陶しいピンクに、人間の血は気色悪く黄緑色に−という風になる。従って生まれた子供はいきなり泣き崩れることになる(雪は温感論に含まれないが、もし雪が白でない世界というものを想像すれば、どうなるかというと−雪が積もると非常にうるさく重々しい質感印象の世界になってしまう、従って雪は白でなければならない)。既に述べたように[対富樫人工世界(2) 人工世界を証明できない書かれざる前提]、富樫氏もボケまくりだが、それは今回のネタではない。ここで注目すべきは、「色彩は人間に合わせて調整されている」という渡辺久義先生と何ら違わない主張をしていること。
[富樫:人工世界 (神の存在証明の続き)]
これは、富樫人工世界と渡辺久義バージョンのインテリジェントデザインが同じフレームワークで論を進めていることによって起きた一致である。
Simulation Argumentで、「"ここ"がシミュレーションではなく、基底的現実だ」ということは原理的に証明できない。それは、"ここ"が基底的現実と区別がつかないように創られたシミュレーションであるという主張を覆す方法がないから。しかし、「"ここ"がシミュレーションである」という主張は証明可能かというと、このSimulation Argumentの主唱者であるOxford UniversityのNick Bostromによれば:
9. Isn’t the simulation-hypothesis untestable?[The Simulation Argument FAQ]有神論についても同じ構図がある。
There are clearly possible observations that would show that we are in a simulation. For example, the simulators could make a “window” pop up in front of you with the text “YOU ARE LIVING IN A COMPUTER SIMULATION. CLICK HERE FOR MORE INFORMATION.” Or they could uplift you into their level of reality.
我々がシミュレーション中であることを示す明らかにありうべき観測が存在する。たとえば、シミュレーションがあなたの目の前に"ウィンドウ"をポップアップさせて、「あなたはコンピュータ・シミュレーションの中で生きている。さらに情報がほしいときはここをクリック」という文字列の表示。あるいは彼らがあなたを、彼らのレベルの現実に引き上げる。
有神論の否定は原理的に不可能。"God of the3 gaps"を埋め尽くしたとしても、「そのような自然法則を創ったのは神である」という主張を覆す方法がないから。しかし、「神が存在する」ことを証明することもほとんど不可能。自然法則からの逸脱すなわち"God of the gaps"によって神を証明しようとしても、人間が自然法則について全知でない限り、それが奇跡なのか人間が自然法則を知らないだけなのか識別できない。そして、奇跡にたよれなくなると、自然法則の見事さの背後に神を置くしかなくなる。
そして、富樫人工世界と渡辺久義バージョンのインテリジェントデザインは花とか色彩とかのチューニングを論拠にする。主張を入れ替えて、「色彩は人間に合わせて調整されているからデザインだ」と「花は人間に合わせて咲いているから人工世界だ」とやっても何ら違和感もなく、論理的もちゃんと成立する。
それはすなわち、富樫氏と渡辺久義先生は同じ証拠で違う主張を証明しようとしていることを意味する。