2007年07月04日

Beheを批判するDawkins

Richard DawkinsによるBehe本の批評は、New York Timesでは有償だったが、International Herald Tribuneでタダで読めた。ということで...

Michael Beheの2冊目の本にも、1冊目と同じくイライラさせれると思っていた。まさか、気の毒だと感じるとは思ってもみなかった。1冊目の"Darwin's Black Box"(1996)は、インテリジェントデザインの科学的ケースを作ろうとしたもので、いかに間違っていようとも、確信に満ちていた。2冊目は諦めた人の本である。Behe自身のアンインテリジェントデザインの誤った道筋に入り込んで、罠にはまって出られなくなっている。いたるところに創造論のポスターを貼って、Beheは現実の科学の世界から漂流している。そして現実の科学たるBeheの属するLehigh Universityの生物科学科は、Webサイトに「我々はBehe教授の見解に敬意を評するものだが、それら見解は彼ひとりのものであり、学科として推進するもおではない。インテリジェントデザインには科学における基盤はなく、経験的に検証されておらず、科学とみなすべきではない。」と但し書きをつけて、Beheと縁を切った。シカゴの遺伝学者Jerry Coyneは最近、New RepublicのBeheの本についての破壊的な批評において、前例がないくらいだと書いた。

しばらくの間、Beheは一匹狼として、短くも楽しい職歴を築き上げた。Beheの同僚はBeheと縁を切ったかもしれないが、同僚たちには全米からの講演依頼もNew York Times空の依頼も来なかった。Beheこそがメディアの寵児だった。しかし、ペンシルバニア州ドーバー学区のカリキュラムにインテリジェントデザインを導入しようとした息をのむような行動とJohn E Jones III判事が評した有名な2005年の裁判で、事態は悪い方に転じた。法廷での屈辱の後に、創造論サイドのスター証人たるBeheは、科学的信頼を再確立しようとしたのだろう。しかし、残念ながら、Beheは深みにはまりすぎていた。Beheは進むしかなかった。"Edge of Evolution"は汚い結果であり、読むに面白いものでもなかった。

適切な理由で、我々は今では還元不可能な複雑さについてあまり聞かなくなった。"Darwin's Black Box"では、Beheは正当化することなく、バクテリアが泳ぐためのプロペラであるバクテリアの鞭毛のような特定の生物学構造は、すべての部品がそろっていないと動作しないので、漸進的には進化できないと主張した。Darwin自身が予期したように、このスタイルの論が疑問として残っている。"デフォルトからの論"という論理的な誤りである。2つの対抗理論AとBがあるとする。理論Aは多くの事実を説明し、山ほどの証拠に支持されている。理論Bを支持する証拠はなく、またそれを探そうともしない。そして、理論Aが説明できないと主張される小さな事実がひとつ見つかる。そのとき、理論Bがそれを説明できるかどうか問うことなく、Bが正しいはずだという、詭弁な結論を導く。普通は、研究がさらに進めば、理論Aが結局は、現象を説明できることを明らかにする。したがって、ドーバー裁判で反対側に有利な証言をした敬虔なキリスト教徒である生物学者Kenneth R. Millerは、バクテリアの鞭毛モーターが既知の機能的中間段階を経て、いかに進化できたかを見事に示して見せた。

Beheはダーウィン理論を正しく、変化を伴う系統と自然選択と突然変異のの3つに分解する。変化を伴う系統と自然選択をBeheは問題にしない。それらは、それぞれおトリビアルあるいは穏健な概念だという。我々がアフリカの霊長類であり、猿の従兄弟であり、魚類の末裔であるという事実をトリビアルとしてBeheは受け入れていることを、Beheの創造論者ファンたちは知っているだろうか。"The Edge of Evolution"にある重要な一文はこれである:「ダーウィンの多面的な理論の中で、もっとも重要な面はランダムな突然変異の役割である。ダーウィンの考えたことの新規で重要なことは、この第3の概念に集中する。」これはまた奇怪なもの言いだ。歴史を無視している。ダーウィンは遺伝学を知らなかったので、ランダムさを重視しなかった。新しい変異はランダムに起きるかもしれず、食物に誘導されるかもしれずといったところが、ダーウィンの知っていたすべてである。ダーウィンにとって重要だったのは、ある個体が生き残り、ある個体が生き残らないという必然的プロセスである。我々の知る限り、生物の王国を満たすデザインのエレガントな幻想を説明する唯一のものだから、自然選択は人類の思いついた最も重大な考えである。いずれにせよ、自然選択も変化を伴う系統もまったく"穏健"な考えではない。

しかし、ここはBeheの孤立した道筋をたどって、ランダムな突然変異の過大評価を見てみよう。Beheは、我々が観察する進化の全体を可能とするには突然変異が十分ではないと考える。そして、神が助けに入らねばならない進化の限界がある。ランダムな突然変異の選択は、マラリア原虫のクロロキン耐性を説明するかもしれない。しかしそれは、そのような微生物の個体数が膨大であり、ライフサイクルが非常に短いから。Beheにとって、個体数の少ない世代が長い、大きく複雑な生物の進化には、突然変異の貯えが足りない。

選択ではなく突然変異によって進化的変化が制約されるなら、それは自然選択と同じく、人為選択に対しても同じく正しいはずである。品種改良は自然選択とまったく同じ突然変異のプールに依存している。Beheの理論を実験的に検証しようとするなら、どうすればいいだろうか? 長時間にわたってカリブーを追跡し狩るオオカミの野生種をとりあげよう。地下でウサギを追い回す小さなオオカミを品種改良できるか、人為選択を適用してみよう。これをジャック・ラッセル・テリアと呼ぼう。あるいは、魅力的な、ふわふわのペットのオオカミはどうだろうか。論のためにこれをペキニーズと呼ぼう。厚い毛皮の、山道でブランデーの樽を運べるほど強い、その一頭の名からセント・バーナードと呼ばれることになるオオカミは。Beheは、地獄が凍りつくまで待っても、必要な突然変異が起きないかもしれないと予測するはずである。

イヌの品種改良が、インテリジェントデザインの一例だと言って、逃げないように。これは、還元不可能な複雑さについての論に敗れたBeheが、これまでとまったく違った自暴自棄にした主張である。突然変異はあまりに稀なので、大きな進化的変化は起きないのだと。ここで、私はこの怪しい本を閉じて、ニューファンドランドからヨークシャーテリアまで、ワイマラナーからウォータースパニエルまで、ダルメシアンからダックスフントまで、品種改良された500種以上のイヌたちが、嘲笑して吠えたり、唸り声をあげるのを聞いた気がする。地質学的な基準からすれば、瞬間としか言いようのない短期間のうちに、これらすべての種は、シンリンオオカミの子孫として生まれたのだ。


もしBeheの計算が正しいなら、数世代にわたる数理遺伝学者たちを一挙に混乱に陥れるだろう。彼らは進化率が突然変異によって制約されないことを繰り返し示してきたのだから。Ronald FisherやSewall WrightやJ. B. S. HaldaneやTheodosius DobzhanskyやRichard LewontinやJohn Maynard Smithや幾百のすぐれた研究者たちと知的後継者たちに対して、Beheが一人対抗しているのだ。イヌやキャベツやハトのような都合の悪い存在たちがあるにもかかわらず、1930年から今日にいたるまで、数理遺伝学のすべてが間違っていて、Lehigh Universityから縁を切られた生化学者Michael Beheひとりだけが正しいなんてことがあるだろうか。それを確かめる最もよい方法は、Beheは数学の論文をThe Journal of Theoretical BiologyとかThe American Naturalistに投稿すれば、エディタが資格ある査読者に送ってくれるだろう。査読者たちは、Beheの誤りを、あなたが完全な手札を持っていないとゲームに勝てないという確信になぞらえるかもしれない。しかし、Beheがシニアフェローをしている異様に悪名高きDiscovery Institute(免税公益団体って信じられるか?)では普通なやり方として、Beheは査読手続きをすべて回避して、彼もかつては一員だった科学者たちの頭上を通過して、彼と彼の出版者たちが知ってのとおり、それを見抜く力のない一般人に向けてアピールする。

Richard Dawkins holds the Charles Simonyi chair for the public understanding of science at Oxford. His most recent book is "The God Delusion."

[Richard Dawkins: "Review: The Edge Of Evolution" (2007/06/29) on International Herald Tribune]
タグ:id理論
posted by Kumicit at 07/04 00:01 | Comment(2) | TrackBack(0) | Skeptic