チームメイトからの脅迫電話メッセージを含む、チームメイトからの虐待を理由に、Miami Dolphinsのフットボール選手Jonathan Martinが2013年10月にチームを脱退した。この事件はNFLにおけるイジメについて問題提起となったが、彼にも少なくとも部分的には責任があるのではないかという反応もあった。たとえば、別のNFL選手はインタビューで「Martinは、そのようなことが起きるにまかせたから非難に値する。彼は男として行動すべきだった」と述べた。また別のNFL選手は「Martinは過敏であり、そのことで格好の標的となっていた」と述べた。我々は、被害者への共感を捨てることで幸福を得ているようだ。
この種の被害者叩きはイジメのケースの特有のものではない。強姦被害者が性的遍歴を子細に調べ上げられたり、貧乏な生活を送っている人々が怠惰でやるきがないと見られたり、精神あるいは身体の病気を患っている人々が貧しいライフスタイルを選択したことで病気を招いたと思われたり、といった例にも見られる。実際に不幸に責任の一端が被害者自身にあることもあるかもしれないが、あまりにも多くの場合で被害者側の責任が誇張され、他の要因が過小に見られる。我々自身に得るところがなさそうでも、何故に我々は被害者を叩くのか?
被害者叩きは過失回避についてだけではない。脆弱性回避についてもなされる。被害者がイノセントであればあるほど、被害者は脅かされる。被害者は「世界が安全で、良き人に良きことが訪れ、悪い人は悪いことに見舞われるという道徳空間である」という我々の感覚を脅かしている。良き人が悪いことに見舞われるなら、それは「誰も安全ではなく、我々がどれだけ善良であろうとも、我々自身もまた脆弱なのだ」ということを意味する。「不幸がいついかなるときにランダムに誰かに当たる」という考えは、恐ろしい考えであり、それが真理かもしれないという証拠に日々我々は直面している。
1960年代に、社会心理学者Dr. Melvin Lernerは「他の人が電気ショックを受けていて、それに自分が介入できないとき、被験者はその被害者に対する評価を落とし始める」ことを発見した、有名で深刻な研究を行った。被害者に、よりアンフェアで重い苦しみが与えられるほど、被験者は被害者の評価を落とした。フォローアップ研究で、同様な現象が、交通事故や強姦や家庭内暴力の被害者に対する評価で起きることを発見された。Dr. Ronnie Janoff-Bulmanによる研究は「ときには被害者が、苦しみの原因が、自分の背負った特性ではなく、自分の行動にあるのだと考えて、自分自身の評価を落とす。そして、負の出来事をコントロール可能だと思い、したがって将来には回避可能だと思う」ことを示した。
Lernerは被害者叩きの傾向を、世界は「行動は予測可能な帰結を持っていて、人々は自分に降りかかる出来事をコントロールできる」場所だという、公正世界という信条に根差していると理論化した。因果応報や自業自得といった日常の言葉にもそれが表れている。我々は「ルールに従う良き正直な人々が報われ、悪に鉄槌が下される」と信じたがっている。驚くべきことではないが、研究は「世界が公正な場であると信じている人々の方が幸福で、あまり落ち込まない」ことを明らかにしている。しかし、この幸福は苦しんでいる人々への共感を削減するというコストを支払って、得たものであり、さらには我々は被害者を叩くことで苦しみを重くすることさえあるのだ。
[Juliana Breines, PhD: "Why Do We Blame Victims?" (2013/11/24) on Psychology Today]
しかし...
公正世界信念に代るものは、無力感と憂鬱感でしかないのだろうか? そんなことはない。我々は「世界は不正義に満ちているが、我々自身の行動で世界を公正な場に変えていける」と信じることができる。世界を良き場に変えていくためにできる一つの方法は、他人の苦しみを合理化する衝動と戦い、その苦しみが自分に訪れることもあるのだと認識することである。そう認識することで不安になるが、「苦しんでいる人々に本当に心を開き、苦しんでいる人々が支えられ、一人ではないと感じられるようにする」ための唯一の方法かもしれない。世界は正義を欠いているかもしれないが、思いやりでそれを補うことはできるだろう。ともかく、「我々は、世界が安全で、良き人に良きことが訪れ、悪い人は悪いことに見舞われるという公正世界信念を守るために、被害者叩きをしているかもしれない」と知ることから始めてみようか。
[Juliana Breines, PhD: "Why Do We Blame Victims?" (2013/11/24) on Psychology Today]