2005/12/01

虚空に拳を放つ渡辺久義先生〜自然主義科学と理性の危機〜

日本におけるインテリジェントデザインの唯一といってよい宣伝者たる渡辺久義先生(京大名誉教授)は統一協会の下部組織である勝共連合の月刊誌『世界思想』にインテリジェント・デザインの連載記事を執筆している。この連載記事が統一協会の下部組織である世界平和教授アカデミー内にある創造デザイン学会サイトのコンテンツのほぼすべて。

既に36本のバックナンバーがあるので、どれから手をつけていいか目移りしてしまう。とりあえず、今回は「渡辺久義:自然主義科学と理性の危機――反デザイン論者の道徳意識――」を見ることにしよう。
Robert T. Pennockに放った拳は...

渡辺久義先生は「人間と動物は同価値だという科学」を批判すべく、次のように書く。
...デムスキー、リュース編の『デザイン論争』(Debating Design)に収録されたロバート・ぺノック(Robert T. Pennock)のインテリジェント・デザイン反対論を引用したいと思う。

 サックストン(Thaxton)とマイヤー(Meyer)(注、どちらもデザイン派科学者)は、現代の考え方では、「人間の物理的な複雑性のみが人間を宇宙の他の生物学的構造物から分ける」ことになっていて、これは人間の権利を根拠づけるものとしては不十分だと主張している。彼らは、道徳的権利が人間以外の動物にも適用されうるかもしれないという可能性には関知しない。実際彼らは、人間を一つの動物として考えようとしない。彼らは、何ものか「明確に人間的な」ものがあることが決定的に重要だと考えている。なぜならもしそうでなければ「人間は動物のレベルに落ちてしまうから」である。

 一読してわかるように、これはドーキンズの、人間の胎児と鯨の比較論議と同じものである。これはひと言でいえば「人間だけがなぜ偉い」という、我々の周囲でもよく聞かれる議論であるが、この議論は間違っている。なぜなら人間だけが特別の存在であるのは、人間だけが偉いからでなく、人間だけに責任があるからである。...


この引用は、途中で千切れていて、インテリジェント・デザイン側のThaxtonとMeyerの主張も、批判者Dr. Robert T. Pennockの主張も正しく伝わっていない。

原文では
Thaxton and Meyer say that according to the modern view, "only man's material complexity distinguishes him from the other biological structures that inhabit the universe" (Thaxton and Meyer 1987), and they claim that this is inadequate to ground human rights. They have no truck with the possibility that moral rights could apply to nonhuman animals. Indeed, they don't want to consider man an animal at all; they believe it is critical that there be something that is "distinctively human," for otherwise it would "relegate man to the level of animals" (Thaxton and Meyer 1987).
となっており、訳は正しい。ただし、その続きが重要なのだ。ちょっと長いが続ける。
Their goal of keeping human beings categorically distinct from animals goes hand in glove with their theological grounding of dignity, and from this it is for them but a small step to the rejecdon of biological evolution.

人間を動物と決定的に区別するという彼らの目標は、尊厳の神学的基礎と背中合わせの関係にあり、それ故に、彼らにとって生物学的進化を拒否する第一歩となるのだ。

Thaxton and Meyer briefly consider the argument of those who promote "merely reiterating the Judeo-Christian doctrine of creation" as a "useful fiction," but reject it on the ground that no merely fictional doctrine will suffice to "rescue man from his current moral dilemma" (Thaxton and Meyer 1987). So, what will save man? Not belief alone. Nothing less than the truth of Divine creation. They put it this way:

ThaxtonとMeyerは、"有用なフィクション"として"ユダヤ教-キリスト教の創造と言う教義をただ繰り返し売り込む者たちの議論を、"今おかれている道徳的ジレンマから人間を救い出す"には、フィクションの教義ではまたく不足だという考えのもとに拒否している(Thaxton and Meyer 1987)。では、何が人間を救うのか?信仰だけではない。まさに神による創造という真理。彼らは次のように語る:

Judaism and Christianity do not teach that the doctrine of man's creation in the Divine image establishes his dignity. They teach that the fact of man's creation has established human dignity. (Thaxton and Meyer 1987)

ユダヤ教とキリスト教は、神のイメージにおける人間の創造という教義が、人間の尊厳を確立するのだとは教えない。それらは、人間の創造という事実が人間の尊厳を確立するものだと教えている(Thaxton and Meyer 1987)。

It is this teaching upon which their entire argument turns. To emphasize the point, they immediately restate it as their central, major thesis:

この教えこそ彼らの議論をよってたたせるものだ。この点を強調するために、彼らはただちにこれを彼らの中心的で主要な主張として言い換える:

Only if man is (in fact) a product of special Divine purposes can his claim to distinctive or intrinsic dignity be sustained(Thaxton and Meyer 1987).

人間が(実際に)神の特別な目的の創造物であることだけが、人間だけの、あるいは本質的な尊厳を持つ資格を保証できる(Thaxton and Meyer 1987)。

Dr. Pennockは、ThaxtonとMeyerが、人間の尊厳を信仰ではなく、「人間が特別な神の目的をもった創造物であるという事実」に求めていると言っているのだ。そして、それ故に、インテリジェントデザインが進化論と妥協できないのだと。
It is the reason that ID can brook no compromise with evolution, since they see evolution as incompatible with what they take to be the basic fact of man's special creation.


そして、このインテリジェント・デザイン支持者ThaxtonとMeyerの主張は、奇しくもカトリックの考え方と真逆。
"These are two visions of the origin of man that not only do not contradict each other but complete each other, on the condition that the scientist does not try to exclude any intervention of God in the formation of man and the believer does not try to find in science a confirmation of the biblical account," it said.
http://www.catholicnews.com/data/stories/cns/0506617.htm

「科学者が人間の創造に神の介入を排除しようとせず、信者が聖書の記述の確認を科学に求めようとしなければ、これら2つの人間の起源についての見かたは対立するものではなく、互いに補完しあうものだ。」(教皇庁検閲済みバチカンの雑誌記事の記事)
そう、ThaxtonとMeyerの主張はキリスト教のユニバーサルな主張ではなく、プロテスタント系の一部のものだ。

そういったところを無視して、渡辺久義先生はどうも虚空(人間と動物は同価値)に拳を放っているようだ。


渡辺久義先生うろ覚えのドーキンスの主張
ソースなしの、うろ覚えも書いておられる。
 正確な引用はできないが、かつてドーキンズはこう言ったことがある――「堕胎が罪悪であると言う人たちがいるが、胎児の脳の発達程度と鯨の脳を比べてみれば、堕胎と捕鯨のどちらがより大きな罪であるかがわかるはずだ。」この発言はどこが狂っているのであろうか。それとも全然狂っていないのであろうか。その判断を狂わせ、自信をなくさせるのが我々の自然主義的文明である。我々は人間の命と鯨の命のどちらを優先するかと聞かれれば、人間の命だと言うであろう。しかし自然主義はこれを脳の発達程度という物量に還元するのである。宇宙進化の目的論的観点から導かれる最終被造物としての人間存在の意味や価値という観点を抜きにして、もっぱら唯物論的な脳の比較によって判断するならば、ドーキンズが正しいということになるだろう。
  

とりあえず似たような執筆物をさがしてみると、
Science cannot tell you whether abortion is wrong, but it can point out that the (embryological) continuum that seamlessly joins a non-sentient foetus to a sentient adult is analogous to the (evolutionary) continuum that joins humans to other species. If the embryological continuum appears to be more seamless, this is only because the evolutionary continuum is divided by the accident of extinction. Fundamental principles of ethics should not depend on the accidental contingencies of extinction. To repeat, science cannot tell you whether abortion is murder, but it can warn you that you may be inconsistent if you think abortion is murder but killing chimpanzees is not. You cannot have it both way.
[Richard Dawkins: A Devil's Chaplain, (Paperback edition published in 2004 by Phoenix), P.39 (Amazon)]

科学は妊娠中絶が悪いことかどうかを言えないが、意識のない胎児から意識のある大人へとシームレスにつなげる(胚形成の)連続性とのアナロジーで、人類と他の種の(進化論的な)連続性を指摘できる。胚形成の連続性の方がよりシームレスに見えるとしたら、それは進化論的な連続性がたまたま絶滅によって断ち切られているからにすぎない。倫理の基本原則は、たまたまの絶滅によって左右されるべきではない。繰り返すが、科学は妊娠中絶が殺人かどうかを言えないが、君が妊娠中絶を殺人だと考えつつ、チンパンジーを殺すことはそうではないと考えるなら、科学はそれは整合性がないかもしれないと指摘はできる。君は両方の利を得られない。
[リチャード・ドーキンス:悪魔に仕える牧師]

という一節がある。ただ、この一節はそれはそれで、もちょっと変で、「倫理の基本原則は、たまたまの絶滅によって左右されるべきではない。」という信条に対して、科学は「君が妊娠中絶を殺人だと考えつつ、チンパンジーを殺すことはそうではないと考えるなら、整合性がないかもしれない」と指摘はできる...ということなのだが。(「倫理の基本原則は、たまたまの絶滅によって左右されるべきではない。」とは異なる信条・宗教の原則に対して、科学は違うことを言えるかもしれないし、何も言えないかもしれない。)

それはさておき、そもそもドーキンスはちゃんと、「科学は妊娠中絶が悪いことかどうかを言えない(Science cannot tell you whether abortion is wrong)と書いている」のに対して、渡辺久義先生は科学が価値や善悪を言えるという前提でものを書いている。その時点で、既に虚空に拳を放っている。
posted by Kumicit at 2005/12/01 23:38 | Comment(0) | TrackBack(0) | Hisayoshi | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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