どうも、絵だけで進化史をながめると、ある種の共通したイメージがわいてくるようだ。たとえば、「神に導かれて、あるいは自らの意志で、海から陸を目指した生物たち。魚たちは鰭を脚に変え、鰓を肺に変えて陸へと上がる。時に、神はその意志に応えて、新たなる能力・器官を与える。」というのは麗しい物語を。
実際。米国の世論調査で「創造」と並んで支持される「guided by god(神の導き)」[ie]を見出す人々がいる。あるいは「生物の進化する意志」を見出す人々がいる。
[Per Erik Ahlberg and Jennifer A. Clack: "Palaeontology: A firm step from water to land", Nature 440, 747-749 (6 April 2006) doi:10.1038/440747a]
これに対応するために、たとえば、バークレーの進化論のページには、「進化論についての誤解(Misconception of Evolution)」というページ群がある[訳]。
[Original]
Misconception: “Natural selection involves organisms ‘trying’ to adapt.”
Response: Natural selection leads to adaptation, but the process doesn’t involve “trying.” Natural selection involves genetic variation and selection among variants present in a population. Either an individual has genes that are good enough to survive and reproduce, or it does not---;but it can’t get the right genes by “trying.”
誤解:「自然選択は、生物が適応しようとしていることを意味します。」
正解:自然選択は適応を導きますが、その過程には「適応しようとする」ことは含まれません。自然選択は、遺伝子の多様性と、集団にいる変種たちからの選択を意味します。
個体が生き残り繁殖するに十分よい遺伝子を持っているかどうかにかかわらず、"適応"しようとすることで、正しい遺伝子を手に入れられません。
[Original]
Misconception: “Natural selection gives organisms what they ‘need.’ ”
Response: Natural selection has no intentions or senses; it cannot sense what a species “needs.” If a population happens to have the genetic variation that allows some individuals to survive a particular challenge better than others, then those individuals will have more offspring in the next generation, and the population will evolve. If that genetic variation is not in the population, the population may still survive (but not evolve much) or it may die out. But it will not be granted what it “needs” by natural selection.
誤解:「自然選択は生物が必要なものを、その生物に与えます。」
正解:自然選択には、意図や感覚はありません。自然選択は種が何を必要としているか感知できません。集団がたまたま遺伝的変異を持っていれば、ある挑戦に対してある個体は他の個体より生き延びやすくなるでしょう。それらの個体は次世代により多くの子供たちを残し、集団は進化するでしょう。遺伝的変異がその集団になければ、それでも生き延びるかもしれません(あまり進化しないが)。あるいは滅びるかもしれません。しかし、自然選択によって"必要"なものを与えられることはありません。
進化史・歴史・物語
「神に導かれて、あるいは自らの意志で、海から陸を目指した生物たち。魚たちは鰭を脚に変え、鰓を肺に変えて陸へと上がる。時に、神はその意志に応えて、新たなる能力・器官を与える。」というのは麗しい物語かもしれない.....と書いてみて、気がつくことがある。
そのように考える人は、進化史と歴史とのアナロジーで見ている、さらに歴史というより「ときには強い意志によって、ときには見えざる何かに導かれて、そしてまた、抗いがたい大きな力に流されて、進んでいく」歴史物語として見ているのではないかと思えてくる。
たとえば次のような、まったく間違った発想がありそうに思える:
暗黙のうちに、歴史物語と同じに見ていれば、これらは普通の理解になるだろう。
- 進化史は生命の"歴史"である
- (人間の)歴史が文明の発展の過程であるように、生命の"進化=進歩"の過程である。
- (人間の)歴史が人々の意志によって動くように、生命の進化もまた進化したいという意志によって進む
- (人間の)歴史は、安全や豊かさや平等など幸福を目指して進んできたように、生命の進化もまた目的を以って進んできた
さらに悠久の歴史を直観的に理解するのは簡単ではないので、「国家や文明の興亡」を「人間の一生」のアナロジーで捉えることもあるかもしれない。同様に、「種の分岐・進化・絶滅」の過程も「誕生・成長・死亡」になぞらえてしまっているかもしれない。
であれば、
- 「このような人になりたいという願いと、そうなろうとする努力によって、そのような人になる」ように「進化する意志が進化を引き起こす」と考える
- 「誰かの人生」になぞらえて、進化史から生き方や道徳を引きだしてしまう
「種と個体」を「国家と国民」になぞらえて見ていると、「進化とは、種社会の棲み分けの密度化であり、個体から始まるのではなく、種社会を構成している種個体の全体が、変わるべきときがきたら、皆一斉に変わるのである」という今西進化論との相性はとってもよくなる。「国民の覚醒によって国家が変わる」ように「種に属するすべての個体が変わることで、種が変わる」と。そして、「種が集団として変化していくのだ」と。
なお、この「種が集団として変化していく」というのは、それ自体も印象的であり、アーサー C クラーク「幼年期の終わり」や、ファーストガンダムのニュータイプなどSFのひとつのテーマともなっている。
ということで...
- 進化しようとする意志が生物にある
- 進化は進歩である
- 進化には目的がある
- 進化史から道徳や生き方を読み取れる
内村鑑三は進歩すると思って進化論みとめていましたっけ。
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そうしてこの事は哲学より見てまたしかりである。哲学最後の帰結は人格説である。人格は生命の最後かつ最高の顕現である。生命のその極に達したるもの、すなわち人格である。ゆえに万物が最高の人格に達して、その進化の極に達するのであると言うことができる。
内村鑑三:世界の最大問題(1918)
天地はおのずからできたのではない。神が造りたもうたのである。進化論といいて、物質がおのずからあらわれ、おのずから進化して天地万物となったのではない。神がこれを造りたもうたのである。
...
聖書は巻頭第一に「元始に神、天地を創造りたまえり」ととなえて、ダーウィンの進化論を排し、スピノーザの汎神論をしりぞけたのである。
内村鑑三:聖書注解 創世記第1章第1節 (1919)
余は神の存在を認めざる進化論を信じない。
もちろん、かかるものを信じない。
されども進化の在ることは確かである。
進化は、ある計画の漸次的発展である。
神は一日の内に宇宙を造りたまわなかった。
内村鑑三:聖書之研究 (1922/07)
箴言のこのことばの示すところのものは、第一に知恵の前在である。第二にその人格性である。その第一についていわんに、さきに知恵があって万物が成ったのであって、万物あってその内から知恵が現われたのでない。すなわち知恵は進化の原因であってその結果でない。われらが三章十九節において読んだとおりである。
内村鑑三:聖書之研究 (1925/05)
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