2008/09/25

気候変動をなめてかかっていいものではない

その昔、ある国で、農地が砂嵐に埋もれ、250万人が移住することになったという。この写真はそんな難民の一家族を写したものだ。
MigrantMother.jpg
[Link]
いったい、これはどこの話かというと....

なんと、1930年代の米国の話だ。

当時、南部大平原にダストボウルと呼ばれる領域があった。かつての大草原は小麦畑や放牧地となり、過耕作・過放牧で地力は落ちていた。1920年代は雨も多く、何事もなく平和に時が流れていった。そして、1930年代、一転して平年を下回る降水量の年が続いた。
precipUS.jpg
mapUS.jpg
砂嵐が農地を、住宅地を襲うようになった。この砂嵐はブラックブリザードと呼ばれた。そして、このブラックブリザードの吹き荒れる領域はダストボウルと呼ばれた。
1934SouthDakotaBlackBlizzard.jpg
[South Dakota 1934]

black_blizzard_texas_1935_photo11.jpg
[Texas 1935]

dust_kansas_1935.jpg
[Kansas 1935]
雨が少なかったことがダストボウルを生み出した直接の原因だが、そもそも降水量は一定であるはずもない。ときには少雨が続くこともあるのが自然。たまたま雨が多いときに、過耕作・過放牧をしていても問題が起きなかっただけ。その意味で、異常気象かつ人災と評せられる。

そんな場所を追われて、1/4の農民たちが西のカリフォルニアなどへと移住していった。その数は250万人。
[People & Events - Mass Exodus from the Plains on PBS]

"The land just blew away; we had to go somewhere."
-- Kansas preacher, June, 1936

旱魃とダストストームが終わる兆候が見られないまま、多くの人々は自らの土地を諦めた。また、自分たちの土地に留まろうとし多くの人々も、請け戻し権喪失で土地を追い出された。そして、人口の1/4が離れて、持てるもおを車やトラックに詰め込んで、西に向かってカリフォルニアを目指した。

3/4の農民たちが自分たちの土地に留まったが、特定の場所では大量流出によって人口が劇的に減少した。オクラホマ州のBoise Cityの外側の田園地帯では40%減少し、1642の農家とその家族が定住するにとどまった。

ダストボウルの大量流出は米国市場最大の移民となった。1940年までに250万の人々が大平原の州から流出し、20万人がカリフォルニアへ移住した。1935年のCollier雑誌によれば、彼らが州境にたどりついても、温かく迎えられることはなかった。
直立して厳寒な態度で、男性はヒンジもベアリングも継ぎ手も軋むポンコツ自動車の運転手に向かって「カリフォルニアの保護名簿は満杯です。来ても無駄です」と叫んだ。半ば虚脱状態の運転手は、その男を無視して、後ろを振り向いて、彼の多くの家族がまだいっしょにいることを確かめた。家族はぎゅうぎゅうに押し込めらていたので、出れなかった。小ぎれいな州警察官のような青年は「本当に、ここにはあなたがたに用意できるものは何もありません。本当に何もないのです」と言った。軋む車の絶望した男は、青年をのろのろと無感情に、信じられないくらい疲きって見つめて「それで? 私たちに残されたものを見てください」と言った。
Los Angeles警察署長は最大125名の警察官を用心棒として州境に配備して、好ましからざる者たちを追い返させた。..
事態の推移は次のようなものだった:
[Timeline of The Dust Bowl on PBS]

1931年
ひどい旱魃が中西部および南部平原を襲った。作物は枯れ、砂嵐"Black Blizzard"が始まった。耕されすぎた土地、家畜が草を食べすぎた土地から砂が吹き飛ばされ始めた。

1932年
砂嵐の回数が増え始めた。この年は14回、翌年は38回の砂嵐が記録されている。

1933年3月
フランクリン・ルーズベルトが大統領に就任したとき、この国は窮境にあった。彼はただちに4日間の銀行休業を布告して、時間をかせいで1933年緊急銀行法を議会で成立させ、連邦政府による保証によって、銀行業を安定化させ、金融システムに対する人々の信頼を回復した。

1933年5月
担保受け戻し権喪失に危機にある農民たちを救うために2億ドルの緊急農業融資を実施。1933年の農業信用法により、地域銀行と地域保証協会を設立。

1933年9月
豚肉価格安定化のために600万頭以上の若い豚が屠殺された。その肉の大半は廃棄されることになったが、これに対する大衆の抗議により10月にFederal Surplus Relief Corporation (連邦余剰生産物支援公社)が設立された。FSRCは農産物を支援機関へ回した。林檎・豆・牛肉缶詰・小麦粉や豚肉加工品、さらには綿製品までが地域支援チャネルへと回された。

1933年10月
農場での日雇いの働き口を求めて平原から農民たちが逃れてきたカリフォルニアのサンホアキン・ヴァリーで、アメリカ史上最大の農業のストライキが起きた。18,000人を越える缶詰工場および農業労働者産業別労働組合(CAWIU)に所属する綿労働者たちが24日間ストライキを行った。ストライキ中に、2人の男性および1人の女性が殺され、何百人もの人々が負傷した。農場経営者が組合を認め、労働者の賃金を25%あげることで解決した。

1934年5月
大きな砂塵嵐はダストボウル領域から外へと広がった。旱魃は米国の75%以上にもおよび、27州に甚大な被害を与える米国史上最悪の事態となった。

1934年6月
Fraizer-Lemke農場破産法が承認された。この法律により経済的に困窮状態のときに農民から財産を没収する銀行の権利は制限された。もとは1938年までに時限立法だったが、1947年まで4回延長された。
ルーズヴェルト大統領はTaylor Grazing 法に署名した。これにより権利消失によって国有地となった土地を最大1億4000万エーカーまでを、注意深い観察下におく放牧地とすることができるようになった。これは、過耕作と過放牧によって痛めつけられた土地を回復するためのニューディール政策のひとつであった。ただ、これ以上の土地の悪化を阻止出来たものの、これまでに与えられた被害を回復することは叶わなかった。

1934年12月
「1934年農業年鑑」に、「かつて耕作されていた土地のおよそ3500万エーカーは、作物生産のために本質的に破壊された。... 1億エーカーの耕作中の土地でも表土の大半あるいはすべてが失われた。さらに耕作中の1億2500万エーカーも急速に表土を失っている。」と記載された。

1935年 1月15日
連邦政府は、Drought Relief Service(旱魃救援機関)を組織した。DRSは緊急対策地域に指定された郡の牛を1頭あたり14ドルから20ドルで買い上げた。人の食用に適さない牛は廃棄された(買い上げ措置開始時は買い上げ分の50%)。残りの牛は全米家庭への食料配給のために、Federal Surplus Relief Corporation (連邦余剰生産物支援公社)に回された。農民たちは牛たちを望んで廃棄したわけではなかったが、この牛屠殺プログラムによって多くの農民が破産を逃れることができた。「政府の牛買い上げプログラムは農民に対する神の賜物となった。彼らは牧畜を続けることができず、彼らが地方市場で牛を売って手にできる金額よりも高い価格で政府が牛を買い上げた。」

1935年4月8日
ルーズベルト大統領は緊急救済歳出予算法を承認した。これは旱魃被害救済に5億2500万ドルを支出し、850万の雇用を創出するWorks Progress Administration(雇用促進局)の創設を承認するものだった。

1935年4月14日
ブラックサンデー。ダストボウルで最悪の「ブラックブリザード」が発生し、広範囲に甚大な被害をもたらした。

1935年4月27日
議会はSoil Conservation Service(土壌保全局)(もとは内務省土地浸食局)を農務省に置く法律において、土壌浸食を「全米的脅威」と記した。Hugh H. Bennettの指揮のもとで、SCS(土壌保全局)は表土保全と土壌への回復不可能な損害を防止する広範囲な保全プログラムを開発した。帯状栽培、段々畑、輪作、等高線式耕作およびカバー作物のような農業技術が推奨された。また農民には表土保全のための農業技術を実施するために補助金が支払われた。

1935年12月
コロラド州Peubloでの会合で、専門家は、南部平原では8億5000万トンの表土が1年で失われており、もし旱魃が続くようなら、1936年春までに被害地域は435万から535万エーカー増加するだろうとの推測を述べた。 Resettlement Administration(再定住局)のC.H.Wisonは225万エーカーを買い上げ、耕作を放棄することを提案した。

1936年2月
Los Angeles 警察署長Jame E. Davisは、「好ましくない人物」を中に入れないようにパトロールする警官をアリゾナおよびオレゴンとの州境に125人派遣した。これに対して、 American Civil Liberties Union(米国自由人権協会)は市を訴えた。

1936年5月
SCSは土壌保全改良地区法案を発表した。州を通過すれば、農民が5年間にわたって土壌保全改良事業を推進するために自分たちの地域を組織することを可能となる。まだわずかにニューディールで組織された草の根組織のひとつが運営をしているだけだったが、土壌保全改良地区プログラムが新しい農業方法として必要だと、ワシントンの官僚ではなく農民に求められる必要があることが明らかとなった。

1937年3月
ルーズヴェルトは2期目の就任演説で国民に語りかけた。「わたしは、国民の3分の1が、衣食住に事欠いているのを目にしています。進歩とは有り余るほどのもを持っている人々の富をさらに増やすことではなく、ほとんど持てるものがない人々に十分なものを与えることができるかによって測られるべきです。」
ルーズベルト大統領の防風林プロジェクトが始まった。そのプロジェクトはthe Great Plains(大平原)を横切ってカナダからテキサス州北部まで幅100マイルのゾーンを大規模な植林を要求していた。Red Cedar(米杉)やGreen ash(ホワイトアッシュ)などの在来の樹が地所を分かつ柵に沿って植林された。農民たちは植林に従事し、賃金を受け取った。プロジェクトは12年の機関と7500万ドルかかると予測されていた。この予算をどこからだすかについて議論がもちあがり(このプロジェクトは長期戦略であると考えられたので、緊急救済資金をあてるのは不適切だった)、ルーズベルト大統領はこのプログラムをWPA(雇用促進局)へ移管した。このため成果は限定的だった。

1938年
広範な再耕作、防風林の植林やその他の土壌保全事業により地肌が露出した面積は65%削減された。しかし、まだ旱魃は続いていた。

1939年
秋に雨が降り旱魃の終わりが始まった。続く数年の第2次世界大戦までに、米国は不況を抜け出し、平原は小麦で金色に輝いた。
結局、旱魃の終わりまで、ダストボウル対策は効果が出なかった。

米国中西部を襲った、高々10年ごときの旱魃で、この有様。80年前とはいえ、世界で最も豊かな大国で数十万規模の国内難民という事態を招いた。気候変動をなめてかかっていいものではないという過去の例だ。


posted by Kumicit at 2008/09/25 09:21 | Comment(0) | TrackBack(0) | Sound Science | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]


この記事へのトラックバック