Steven Pinkerを切り刻んだ例を前回扱ったが、まだまだある。
ということで、今日は、Daniel Dennettの"Darwin's Dangerous Idea"(ダーウィンの危険な思想)から。緑文字はRichard Weikartによる引用部分:
At what "point" does a human life begin or end? The Darwinian perspective lets us see with unmistakable clarity why there is no hope at all of discovering a telltale mark, a saltation in life's processes, that "counts." We need to draw lines-, we need definitions of life and death for many important moral purposes. The layers of pearly dogma that build up in defense around these fundamentally arbitrary attempts are familiar, and in never-ending need of repair. We should abandon the fantasy that either science or religion can uncover some well-hidden fact that tells us exactly where to draw these lines. There is no "natural" way to mark the birth of a human "soul," any more than there is a "natural" way to mark the birth of a species. And, contrary to what many traditions insist, I think we all do share the intuition that there are gradations of value in the ending of human lives. Most human embryos end in spontaneous abortion-fortunately, since these are mostly terata, hopeless monsters whose lives are all but impossible. Is this a terrible evil? Are the mothers whose bodies abort these embryos guilty of involuntary manslaughter? Of course not. Which is worse, taking "heroic" measures to keep alive a severely deformed infant, or taking the equally "'heroic" (if unsung) step of seeing to it that such an infant dies as quickly and painlessly as possible? I do not suggest that Darwinian thinking gives us answers to such questions; I do suggest that Darwinian thinking helps us see why the traditional hope of solving these problems (finding a moral algorithm) is forlorn. We must cast off the myths that make these old-fashioned solutions seem inevitable. We need to grow up, in other words.これをRichard Weikartは切り刻むのだが...
人間の生命はどの「時点」で始まり、どの「時点で」終わりを告げるのだろう。ダーウィン的視点は、生命のプロセスでは「決定的意味を持つような」隠れもなき指標を「発見する」見込みが、つまりは跳躍点というものを「発見する」見込みが、どうしてまったくないのかを、誤解の余地なくはっきり分からせてくれる。私たちは線を引くことを求める。つまり私たちは、多くの重要な道徳的目的から、生命の定義と死の定義を必要とするのである。こういう根本的に恣意的な試みの周りで防衛的に盛り上がってくる真珠のようなドグマの層は、たしかにおなじみのものではあるが、修復を果てしなく必要としている。ズバリどこでこういう線を引いたらよいのかを私たちに教えてくれるような何かうまく隠された事実を、科学か宗教のいずかが暴いてくれるのだというファンタジーは、捨てなければならない。人間の「たましい」の誕生を印づけるような「自然的」方法が存在しないと同じである。思うに、私たちは誰も、多くの伝統が主張しているところとは反対に、人間的生命の終焉という点にかけては、価値の漸進的移行というものが存在するのだという直観を分かち持っている。人間の胎児のほとんどは -- 幸いにも -- 自然発生的流産を通して最期をとげる。なぜなら、彼らの大半は生命としてはほとんど成り立つことのない「怪物」だからである。このことはそら恐ろしい悪であろうか。その肉体がこうした胎児を流産してしまう母親は、過失致死の罪を犯しているのだろうか。もちろんノーである。重症の奇形を負った乳児を生かそうと「英雄的な」手段をとることと、こうした乳児ができるだけ速やかに、かつまた苦しまずに死ぬように見計らう(歌にたたえられることはないにしても)これまた同じように「英雄的な」ステップを踏むのとでは、いったいどちらがいけないことなのだろう。私は何もダーウィン的思考がこういう疑問に答えてくれるなどと言おうとしているのではない。むしろ私が言いたいのは、ダーウィン的思考は、こういう疑問を解決してくれるという(つまりは道徳的アルゴリズムを見出してくれるという)伝統的希望になぜ見込みがないのかを、私たちに分からせてくれるということである。こういう旧来の解決法を不可避のものだと思わせてしまうような神話には、見限りをつけることが必要なのだ。
[ダニエル C デネット (山口泰司監訳) ダーウィンの危険な思想 p.694]
その前に、Daniel Dennettの記述のうち"Most human embryos end in spontaneous abortion-fortunately, since these are mostly terata, hopeless monsters whose lives are all but impossible. "について。ここは訳ではなく英文そのものが間違っている。「染色体異常の受精卵は、卵割から着床前後で消滅したり、流産になったり、胎内で死亡したりで、ほとんど出生するに至らない」が正しいはず。
ただし、この部分にはRichar Weikartは意図的に削除して、次のように切り刻んでいる:
Singer and Rachels are not the only prominent philosophers arguing that Darwinism undermines the sanctity of human life. In Darwin's Dangerous Idea the materialist philosopher Daniel Dennett argues that Darwinism functions like a "universal acid," destroying traditional forms of religion and morality. In confronting the issue of biomedical ethics, Dennett asks, "At what 'point' does a human life begin or end? The Darwinian perspective lets us see with unmistakable clarity why there is no hope at all of discovering a telltale mark, a saltation in life's processes, that 'counts.'" Because of this, Dennett argues, there are "gradations of value in the ending of human lives," implying that some human lives have more value than others. After using his Darwinian acid to dissolve the sanctity-of-life ethic, Dennett wonders, "Which is worse, taking 'heroic' measures to keep alive a severely deformed infant, or taking the equally 'heroic' (if unsung) step of seeing to it that such an infant dies as quickly and painlessly as possible?" Darwin's Dangerous Idea is apparently especially toxic to disabled infants. [12]何故、Richard Weikartが「(染色体異常による)流産」に触れなかったのか。もちろん、「できるだけ速やかに、かつまた苦しまずに死ぬように見計ら」っている対象が、染色体異常である「生命としてはほとんど成り立つことのない怪物」であり、「見計らう」の主語が母胎と胎児そのものだから。
SingerとRachelsだけが、ダーウィニズムが人間の生命の尊厳を蝕むと論じる著名な哲学者ではない。「ダーウィンの危険な思想」で、唯物論哲学者Daniel Dennettはダーウィニズムが『万能酸』として機能し、伝統的形態の宗教と倫理を破壊すると論じている。生医学倫理の問題と対決して、Dennettは問う。『人間の生命はどの「時点」で始まり、どの「時点で」終わりを告げるのだろう。ダーウィン的視点は、生命のプロセスでは「決定的意味を持つような」隠れもなき指標を「発見する」見込みが、つまりは跳躍点というものを「発見する」見込みが、どうしてまったくないのかを、誤解の余地なくはっきり分からせてくれる。』これ故に、Dennettは『人間的生命の終焉という点にかけては、価値の漸進的移行というものが存在する』と論じる。これは、ある人間が他の人間より価値があることを意味する。彼のダーウィンの万能酸を使って、生命の尊厳の倫理を溶かした後、Dennettは迷う。『重症の奇形を負った乳児を生かそうと「英雄的な」手段をとることと、こうした乳児ができるだけ速やかに、かつまた苦しまずに死ぬように見計らう(歌にたたえられることはないにしても)これまた同じように「英雄的な」ステップを踏むのとでは、いったいどちらがいけないことなのだろう。』 「ダーウィンの危険な思想」は、障害児に対して明らかに特に毒物である。
[12] Daniel Dennett, Darwin's Dangerous Idea: Evolution and the Meanings of Life (NY, 1995), ch. 18.
ここで、Richard Weikartは、Daniel Dennettの記述を「誕生後の乳児」を「人間が意図的に処分する」話に見せかけているた。そうすることで、「人間的生命の終焉という点にかけては、価値の漸進的移行というものが存在する」を「流産」の話から「誕生後の人間の価値」の話にすり替えた。
結局、長めのパラグラフから3文を切りだして、「ある人間が他の人間より価値があることを意味する」を補って、「流産の子」を「障害児」に置き換えるという、かなりアクロバチックなQuote Minigになっている。
ということで、やっぱり、Richard Weikartの執筆物の"引用"はすべてオリジナルにあたらないと、とても信用できない。
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