しかし、インテリジェントデザイン運動の始動以後、有神論的進化論の破壊に成功していない。なので、インテリジェントデザイン支持者たちは、繰り返し同じ主張を表明している。たとえば、2008年春には、インテリジェントデザインの本山たるDiscovery InstituteのBruce Chapman所長が次のように書いている:
Scholars seeking a compromise that brings religion directly into the scientific discussion have offered the comforting possibility that God did the creating, but did it through Darwinian evolution. Guidance of an unguided process is the idea. But this vague proposition contradicts what almost all leading Darwinist scientists, including Dawkins, emphatically contend. In Darwin's universe, natural selection is blind, mutations are undirected and humanity is an unintended outcome. If the evolutionary process is guided, then it no longer is Darwinian. And if the evolutionary process is unguided, it allows no room for God. Logically, not even God can guide an unguided process.これと同じネタは11年前の、統一教会信者にしてインテリジェントデザイン支持者Jonathan Wellsの執筆物にも見られる:
科学議論に直接宗教を持ち込んむ妥協を求める学者たちは、神は創造したが、それはダーウィン進化を通してであるという可能性を提示した。導かれない過程の導きというのが、その考えである。しかし、この漠然とした提案は、Dawkinsを含む、ほとんどすべての主要なダーウィニストたちが断固として主張しているものと矛盾する。ダーウィンの世界では、自然選択は盲目であり、突然変異は導きを受けず、人類の出現は意図せざる帰結にすぎない。進化過程が導かれたものというなら、それはもはやダーウィン進化ではない。そして、進化過程が導かれざるものであるなら、それには神の余地はない。論理的に、神であっても、導かれざる過程を導けない。
[Bruce Chapman: "An Intelligent Discussion about Life" (2008/04/17) on The Seattle Times]
Darwin's Denial of Design is a Serious Problem for Christians and Other Theistsこれらの指摘は、「自然界への神の超自然的介入があることがキリスト教の教義」であるとするなら、正しいものだ。そして、それは「進化論が正しければ、キリスト教は詐欺である」ことを意味している。
If we are undesigned by-products of a purposeless process, then the biblical doctrine that we are created in the image of God is false. Yet it is a central doctrine of Christianity (and of other theistic religions such as Islam and Judaism) that God created human beings by design.
我々がデザインされておらず、無目的な過程の産物であるなら、我々が神の似姿で創造されたという聖書の教義は誤りである。神が人間をデザインして創造したというのは、キリスト教とユダヤ教とイスラム教の中心的教義である。
Many people have been given the impression that the chronology of Genesis is the root of the conflict between Christianity and Darwinism. Surprisingly, however, biblical chronology played almost no role in the initial opposition to Darwin's theory, because most Christians in the nineteenth century accepted geological evidence for the age of the earth. Nor was chronology an issue at the 1925 Scopes trial, because creationist William Jennings Bryan accepted the old-earth view. Historically and theologically speaking, the basic conflict between Christianity and Darwinism is not chronology, but design.
多くの人々は創世記の年代がキリスト教とダーウィニズムの対立の根源だという印象を持っている。しかし、驚くべきことに聖書の記述する年代は、ダーウィンの理論についての初期の対立では何の役割も担っていない。というのは19世紀のキリスト教徒の大半は地球の年齢の地質学的証拠を受け入れていたからだ。1925年のScope裁判でも年代は問題になっていない。というのは創造論者William Jennings Bryanは古い地球の見方を受け入れていたからだ。歴史的および神学的に言って、キリスト教とダーウィニズムの対立の基本は年代ではなくデザインだった。
Some theists try to avoid problems by accepting everything that Darwinists tell us except their denial of design. But Darwinism assumes that naturalism has a complete explanation, at least in principle, for all of objective reality; so theists who accept Darwinism are left with a purely subjective religion, and design becomes a figment of our imagination.
一部の有神論者はデザイン否定以外のダーウィニズムすべてを受け入れて問題を回避しようとした。しかし、ダーウィニズムは少なくとも原理的にすべての客観的事実について、自然主義が完全な説明を与えると仮定している。従って、ダーウィニズムを受け入れる有神論者は純粋に主観的な宗教にとどまり、デザインは我々のイマジネーションの産物となる。
Despite the good intentions of those who attempt to reconcile Darwinian evolution and theistic religion, a serious conflict remains between the two. Theists who accommodate themselves to Darwinian evolution generally find themselves patronized and marginalized. But do theists have to accept Darwinian evolution?
ダーウィンの進化論と有神論宗教を調停しようとする人々の意図は良いのだが、これら二者には深刻な対立が残される。一般にダーウィン進化論に合わせる有神論者は、恩着せがましくされて、置き去りにされることに気づく。しかし、有神論者はダーウィンの進化論を受け入れなければならないのだろうか?
[Jonathan Wells: "Evolution and intelligent design" (1997/06/01) on Discovery Institute]
しかし、そのような形で自然界の知識と戦うというのは、キリスト教の伝統というわけではない。地球平板を前提とする旧約聖書の記述に対して、地球が球体であると言うギリシアの知識を調停することは、少なくとも4世紀末には行われていた:
世界の中心で平衡を保っている地球を、大空がいわば球のように全方向から包んでいるのか、あるいはいわば皿のごとき地球を上方一方からだけおおっているのかといった問題が、わたしに何の関わりがあろうか。地球の年齢が6000歳でないことが明らかになると、コンコーディズムという形式の聖書解釈が登場した。そして、その後は、自然界についての知識の増大と更新に追従できなくなったコンコーディズムが姿を消して、聖書に自然界についての知識を求めない方向に向かっている。
われわれの著者たちは、天体の形状について真理であることを知っていたが、これらの人々を通して語りたもう神の霊は、救いに何ら益ないことを人々に語ろうとは望まれなかったのだと。
[アウグスティヌス (著), 片柳 栄一 (翻訳):アウグスティヌス著作集 第16巻 創世記注解, 教文館,1994 第2巻第9章20 p.53]
ついでだが、Jonathan Wellsの「驚くべきことに聖書の記述する年代は、ダーウィンの理論についての初期の対立では何の役割も担っていない。...1925年のScope裁判でも年代は問題になっていない。というのは創造論者William Jennings Bryanは古い地球の見方を受け入れていたからだ。」という記述の確認をしておく。
Timesの記事によれば、Scope裁判の検察側Bryanは、ノアの洪水を信じていたが、創造の6日間が文字通りの1日=24時間ではなく数100万年以上かもしれないと考えていた:
In the course of a two-hours examination, Mr. Bryan confessed his belief that a big fish swallowed Jonah, though he did not insist on the literal interpretation of "men are the salt of the earth." He accepted the Bible story that Joshua commanded the sun to stand still, though himself believing that the earth revolved round the sun. Asked what would have happened if the earth had stood still, Mr. Bryan replied that God could have taken care of that occurrence. The Flood story he believed literally, with probable date 2348 B.C., when all living things not contained in the Ark were destroyed, excepting, perhaps, fishes. He had not seen satisfactory evidence that there had been civilizations more than 5,000 years ago, though he had never questioned any scientist about it. Mr. Bryan thought Chinese civilizations would not have preceded the Bible creation 6,000 years ago. He had never tried to discover the number of the inhabitants of Ancient Egypt nor read books on primitive religions. Being so well satisfied with Christianity, he had not spent time trying to find arguments against it. From the Bible he inferred that the confusion or tongues began at the Tower of Babel, about 2230 B.C., and that previously all people spoke a single language. The earth's age he would not attempt to guess, nor the date of the last glacial age, but Mr. Darrow's. examination brought out that Mr. Bryan did not believe that the earth was made in six days of 24 hours each. Days there, he said, meant periods, and he admitted that the Creation might have continued for millions of years. He accepted literally the story of Eve's creation from Adam's rib and of the serpent's tempting of Eve with an apple.
2時間の尋問で、Bryan氏は「人は地の塩である」という記述を字義どおり解釈することは意図しないが、大魚がヨナを呑み込んだことを信じていることを認めた。Bryan氏自身は地球が太陽のまわりを公転していると思っているが、ヨシュアが太陽に静止するように命じた聖書の物語を受け入れていると述べた。地球が静止したら何が起きるかと問われたBryan氏は、神が何とかしてくださると答えた。おそらく魚以外の箱舟に載っていない生物たちが死滅したという、紀元前2348年と推定されるノアの洪水を、Bryan氏は字義どおり信じている。Bryan氏は科学者に聞いたことはないが、5000年以上前に文明が存在したという満足できる証拠は見たことないと述べた。Bryan氏は中国文明が6000年前の聖書の創造より前には存在しなかっただろうと考えている。Bryan氏は、古代エジプトの人口について、調べようともしなかったし、原始宗教についての本を読もうともしなかった。Bryan氏はキリスト教にとても満足していて、それに対抗する議論を見つけることに時間を費やさなかった。Bryan氏は聖書に基づき、言語の混乱が紀元前2230年のバベルの塔から始まり、それ以前は、すべての人々が一つの言語を話していたと推測した。Bryan氏は地球の年齢や最後の氷河期の年代も推測しようとしなかったが、Darrow氏の尋問によって、地球は1日を24時間とする6日間で創造されたとは信じていないことを認めた。Bryan氏は日が期間を意味し、天地創造が何百万年も続いたかもしれないと認めた。Bryan氏はアダムの肋骨からイブが創造されたことや、蛇がリンゴでイブを誘惑したことは受け入れていることを認めた。
[Times (1925/07/22) quoted in Scopes裁判についての当時のTimesの記事]
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