前回の繰り返しになるが...
- 自然科学は方法論的自然主義の原則のもと、超自然に言及しない。従って、超越的神はその存否も含めて取り扱い対象外としている。
- 自然科学は実験・観察・観測など経験的に検証なものを対象とする。従って、目的・存在理由など、実験・観察・観測などによって検証不可能なものは、取り扱い対象外。
超越的神や存在理由や目的といったものは、形而下学と呼ぶべき自然科学(φυσικά)ではなく、哲学の一分野である形而上学(μεταφυσικά)が取り扱う。
これを前提として、一般法則論者氏のコメントを見ていこう:
この世界の成り立ちと仕組みの発見と理解に関して、物質に関する科学的な世界観が全てで絶対のようですね。一般法則論者氏も、「ヒトの生き方の原理」は「科学と同じ方法論で客観的に発見」できると言っている。つまり、方法論は同じだが自然科学とは別なる手段で行うのだと。
天然自然の存在の創造主である神がいるかいないか、ヒトの生き方の原理があるかないか、あるとすればそれはどんなものかは、これらが既に全てのヒトにとって客観的にかつ確定的に決まっている世界にあとから生まれた私達からみれば、それを自然科学がやっているように、科学と同じ方法論で客観的に発見することができますし、またこれをしなくてはなりません。
その手段は、形而上学(metaphysics)である。形而上学、超自然への言及と経験的に検証不可能な問題の取り扱いという、自然科学にできないことをやるもの。自然科学に対してメタなポジションにあるが、それは主観あるいは机上の空論を意味しない
そして、しつこいようだが、Kumicitは以下の点を否定していない:
例えば物質を作っている根源の仕組みが分かっても、ヒトとしての生き方がそこから出てこないことを一般法則論では問題にしています。自然科学は「ヒトとしての生き方」など探求できない。だから、別途、形而上学という分野がある。
ただし、実験・観察・観測によって検証できない分野である形而上学は、その分、難しい。たとえば、一般法則論者氏のコメントも論証の対象となる:
これを明らかにしないと、人類が今抱えて居る問題の解決ができません。ヒトの生き方の原理はこの世界の成り立ちと仕組みの一部です。これを無視し続けていては ヒトとして何時までもまともに生きることが出来ません。「ヒトの生き方の原理」とは何であり、「世界の成り立ちと仕組み」とは何であるか定義しなければならない。そして「ヒトの生き方の原理」が「世界の成り立ちと仕組み」の一部であることを論証する必要がある。もちろん「まともに生きる」とは何なのかも定義しなければならない。
ということで、なんか、面倒そうなので、Kumicitは手を出していない。興味もないので今後も手を出すことはないだろう。
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