2006/01/02

カトリックからID理論そして創造科学を見ると

カトリックは、聖書の字義通りの解釈や、"God of the gaps"論のような形の神の扱いを採用していない。それを明瞭に示しているネット上の記事を紹介してみよう。ひとつは、バチカン観測所長George Coyneの記事。もうひとつは、英知大学元教授である和田幹男司祭(バチカン留学9年な人)。


バチカンのGeorge Coyneはインテリジェントデザインを批判して...

カトリックからインテリジェントデザインをどう見ているか。明瞭に発言しているのはバチカン観測所(教皇庁の天文研究と教育機関であり本部はイタリアCastelgandolfoの教皇の夏の別邸、付属観測施設はアリゾナ大学Steward観測所がホストしている)のGeorge Coyneだろう。このGeorge Coyneの発言がイギリスのカトリック誌"The Tablet"(サイトに掲載されている。その記事「Infinite wonder of the divine (2005/10/12)」原文(要登録),キャッシュによれば

Did all of this happen by chance or by necessity in this evolving universe? Was it destined to happen? The first thing to be said is that the problem is not formulated correctly. It is not just a question of chance or necessity because, first of all, it is both. Furthermore, there is a third element here that is very important. It is what I call “fertility”. What this means is that the universe is so prolific in offering the opportunity for the success of both chance and necessary processes that such a character of the universe must be included in the discussion. The universe is 13.7 billion years old, it contains about 100 billion galaxies each of which contains 100 billion stars of an immense variety. Thus it is the combination of chance and necessary processes in a fertile universe that best explains the universe as seen by science. When we combine these three elements: chance, necessity and the fertility of the universe, we see clearly that evolution, as many hold, is not simply a random blind process. It has a direction and an intrinsic destiny. By intrinsic, I mean that science need not, and in fact cannot methodologically, invoke a designer as those arguing for intelligent design attempt to do.

この進化する宇宙でこれらすべては偶然か必然によって起きたのでしょうか?起こるべく運命付けられていたのでしょうか?まず言えることは、この問いが正しく問われていないということです。偶然か必然かという問いではないのです。それは、そもそも両方だからです。さらに言うなら、非常に重要な3つめの要因があります。それは「肥沃(fertility)」と呼ぶものです。これが意味するものは、偶然あるいは必然的過程による結果が起きる機会を与えるに宇宙は十分に肥沃であり、こららの宇宙の性質は議論に含められるべきものだということです。宇宙の年齢は137億年であり、それは非常に多様な1000億の星を含む1000億の銀河から構成されています。科学によって明らかにされる宇宙の最良の説明は、肥沃な宇宙での偶然と必然の過程の組み合わせです。我々はこれらの3つの要因、偶然・必然・宇宙の肥沃さを組み合わせれば、多くが考えるように進化論は単なるランダムな盲目の過程ではありえないことがわかります。それは指針(direction)と本質的な運命を持ちます。"本質的"とは、インテリジェントデザインが求めるようなこれらの議論にデザイナーを加えることは、科学は必要としないし、実際に機械論的にも加えられないことを意味します。

How are we to interpret this scientific picture of life’s origins in terms of religious belief? Do we need God to explain this? Very succinctly, my answer is no. In fact, to need God would be a very denial of God. God is not the response to a need. One gets the impression from certain religious believers that they fondly hope for the durability of certain gaps in our scientific knowledge of evolution, so that they can fill them with God. This is the exact opposite of what human intelligence is all about. We should be seeking for the fullness of God in creation. We should not need God; we should accept him when he comes to us.

宗教的な信仰において、科学が記述する生命の起源の構図をどう解釈すべきでしょうか?これらを説明するのに神は必要でしょうか?私の答えは非常に簡潔にノーです。実際、神を必要とするということは神の否定でしかありません。神は必要に応えるものではありません。そのような宗教的信仰者からは、我々の進化論の科学的知識の隙間が永続することを期待して、その隙間を神で埋められると考えるという印象を受けます。これは人間の知性すべてと全く相反するものです。我々は創造における神の完全さを求めるべきです。我々は神を必要とすべきではありません。我々は神が我々のもとへ切るのを受け入れるべきなのです。

But the personal God I have described is also God, creator of the universe. It is unfortunate that, especially in America, creationism has come to mean some fundamentalistic, literal, scientific interpretation of Genesis. Judaic-Christian faith is radically creationist, but in a totally different sense. It is rooted in a belief that everything depends upon God, or better, all is a gift from God. The universe is not God and it cannot exist independently of God. Neither pantheism nor naturalism is true. God is working with the universe. The universe has a certain vitality of its own like a child does. It has the ability to respond to words of endearment and encouragement. You discipline a child but you try to preserve and enrich the individual character of the child and its own passion for life. A parent must allow the child to grow into adulthood, to come to make its own choices, to go on its own way in life. Words that give life are richer than mere commands or information. In such wise ways does God deal with the universe – the infinite, ever-expanding universe. That is why, it seems to me, that the Intelligent Design Movement, a largely American phenomenon, diminishes God, makes him a designer rather than a lover.

しかし、私が述べた神はまた宇宙の創造者たる神です。不幸なことに、特に米国では創造論が聖書の根本主義的、字義通りの、科学的解釈を意味するようになっていきています。ユダヤ=キリスト教の信仰はラディカルに創造論ですが、意味がまったく違います。それはすべてのものが神に依るもの、よくいえば神からの贈り物であるという信仰に根ざしています。宇宙は神ではなく、神なしで存在できないもの。汎神論も自然主義も、真実ではありません。神は宇宙とともにあります。宇宙は子供のように自らのいわば活力があります。宇宙はに親愛と励ましの言葉に応じる能力があります。あなたは子供を教育するでしょう。しかし、あなたは子供の個々の性格と人生に対するそれ自身の情熱を持って、豊かにしようとするでしょう。親は子供が成人になるのを許さなければなりません。そして、子供は自身の選択をするようになります。そして、その選択は人生における子供自身の方法に基づくものです。人生を捧げる言葉は、単なる命令または情報より豊穣です。そのような賢明なる方法で宇宙を扱うなら、神は宇宙を無限の絶えず拡大するようにするでしょう。従って、私は特に米国の現象であるインテリジェントデザイン運動は、神を矮小化し、神を愛するものではなく、設計者にしてしまうと思えるのです。


ちょっと長々しい引用になってしまったが、George Coyneの主張は

  • 神様は子供に命令や指示をするようなちっこい親ではない。子供に自らの道を歩ませるような言葉を送るもの。
  • インテリジェントデザイン論者は進化論の隙間を見つけて、そこが永遠に隙間だと期待して、神で埋めようとしている。
というもの。それでは神を矮小化するだけだとGeorge Coyneはインテリジェントデザイン論者を批判している。

和田幹男氏は聖書と自然科学について....
教皇庁立ウルバノ大学神学博士学位を持つ英知大学元教授でカトリック箕面教会主任司祭である和田幹男氏によれば
そもそもその誤りの根源は、聖書を自然科学の書と同じように見るということにあった[浦川和三郎「聖書は人に科学を教える目的で書かれたものではない。科学の証明を聖書に求めるのは、それこそ求める方が野暮である」(1931)]。
 しかるに、聖書は自然科学の書でもなければ、聖書記者も自然科学者ではない。このことを知らぬまに忘れてしまった結果、このような誤りを犯すことになった。また、天地創造のことは、造り主である神が啓示された聖書に出ているはずだという単純な発想から様々な符号主義の聖書解釈が出されることもある。しかし、聖書の天地創造は、何憶年に及ぶ地球生成の過程を啓示しようとして神がお書きになったものかどうか、今一度その記述の仕方を見て再吟味する必要がある。
(「聖書の天地創造と現代の自然科学」)

自然科学書として聖書を扱うなと言う。しかもその主張は既に1931年に浦川和三郎氏(キリシタン史研究者でありカトリックの司教でもあった)によってなされており、最近のものではない
これは最近のバンチカンの立場「信者が聖書の記述の確認を科学に求めるな」と表裏をなす:
"These are two visions of the origin of man that not only do not contradict each other but complete each other, on the condition that the scientist does not try to exclude any intervention of God in the formation of man and the believer does not try to find in science a confirmation of the biblical account," it said.

「科学者が人間の創造に神の介入を排除しようとせず、信者が聖書の記述の確認を科学に求めようとしなければ、これら2つの人間の起源についての見かたは対立するものではなく、互いに補完しあうものだ。」
(カトリックニュースサービスの2005年11月18日付けの記事,エントリ)


特に若い地球の創造論に対して和田幹男氏は、「大人として聖書を読めるように教育されることはなかったのではないか。」とまで評している:
聖書の記述を文字通り受けとめ、24時間を1日とする日を6日で、神がこの世界をお造りになったと、そのまま信じるキリスト教徒のことである。進化論など自然科学が明かにすることなど頭から拒否し、これを反信仰的と敵視さえする。このようなキリスト教徒は米国をはじめキリスト教国にかなりいる。最近も進化論と同様に聖書の天地創造も公立学校で教えることを立法化しようと要求した人々が、米ルイジアナ州などにいて、米連邦最高裁によって拒否されたとの報道があった。この人々はそのカテゴリーに入る。このようなキリスト教徒は信仰を持っていても、大人として聖書を読めるように教育されることはなかったのではないか。
(「聖書の天地創造と現代の自然科学」 )


かつて宗教は知識体系そのものだったかもしれない。しかし、今では自然科学を含めて多くの知識は宗教から切り離されて独立に動いている。聖書の記述にあわない自然科学の知識はいくらでも出てくる。これを聖書と整合させ、かつ聖書の記述を改訂しないために、自然科学の知識として聖書が書かれたものではないという解釈の変更をしてしまうのが最適手段....ということだろうか。妥協あるいは大人の対応という麗しくもないものを感じてしまうかもしれないが、これが"智恵"というものかもしれない。

posted by Kumicit at 2006/01/02 15:08 | Comment(0) | TrackBack(0) | Vatican | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]


この記事へのトラックバック