2009/02/06

ワクチン否定論メモ: 予防接種と麻酔に抵抗したキリスト教

19世紀に書かれたAndrew Dickson White [1832-1928]によって書かれた科学と神学の戦いについての本から、予防接種および麻酔の導入に抵抗したキリスト教についての記述。

保守的キリスト教徒たちは「神が人間を罰するために送った天然痘を回避するのは神へ叛逆」や「出産に麻酔を使うのは、産みの苦しみを与えた神への叛逆」というラインで予防接種や麻酔に抵抗した。

Andrew Dickson White [1832-1928]: "A History of the Warfare of Science with Theology in Christendom"(1896) -- Chapter XIII From Miracles to Medicine -- X Theological Opposition to Inoculation, Vaccination, and the use of Anaesthetics(予防接種と麻酔の使用に対する神学上の反対論)

近代における医学で最も類例のない戦いのひとつに話を進めよう。18世紀初頭に、天然痘の予防手段としてフランスでBoyerが予防接種を提案し、Lady Montagu[1689-1762]の影響を受けて、英国の思慮深い医師たちがBoyerの後に続いた。医学における超保守主義者たちはドーバー海峡の両側で怯え、新たな治療法に反対する深い理由を神学に見出していた。フランスのソルボンヌ大学の神学者たちは厳かに新たな治療法を非難した。英国の神学者たちの中でも、大声をとどろかせたのがEdward Massey師で、1772年に"The Dangerous and Sinful Practice of Inoculation"(危険で罪深い予防接種療法)と題する説教を行い、本を出版した。その本でEdward Massey師は「ヨブのジステンバー[ヨブ記第2章]がおそらく融合型の重症天然痘だった。おそらくヨブは悪魔によって予防接種されていた。病気は神が罪を罰するために送った。病気を予防しようという試みは悪魔的行いである」と断言した。"Inoculation an Indefensible Practice"(予防接種、擁護できない治療法)と題するDelafaye師の説教も負けず劣らずだった。そして、この戦いは30年続いた。正しい理性の側で戦った、ウスター主教Madoxのような聖職者たちの話は面白い。しかし、1753年までは、説教壇から予防接種を非難するカンタベリーの著名な聖職者がおり、多くの聖職者たちがこれに続いていた。

同様の反対がプロテスタントのスコットランドでもあった。大規模な聖職者組織が「新たな治療法は神に叛き、神の裁きを挫折させようとするもの」と非難する動きに加わった。

大西洋の西側でも、この問題が戦われた。1721年頃、ボストンの医師Dr. Zabdiel Boylstonは予防接種の実験を行った。最初の被験者は彼の息子だった。彼はただちに激しい敵意に遭遇した。このためボストン市の都市行政委員は再度の実験を禁止した。最大の敵対者は、医学の専門家と新聞の指示を受けた、スコットランド人医師Dr. Douglasだった。反対者たちの暴力は限度がなかった。彼らは予防接種が毒殺であると主張し、Dr. Boylstonを殺人容疑で裁判にかけようと主張した。この世でDr. Boylstonの件を解決するとともに、彼らは次でも解決しようとして次のように主張した。「朝に家族に天然痘を感染させ、夜に病気が癒えるように神に祈るのは、冒涜である。」「天然痘は人々の罪に対する神の裁きであり、それを避けようとすることは、神を怒らせるものだ。」「予防接種は、エホバの持つ、人々を傷つけ打つ権限を侵犯するものだ。」と。そして、この問題と関係がなさそうな聖書の大量の記述から、いかなる病気の治療にも等しく反対する説得力のある記述が選ばれた。「主は我々を引き裂かれたが、いやし/我々を打たれたが、傷を包んでくださる。」(ホセア書6章1節)

反対者たちの敵意はあまりに強く、Dr. Boylstonの生命は危険な状態にあった。彼が夜間外出するのは危険だと思われた。新しい治療法を支持したCotton Mather[1663-1728]の家に点火された擲弾が投げ込まれた。Cotton Matherは、これを甘んじて受けたもうひとりの聖職者を匿った。

ニューイングランドの清教徒の聖職者たちの名誉のために言っておくなら、彼らの多くはDr. Boylstonの強力な支持者だった。Increase Mather[1639-1723]と息子Cotton Matherは予防接種の最初の支持者となり、Cotton MatherはDr. Boylstonに注意を促した。危機的な情勢のなか、ボストンの指導的聖職者のうち6名がDr. Boylstonの側で影響力を行使し、Dr. Boylstonに投げつけられる悪口をともに受けた。反対者たちは、Mathers親子の行いを魔法とみなし、その信じやすさを責めて、攻撃を続けたが、ニューイングランドの聖職者たちは多くの礼拝で貫き通したことは銘記すべきである。これらの人々はBoylstonやBenjamin Franklinと肩を並べて、「神の明かされた法への不信心」という告発という、予防接種の支持者に対して投げつけられた攻撃に耐えなければならなかった。

すぐに、反対者たちに強い事実が突き付けられた。最初の実験から1年か2年後に、ボストンおよび近郊の町で300名がBoylstonから予防接種を受けて、6名だけが死亡した。同じ期間に6000名近くが自然に天然痘に罹り、通常の治療を受けて、1000名近くが死亡した。反対者たちはそれでも絶望せず、予防接種の成功を認めなければならないのに、新たな論に頼って次のように応えた。「我らが主の日に、人から奪った地をサタンが失ったことは良いことだが、パリサイ人の子供たちがベルゼブブの力を借りてサタンを追い払ったことは、正当ではない。神への良心を保とうとするなら、我々は結果とともに、何を為すかについて常に目を向けなければならない。」 しかし、事実はあまりに強かった。新たな治療法は旧世界同様に新世界でも道を拓いた。しかし、20年以上にわたって、漠然とした聖書の根拠のもとに、激しい反対は続いた。

堅実な医学の進化は次にJennerの天然痘ワクチンの発見へとつながった。ここでも漠然とした神学的考えの生き残りにより、多くの聖職者たちが保守的医師の側についた。Jennerの的で最も強力だったのは、おそらく、プロの同業者のひとりDr. Moseleyだった。彼は自らの本"Lues Bovilla"の表紙に、Jennerと支持者たちを指して「父なる神よ、彼らを許したまえ。彼らは何をしているか分かっていないのです」と書いた。Dr. Moseleyのこの本は特にDromore司教が推奨した。1798年に、ボストン市民に対して、「天そのもの、神の意志に対する挑戦」であり、「神の教えはその治療法を禁じている」と主張して、予防接種を抑制することを呼びかける医師と聖職者たちが反予防接種協会を設立した。遅くとも1803年まで、Dr. Ramsden師はUniversity of Cambridge前の説教で、Jennerに対して聖書の記述と中傷をごちゃ混ぜにして、予防接種への反対の声を上げた。しかし、英国のPlumptreとRowland Hill師、米国のWaterhouse, フランスのThouret, イタリアのSaccoなど、良き人と真理の支持者たちが前進し、遂に科学と人道と正しい理性が勝利した。すぐに強力な結果が出た。恐ろしい災厄の死者の数の激減は素晴らしいものだった。ベルリンでは、1783年からの8年間で、4000名以上の子供たちが天然等で死亡していた。しかし、予防接種が広く受け入れられた1814年からの8年間では、多くの死者のなかで、この病気による死者は535名だった。ウルタンベールでは、1772年からの24年間では天然痘に罹った子供たちの13人に1人が死亡していた。しかし、1822年からの11年間では、1600人の1人が死亡した。コペンハーゲンでは予防接種導入前の12年間では、天然痘で5500名が死亡した。予防接種導入後の16年間ではデンマーク全体で158名が死亡した。ウィーンでは、この病気での年平均死者数は800名を超えていた。それが1803年までには30名以下になった。ロンドンでは1890年の死者数は1名だった。世界全体を見れば、その結果は19世紀におけるもっとも敬意を表された英国の医師の1人によって、次のように要約される「Jennerは救った。そして現在も救い続け、来るべき時代も救い続ける。ナポレオンによる戦争で失われた生命の数よりも多くを、1世代で。」

この歴史を見れば、この戦いで教会は以前の多くと比べて、尊敬すべきものだったことがわかる。その理由は簡単に見つかる。神学の弱まりが宗教に有利に働き、宗教は科学を強く支援した。

それでも、プロテスタントとカトリックの両方に興味を引く生き残りがいた。英国の強情に利口な医学のプロの少数者たちは、知的でない聖職者のなかに同盟者を見出した。原始メソジスト派のRothery師とAllen師は、予防接種への反対する漠然とした神学上の理由を見出していた。しかし、英国の聖職者の大多数は長きにわたり、より良い見方をしていた。

キリスト教会の大きな宗派の最近の歴史は、はるかに痛いものだった。歴史は最も予期されなかった方向に進んだ。世界の最近の年代では、宗教と神学の目立った対立は見いだせない。

18世紀中葉のモントリオールでの移民たちのチフスの大流行におけるカナダの聖職者たちの行動は、ローマカトリックの歴史で、これ以上に麗しいものはほとんどないと言えるものだった。日夜、この街のカトリックの聖職者たちは、衛生上の無知の犠牲者たちをおそれることなく看病した。苦痛や死への恐れも、これらの聖職者たちの看病を止めることはなかった。最も貧しい者たちや無学な者たちに快適さをもたらすことに、彼らは喜んで生命を捧げた。それがカトリックの宗教の歴史だった。しかし、1885年には神学が勝った。その年、モントリオールで天然痘が大流行した。プロテスタントの人々はほぼ全員が予防接種をして、難を逃れた。しかし、カトリックに従う人々は古い漠然とした正統的な考えが残っていて、予防接種を拒否した。そして恐れ苦しんだ。遂には旅行と交易が激減するところまで疫病が重大な状況となり、近隣都市で隔離が確立され始め、強制的な予防接種が実行されようとした。これに対して、多数のカトリックの人々が抵抗し、流血沙汰で脅かした。この行いを、聖職者たちは大目に見ていて、奨励さえした。St. James's Churchの聖職者bbe Filiatraultは説教で「我々が天然痘に罹るのは、昨冬に我々がカーニバルをして、肉をふるまって、我らが主を怒らせたからだ。我々の奢りを罰するために、神は天然痘を送ったのだ」と述べた。聖職者の出版物はもっとすごかった。"Etendard"は忠実な信者たちに、予防接種よりも武器をとることを奨めた。そして、少なくとも一つの世俗新聞がこれに同調するように強要された。医療委員会はこの迷信と戦い、予防接種を推奨することを要請する回覧をカトリックの聖職者に送った。数名が要請に応じたが、大多数は沈黙するか、公然と敵対した。感染地域の中心部に教会があった修道神父たちは、予防接種を非難し続けた。忠実な信者たちは様々な信仰療法を奨められた。権威者から聖母マリアに訴える行列祈祷が命じられ、ロザリオの使用方法が慎重に指示された。

その間も疫病は、プロテスタントの間では消えかけていたが、カトリックでは猛威をふるっていた。そして真実は次第に明らかになり、もっとも信心深い者たちにも、適切な治療が実施され、流行は制圧された。しかし、それには純真な信者たちの生命の浪費があった。これらの子供たちの心に植えつけられた懐疑の種が実を結ぶときが来る。

他にも治療手段に対して、神学的精神が保守的医学と手を組んだ例が歴史に見られる。その第一はコカインである。16世紀中葉に、南米でコカインの価値が見出されていた。ペルーの原住民たちはこれを高く重じんていおり、著名なイエズス会士Joseph Acosta とAntonio Julianはこの見方に考えを変えた。しかし、教会の保守的精神は強力だった。1567年に南米全域の聖職者から構成されるリマ第二会議で、これを非難した。それから2年後には「原住民が楽しんでいるものは悪魔の幻想である」と王室の宣言があった。カトリックの一部の類例なき誤りに対し、多くのプロテスタントは別の誤りを犯した。17世紀初頭に、南米のイエズス会宣教師はマラリア熱の治療で、いわゆるキナ皮の効力を原住民から学んだ。1638年に、ペルー修道会員Cinchon伯爵夫人は新しい薬品に価値を見出して、欧州に導入した[訳注:イエズス会士が導入、Cinchonの名はあやしい]。そのアルカロイドであるキニーネはおそらく医学特性にもっも近いアプローチであり、特定地域の死亡率を激減させたが、その導入は多くの医学のプロから反対され、この反対にローマカトリックへの敵対心から超プロテスタントが合流した。派閥闘争の雰囲気から、新たな治療法は「悪魔の発明」という汚名をきせられた。反対はあまりに強く、英国では1653年まで導入できなかった。それでも、反カトリック感情にために、長きにわたり使用は控えられていた。

まさにこのとき、超プロテスタント側で世界を救う神学的方法が、この戦いの中のひとつの事実に見られた。Hoffmannはヨブの吹き出物を引き起こした悪魔の行動について科学理論を作ろうとしていた。神学的精神を満たすべき、その疑似科学的説明を作ろうとする努力は、はじめは滑稽に見えるが、真剣に見る価値のあるものである。というのは、あらゆる科学の歴史で科学が勝利を収め始めたときに見られる、妥協のための回避不可能な努力の始まりだと考えられるからである。

19世紀におけるプロテスタント国での典型的摩擦の例を見ておきたい。1947年に、後に医師として高く評価されることになる、スコットランド人医師James Young Simpsonが産科で麻酔の使用を主張したとき、嵐のような反対に遭遇した。この敵意は、スコットランドの古代の由緒ある信仰から生じた。1591年に高貴な女性Eufame Macalyaneが、Agnes Sampsonが二人の息子を産むときの痛みを和らげる手段を模索した罪で告発され、エジンバラのCastle Hillで生きながら焼かれた。この古い神学的見方は19世紀中葉まで残っていた。説教壇から繰り返し、Simpsonがクロロフォルムを使ったことは、不信仰かつ反聖書的だと非難された。大量の記述が聖書から引用されたが、よく使われた例は、クロロフォルムの使用が、「女性の原罪の呪いの一部を回避するもの」だった。Simpsonは自らが使用するようになったものを擁護してパンフレットを書き続けた。そして、勝利の最大要因となった最も不合理な武器を手にした。「私の反対者たちは、創世記第2章21節を忘れている。それは最初の外科手術の記録であり、宇宙の創造者が、イブを創造するときに、アダムから肋骨を取り出す前に、アダムは深い眠りに落とされたことを証明する」とSimpsonは書いた。これは強力な一撃だったが、反対者を一掃するには至らなかった。反対者たちは「アダムが深い眠りに落ちたのは、痛みが世界にもたらされる前の、罪なき状態のときだった」と主張して、反対を維持した。しかし、ここの新たなる擁護者Thomas Chalmersが登場した。Thomas Chalmersは説教壇からの幾つかの刺激的議論で、反対者たちを永久に一掃した。そして、苦しみに対する科学の大いなる戦いに勝利した。この勝利は宗教にとっても勝利だった。麻酔の発見者の一人を称えるためにボストンに記念碑を建てた人々は賢明にも、その台座に聖書の言葉を刻んだ。"This also cometh forth from the Lord of hosts, which is wonderful in counsel, and excellent in working."(イザヤ書28章29節: これもまた万軍の主から出たことである。主の計らいは驚くべきもので/大いなることを成し遂げられる。)
posted by Kumicit at 2009/02/06 12:15 | Comment(0) | TrackBack(0) | Quackery | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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