2009/03/17

HIV否定論 Sophie Brassardの場合

母子感染により娘にHIVを感染させ、3歳でAIDS関連疾患で死なせ、そして自分もAIDS関連疾患と思われる肺炎で死亡したChristine Maggioreを昨年末にとりあげた。

==>忘却からの帰還: HIV否定論者Christine Maggioreの訃報 (2008/12/31)

このような道をたどったHIV感染者はChristine Maggioreひとりだけではない。AidsTruth.Orgには21名の名が挙げられている。

その中のひとり、2002年9月16日に死亡した、シングルマザーなカナダ人Sophie Brassardは、Christine Maggioreと同様の過程をたどったが、より"劇"的だった[Sophie's Choice, A Story Of Fighting The System And Losing]。

Sophie Brassardと行政の戦い



Sophie Brassardは1986年にHIV陽性判定を受けた。病気の原因が違法薬剤と製薬会社の薬剤であるというイタリアの本を読み、AIDS薬剤の副作用に大きな不安を持つようなった。その後、1987年までにHIV否定論と遭遇した。なので、Sophieは現代の薬学が開発した薬剤を拒否した。

1992年にSophie Brassardは妊娠した。Sophieはまだ健康だった。Sophieは母子感染のリスクが通常出産で25%あることを知った上で、出産を望んだ。Sophieは、抗レトロウィルス剤も服用せず、確率25%の母子感染賭博をした。Sophieは助産婦のもと自宅での出産を望んだのだが、病院に予約を入れていないことに気付いた姉が、カナダ児童保護局(Youth Protective Services)に通報したため、ソーシャルワーカーと児童保護局員と医者と警官2名によって病院に強制的に連れていかれた。

出産後、医師はSophie Brassardによる授乳を禁じようとした、Sophieは授乳を求めた。授乳をめぐって医師とSophieは戦うことになりそうだったが、幸か不幸か、その戦いは回避された。Sophieは母子感染賭博に負けていた。生まれた子供(長男)は既にHIV陽性だったのだ。そして、負けたことによって、授乳が認められた。もはや授乳を禁じて、母子感染を抑止する意味がなかったから。

それから平穏に時が流れたが、18か月後に子供の体重が減少した。ソーシャルワーカーはAZT投与のため医師のもとへ長男を連れて行こうとしたが、Sophieはホメオパシーによる治療と自然治癒を信じて、これを拒否した。そして、子供をホメオパシー医のもとへ連れて行くという妥協が成立した。その後、1年にわたり、毎月、Sophieは子供をホメオパシー医のもとへ連れて行った。

1994年に、ホメオパシー医はSophieに対して、子供を専門医に見せるか、カナダ児童保護局に連絡するように通告した。Sophieはパニックに陥った。SophieはHIV感染者は薬剤不要で健康的に長生きできると信じていた。そして、このままカナダに留まれば、医師による長男へのAZT投与によって、長男が殺されてしまうと確信した。すぐにチケットを手配して、翌日、Sophieは子供をつれてイタリアへと飛んだ。その後、2年にわたり、ローマ郊外で暮らした。子供も健康で、特に問題はなかった。

1996年にローマで恋に落ちたSophieは妊娠する。しかし、出産に至る前に男と仲が悪くなって、カナダに帰国した。そして、助産婦の手助けで自宅で次男を出産した。次男のHIV検査の結果は陽性。再びSophieは母子感染させていた。

出産後、カナダ児童保護局の詮索を避けるために、少しの間はメキシコに滞在。そして、カナダへ帰国すると、隣人にカナダ児童保護局へ通報されてしまう。Sophieと子供たちは強制的に血液検査を受けさせられ、医師はSophieに、子供たちへの薬剤投与を強く求めてきた。

薬剤投与を拒否したSophieは再び、子供たちをつれてイタリアへ飛んだ。Sophieはローマで、次男の父親と復縁を果たそうとしたが失敗。1998年にカナダへ帰国した。

そして、1999年に7歳になった長男が耳の感染症に罹った。Sophieの父親がカナダ児童保護局に連絡した。ただちに、医師・看護婦・ソーシャルワーカーが子供たちへのAZTを含むカクテル剤投与を求めた。Sophie Brassardは子供たちへの薬剤投与を避けるために、またも子供たちを連れてイタリアへ出国を試みた。しかし、今回は失敗した。SophieはモントリオールのDorval空港で警察に拘束された。子供たちの親権はSophieから剥奪され、Sophieの両親にゆだねられた。

1999年10月に、その両親からも親権が剥奪される。Sophieの長男が肺炎になったが、Sophieの両親は抗レトロウィルス剤の使用を拒否。裁判になり、親権を失った。これにより、Sophieの子供たちへの抗レトロウィルス剤の使用が始まる。

親権については、その後、Sophieの両親に戻されたが、子供たちの医療についての親権は児童保護局に残された。また、Sophieは子供たちの医療および食事について発言権を奪われ、子供たちに会うのも監視下に限られた。

2000年2月に子供たちの一人が投与されていた薬剤の既知の副作用である腎結石で入院。Sophieは自分の子供たちを"守る"ために、強硬措置が必要だと確信した。そして、2000年5月13日に、子供たちを連れてモロッコへ逃亡した。そのとき、既に、ソーシャルワーカーはSophieへ親権を返還することを決めていたのだが、それをSophieが知ったのは、モロッコへの逃亡後のことだった。

それから、2年ほど平穏に時が流れたが、2002年3月にSophieは肺炎にかかり重篤な状態になった。Sophieの父親がSophieと子供たちをカナダへ連れ帰るために、モロッコへ飛んだ。

2002年9月16日、Sophie Brassardは40歳で死亡した。10年にわたるSophieの戦いは終わり、HIVに感染した10歳と7歳の兄弟が、Sophieの両親のもとに残された。


戦いは終わったが...



Sophie Brassardは、子供たちを守ろうという強い意志と行動力を持っていた。HIVに感染した子供たちを守ろうとしたカナダ児童保護局と医師たちとソーシャルワーカーたちも、警察による出国阻止や裁判による親権剥奪など可能な限りの手段を使った。その結果、カナダ・イタリア・メキシコ・モロッコを舞台に、空港突破成功&失敗エピソードを含む、医療・裁判・恋愛・母子逃避行ドラマという派手な展開に。

米国でも、親権停止・剥奪は、オレゴン州Felix Tyson事例(ぐぐると、HIV否定論サイトにヒットしまくり)などがある。しかし、ここまで派手な例は見当たらない。

この派手な戦い故に、Sophie Brassardを英雄・犠牲者として祭り上げる動きが生前[ie. Marnie Ko, 2000]からあり、死後[ie David Crowe 2003]もある。それにより、HIVに感染した人々がHIV否定論に誘いこまれることになるかもしれない。

そして、HIVに感染した残された子供たちは、その後もHIVと折り合っていかなければならない。生きていれば、18歳と15歳になっているはずだが、その後の情報はネット上には見あたらない。

なお、Sophieの両親がHIV否定論を信じていたかどうかは不明。1999年10月にSophieの長男に対する抗レトロウィルス剤の使用を拒否して、親権を一時的に剥奪されているが、これはSophieが両親を敵と見なすことを避けるための措置かもしれない。


タグ:HIV denialism
posted by Kumicit at 2009/03/17 00:01 | Comment(0) | TrackBack(0) | Quackery | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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