2009/07/15

John G Westのキリスト教と進化論は両立しない Extra

先月(2009/06)、インテリジェントデザイン運動の本山たるDiscovery Instituteの副センタ長であるDr. John G Westによる、有神論的進化論批判を読んだ。この批判シリーズはDiscovery Instituteの新たなサイトFaith+Religionに2009年5月1日付で掲載されたもので、福音主義キリスト教徒が創造論から有神論的進化論へと流出することを予防することを意図したものである。このため、進化論をほぼ正しく提示した上で、ひたすら「キリスト教と進化論は両立しない」を連呼する形になっている。逆にいえば、「進化論が正しければ、キリスト教はカス」というものである。



同様の記事をDr. John G WestはDiscovery InstituteのFaith+Religionに書いている。

==>By: John G. West: "Is Darwinian Evolution Compatible with Religion?" (2009/05/01) on Faith+Religion

その記事の中で、有神論的進化論のポジションをとるFrancis Collinsを次のように批判する:
While Collins’ view is logically compatible with the idea that God actively guides the development of His creation, it is still in tension with the traditional Biblical understanding of God. Both the Old and New Testaments teach that human beings can recognize God’s handiwork in nature through their own observations rather than special divine revelation. “The heavens declare the glory of God; And the firmament shows His handiwork,” proclaimed the psalmist.26 The apostle Paul likewise argued that “since the creation of the world His invisible attributes are clearly seen, being understood by the things that are made....”27 The idea that God’s action in the world is in principle undetectable by us seems hard to reconcile with the traditional Judeo-Christian view that God’s design in nature is clearly evident to all human beings through the use of their reason.

Francis Collinsの見方が論理的に、神が能動的に創造の発展を導くという考え方と矛盾しない。しかし、神についての聖書の理解とは緊張関係にある。旧約聖書も新約聖書もともに人間が、神からの啓示ではなく、自らの観察によって、神の所作を認識可能だと教えている。「天は神の栄光を物語り/大空は御手の業を示す。(詩篇19章2節)」 使徒パウロは同様に「世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。... (ローマの信徒への手紙 1章20節)」と主張した。自然界における神の活動が我々には検出不可能だという考え方は、「自然界にある神のデザインが、理性によって人間たちに明らかになる」という伝統的なユダヤ・キリスト教の考え方と調停することは困難だと思われる。
「伝統的なユダヤ・キリスト教の考え方」と調停できないかどうかは別として、少なくとも福音主義キリスト教のポジションと、「検出不可能な神の活動」というポジションを調停することは不可能だろう。その点でJohn G Westの指摘は間違ってはいない。

さらに、そのような立場は進化論とも相容れないと主張する:
There is an equally serious difficulty for the idea of undetectable design from standpoint of evolutionists: Darwinism proclaims that evolution is blind and unguided. Postulating that evolution is guided but undetectable essentially guts this claim. Furthermore, if evolution truly is guided, it is hard to see how one can maintain that such guidance is in principle undetectable and will remain so forever. If evolution is guided, how do we know that it cannot be detected some day? It is unsurprising, then, that committed Darwinists who espouse religious beliefs are loathe to adopt this position.

検出不可能なデザインという考え方は、進化論者の立場でも同様に重要な難点がある。ダーウィニズムは進化が盲目で導きなき過程だと主張する。この主張は「進化が導かれているが、その導きが検出不可能だ」と仮定している。さらに、もし進化が本当に導かれているなら、その導きが原理的に検出不可能で、永遠にそのままだという主張をどうやって維持できるだろうか。進化が導かれているなら、それが検出不可能だと、どうやって知りうるのだろうか。宗教信仰を支持するダーウィニストが、このポジションを嫌うのは驚くにたらない。
一応は、「量子力学レベルの乱数に介入する神」は検出不可能かつ、都合の良い方向への誘導が可能なので、うまく介入すれば、検出されずに済むかもしれない。また「どこへ進むかわからない進化を、検出不可能な手段で、意図した方向に導いた」とすれば、科学的には「たまたま、その経路を通った」ようにしか見えないだろう。

とはいえ、そんな変な神様の存在を容認する人は多くない。著名な研究者としては他にはDr. Kenneth Millerくらいだろう。その点では、Dr. John G Westの主張は正しい。

そして、Dr. John G Westは次のように結論する:
There is, however, another way to try to resolve the tension between Darwinism and religion. Darwinian evolution, strictly speaking, begins after the first life has developed, and so I agree with Larry Arnhart that it does not necessarily refute the claim that there may some kind of “first cause” to the universe that stands outside of “nature.” But this “first cause” allowable by Darwinism seems incompatible with the God of the Bible. It cannot be a God who actively supervises or directs the development of life. The most it could do is to set up the interplay between chance and necessity, and then watch to see what the interplay produces. Such an absentee God is hard to reconcile with any traditional Judeo-Christian conception of a God who actively directs and cares for His creation. In the end, the effort to reconcile Darwinism with traditional Judeo-Christian theism remains unpersuasive.

しかし、他にもダーウィニズムと宗教の緊張関係を解決する方法がある。ダーウィン進化は厳密にいえば、最初の生命の登場以後のことであり、「自然界の外側に宇宙の第一原因のようなものがあるという主張を否定する必要がない」というLarry Arnhartの主張に同意する。しかし、ダーウィニズムが許容する第一原因は、聖書の神とは相容れないと思われる。そのような第一原因では、生命の発展を能動的に監督し、指示するような神は存在し得ない。出来ることと言えば、偶然と必然の相互作用を準備することだけであり、後は相互作用が生み出すものを見ているだけである。そのような不在の神は、創造を能動的に指示し面倒を見るという伝統的ユダヤ・キリスト教の神とは調停できない。結局は、ダーウィニズムと伝統的ユダヤ・キリスト教を調停しようという努力は説得力がないままである。
「自然法則の制定者にして実装者・初期値の決定者」という限りなく理神論に近い神と、自然界に介入する福音主義キリスト教の神の調停が不可能だという主張はおそらく正しい。

ただ、「自然界に介入する神」はエネルギー保存則を破ることになる。超越的な神なら、それは"あり"なのだが、インテリジェントデザイン運動は今のところ、積極的にエネルギー保存則が破られていることがあるとは主張していない。むしろ、エネルギー保存則が成り立った状態で、デザインを持ち込む方法を探したりする(答えは見つかってないけどね)。

==>デザイン持ち込みの方法 (2006/06/13)

それはさておき、結局のところDr. John G Westは「進化論が正しければ、伝統的ユダヤ・キリスト教の神は存在し得ない」と言っている。それは、有神論的進化論批判シリーズの主張「進化論が正しければ、キリスト教はカス」と一貫している。

タグ:id理論
posted by Kumicit at 2009/07/15 00:29 | Comment(0) | TrackBack(0) | DiscoveryInstitute | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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