2006/03/21

再読 インテリジェントデザインネットワーク [2/4 本文訳]

Intelligent Design: The Scientific Alternative to Evolution
William S. Harris and John H. Calvert
http://www.intelligentdesignnetwork.org/NCBQ3_3HarrisCalvert.pdf

本文訳:
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インテリジェントデザイン:進化論の科学的代案

A little science estranges a man from God; a little more brings him back.
Francis Bacon (1561〜1626)

遅かれ早かれ誰もが「我々はどこから来たのか?」と問うことになるでしょう。その答えは深遠で、人生を形作る意味を持ちます。この問いに答えられなければ、倫理、宗教そして生命の意味についての鍵となる根源的なもうひとつの問い「我々は何らかの目的のためにここにいるのか?」に答えられません。考えられる答えは2つあります: 宇宙と生命とその多様性--自然現象--が、1)自然法則と偶然だけの産物なのか(自然主義仮説) 2) 法則と偶然とデザイン(何らかの意志あるいは物質とエネルギーを操作できる力を持つ何らかの知性)の産物なのか(デザイン仮説)。後者なら「目的」がありえますが、前者はそうではありません。

自然主義仮説は(宇宙と生命の起源についての)化学進化の理論と(生物の多様性についての)ダーウィン進化論を支柱としています。デザイン仮説は、しばしば「微調整された」と記述されるようなきわめて複雑な自然システムの目的のある特性を支柱としています。それぞれの仮説は、哲学的因習や宗教的因習と密にかかわっており、科学と哲学、証拠と含意、現実性とイマジネーションを分離するために明快な思考が必要です。

著者たちは科学的研究および法曹について鍛えられています[1]。この記事では、読者の皆さんが、私たちの起源についての本質的科学的議論があり、この議論はインテリジェントデザインとその進化論への挑戦を客観的に考慮しない限り解決せず、科学や宗教、倫理、モラルについての私たちの世界観にとって非常に重要であることを知ってくれることを望みます。この議論において、私たちは幾つかの命題を作ります。: 1) ダーウィンの進化論の最も重要で明確な特徴は、それが指導されず、計画もされず、無意味な(目的のない)過程であること。2) インテリジェントデザインは科学であり宗教ではないこと。 3) それぞれの起源論は、深い宗教、倫理およびモラルの含意があること。

この記事を、主要な用語と概念の包括的な議論から始めます。続いて、デザインの検出についての考察、両起源仮説を支持する証拠、そして、最後にインテリジェントデザインが生命倫理にどう影響するか考えます。

議論の用語
多くの進化論とインテリジェントデザインについての混乱は不正確でわかりにくい用語の定義から生じています。

起源科学(Origins Science)

このエッセイでは、起源科学は宇宙や地球、生物およびその多様性の起源(あるいは原因)を説明しようとする科学のことです。起源科学は厳密に現実に実証的であるというよりは、歴史学的です。従って、仮説を直接検証するための実験ができないので、化学や物理のような実験科学とは異なります。起源科学の歴史学的な本質はハーバード大学Ernst Mayr教授によって説明されています[2]。
たとえば、ダーウィンは科学に歴史学的真実性を取り入れました。 進化論者は既に起きた現象と過程を説明しようとするというので、物理や化学と違って進化生物学は歴史学的科学です。そのような現象と過程の説明には自然法則と実験は不適切な方法です。そのかわりに、説明しようとする現象につながる仮に再構築した特定シナリオから構成される歴史的な物語を作ります。


歴史学的と実証的の区別はきわめて重要です。自然法則と実験によってその結論の厳格な客観性が保たれる純実証科学と違って、歴史学者の説明には守るべき基準や規律はありません。このことにより歴史学者の説明は主観的であってもよく、根拠となるデータだけでなくイマジネーションや哲学や宗教観(あるいは非宗教観)に影響されます。

起源科学の第2のユニークな特徴は、あらゆる宗教と同じ問いを発しているために、信仰への影響が避けられないことです。「我々はどこから来たのか?」という問いに対するいかなる答えも、誰かの感情を害することは確かです。従って、歴史学的、主観的および宗教的特性を持つ起源科学は、哲学的および宗教的バイアスなしに客観的に遂行されなければならず、すべての関連証拠は個々にその意味に関わらず検証されなければなりません。

進化(Evolution)

普通の用法では、進化とは物事が時間とともに変化することを意味します。この意味では多くのものが"進化"します: 自動車デザイン、政治制度、コンピュータソフトウェア、対人関係など。この定義は議論にはなりません。誰もが物が変化することだということで一致しているからです。たとえ、生命システムに対して使われても、私たちは物事が変化するという意味だとわかります。受精卵は乳児に、そしてティーンエイジャーから大人になります。タンポポは金色の花から綿帽子になり、イモムシは蝶になります。もっと身近だと、私たちは犬や猫、家畜の品種が計画された選択的な交配による人為的な選択によって"創造"されることを知っています。従って、進化は変化することだとすべての科学者が認めています。問題は変化したことではなく、何がその変化を引き起こしたのかです。

ダーウィン進化論(Darwinian Evolution)

Charles Darwinが1859年の本「種の起源」において"自然淘汰"[3]という新語を作ったとき、"人為的(すなわち知的に誘導された)淘汰"という言葉を心にとめていました。Darwinはインテリジェントエージェントが計画された交配によって数年で、そのような動物の形態に対する根本的な変化を起こせるのなら、十分な時間と適者が不適者よりも生存しやすく、子孫を残しやすい環境要因があれば、意志なき過程でもおそらく同じことができると論じました。Darwinは生物の形態や基本体型、構造が長い時間で変化してゆくことをよく知っていました。いまもういなくなってしまった、ますます複雑になる植物と動物の驚くほどの多様性を、化石だけが証明しています。疑いなく生物は変化してきました。しかし、何が変化させたのでしょうか?Darwinとその後継者たちは、指導されることのない意志なき自然現象が変化を起こし、自然法則と偶然(ランダムな変化に対する自然淘汰)だけで生物の多様性と生命の起源を十分に説明していると主張していました。

1995年に米国生物学教師協会は次のような進化の定義を規定しました:
地球の生物の多様性は進化の結果です:自然淘汰や偶然、歴史的な偶発性、環境の変化に影響された遺伝子変化を伴う管理されない、非人格的な、そして予見できない不意の自然現象[4]


従って、進化はその定義から、まったく指導も監督もされない過程であり、その中では意志がいかなる役割も演じないのです。意志だけが目的を作れるのですから、進化は目的のない過程です。過程に目的がないことが、ダーウィン理論を唱える人々によって明らかにされています:
Darwinは2つことを示しました:彼は進化が聖書の記された創造伝説に反する事実であり、その原因たる自然淘汰は、神の指導やデザインの余地のない自動的なものであることを示しました[5]。

人間は目的なき、神を考えない自然現象の結果です[6]。

Darwinの科学に対する計り知れない功績は、デザインと目的があるという明らかな証拠があるにもかかわらず、すべての生物学的現象が機械論的な原因で説明しうることを示したことです。何者にも指示されない無意味な(目的なき)変化と、盲目で冷淡な自然淘汰の過程との結合によって、Darwinは生命の過程について、神学的あるいは霊的な説明を無用のものとしました[7]。

人間は偶然の産物に過ぎないことを理解すべきです[8]。

これが、生物学者の言う"進化"です。ただ変化というのではなく、指導されない、故意ではない、無意味な(目的なき)、より高次の知性に影響されない変化です。これらの主張から明らかになったことは、進化はいかなる自然のあるいは超自然の意志の介入も受けないものだということです。ダーウィン論者によれば、私たちは"現象(occurrences)"であって、"デザイン"ではありません。

ネオダーウィニズム(Neo-Darwinian Synthesis)

Darwinは生物にどのように変化が起きて、後の世代にどのように引き継がれるかのメカニズムを提示しませんでした。Gregor MendelはDarwin存命中に遺伝学の基本原理を発見していましたが、(1866年に興行された)Mendelの業績は広く知られることはなく、1900年に再発見されるまで、ほとんど影響を与えませんでした。1950年になってようやく、遺伝学が科学たりえるようになり、古生物学や微生物学、生化学、発生学そしてダーウィン進化仮説をひとつにつないで、包括的な理論が作れるようになりました。だから、"ネオダーウィニズム"は近代進化論についての固有の名称なのです。その理論では、ランダムな環境制約に支配された生物の都合のよい(ランダムな突然変異による)遺伝的変化が生存すると仮定します。ダーウィン進化過程は現在の環境圧に適した特徴を持つ個体群が子孫を残すように選別する一連のふるいと考えられます。川がその流れを選べないように、生物も選べません。自然法則と偶然が許す方向に流れをとります。


化学進化(Chemical Evolution)

化学進化は生命の起源自体について自然主義的な理論を示します。化学物質がランダムに有史以前の海洋("生命のスープ"仮説)で生成され、再び何らかの"ランダムな変化に対する選択行為"により、生物のようなものが形成されました。現時点では、純自然過程でどのように生命が発生したかについて広く認められた一貫し理論はありません。この分野を専門とするある科学者は、この問いに答えるのはほとんど絶望的だ[9]と言っています。また他の科学者たちはより楽観的です[10]。

ほとんどの科学者(と素人)は化学進化を指すときもダーウィン進化論を指すときも"進化"という略した用語を使い続けています。私たちはここでは自然法則と偶然にだけによる、デザインによらない、ダーウィン進化論や化学進化および宇宙の起源と発展についての自然主義的な理論を含むすべての進化理論を意味することにします。

自然主義/科学的唯物論(Naturalism/Scientific Materialism)

進化は自然主義と呼ばれる哲学に基盤としています。自然主義とは、(化学や物理における)因果律と効果がすべての現象について適切に考慮されていて、デザインや自然についての目的論的な概念は無効であるという主義です[11]。最後のフレーズは、証拠に基づく演繹の結果ではなく、原理的にデザイン仮説は先験的に無効だということを意味します。人間は自然現象として"発生した"ものであり、何らかの目的を以ってデザインされたり創造されたりしたものではないと信じろと言っているのです。デザインを除外すれば、自然主義の哲学は、いかなる自然現象の説明についても効果的に超自然的な説明を排除できます。実際、まさにこの自然主義の機能によって、あらゆる科学的説明から超自然の介入の可能性を排除しています。教皇ヨハネパウロ2世は「それらのインスパイアした哲学故に、進化論は ... 人間についての真理とは並び立たない。」と述べています[12]。

また、デザインに対するこの議論の余地のない仮定は「科学的唯物論」と呼ばれます。すべての現象、意識さえもが物質とエネルギーと物理的因果律の働きに還元されることを保証します。非物理的な意志の働きを反映するデザインは許されません。哲学者たちは自然主義や唯物論の多くの変種をカタログしていますが、デザインについては効力のある原因として拒絶しています。

自然主義的な世界観に対するコミットメントは、ハーバードの遺伝学者Richard Lewontin教授によって明確に説明されています:
一部の構成に明確な不合理があるとしても、健康と生命についての途方もない約束を満たせていないとしても、ただのお話に対する科学界の寛容性でしかないとしても、我々は科学の側をとる。それは、我々が優先するコミットメント、唯物論へコミットメントしているからだ。科学の方法論と慣例に従って現象世界の物質的説明を受け入れているのではない。むしろ逆に、我々が物質的因果律に対して先見的に支持するということは、たとえ直感に反していようと、初心者にとって煙にまかれたようなものでも、調査の仕掛けと物質的説明を作り出すひとまとまりの概念を創り出すことなのだ。さらに唯物論は絶対であり、神が足を踏み入れることなど許されない。

この声明は、インテリジェントデザインの反対者がいかに、起源科学について哲学的制約をおくことに伴う2つの中心的問題をさけていることを例証しています。

第一は私たちはすべての科学について議論しているのではなく、生命の起源と生物の多様性の起源について議論しているということです。何かがどう機能するかと、どう生じたのかはまったく別種の問題です。科学者が生物がどう機能するかを発見しようとしている普段の世界ではLewotinは正しく、超自然的な説明は出てきません。しかし、知的な力が生命の起源や生物の多様性の起源においてまったく働かなかったというのは明白に前提であり、実験で確かめることも、直接観察することもできない問題の多い主張です。第二は、"唯物論へのコミットメント"が有神論に対して与える明らかな影響をまったく無視していることです。おそらく、もっとも明確にいかに自然主義が科学を証拠に対して盲目にさせているかを表現しているのはカンザス州立大学の生物学者Scott Toddでしょう。彼は「たとえあらゆるデータがインテリジェントデザイナーを指し示していようとも、そのような仮説は自然主義的でないが故に、科学からは排除される。」[14]と言っています。つまり、ある特定の原理だけをあらかじめ想定し、それ以外をデータではなく定義で排除すると言っているのです。

実際には自然主義は主義か哲学と意味しているのですが、多くの科学者は、科学の"方法論"の一部にすぎず、ほんとうの哲学的な主義ではないと主張しています。この点からすれば、哲学的自然主義というよりは方法論的自然主義と呼ぶべきです。つまり、科学は自然を探求する方法論としてすべての観測された現象に対する可能な説明としての非物質的ないかなる力も排除するという選択をしているのです。これは最近、サイエンス誌(Scientific American)の編集者John Rennieが認めました:「近代科学の中心的な主義は方法論的自然主義である[15]。」哲学的自然主義と呼ばれようと、方法論的自然主義と呼ばれようと、それはいずれにせよ非物質的です:この主義の効果は、科学者だけではなく一般人も生命はデザインされていないというこの中心的な教義を信じさせるものなのです。

自然主義的仮定が主義ではなく証明されていない仮定として真に方法論的に使われているなら、そのことが適切に開示され、それを認めるかどうかは任意とすべきです。適切な開示とは、提示された歴史学的説明の信頼性へのこの仮定の影響と、データの選択と解釈に対してこの仮説がどういう形で影響するかが説明されることです。デザインに対する自然主義的バイアスの開示がなされていないのは、進化と起源についての科学の教科書やそのほかの出版物において、この議論が記載されていないことから証拠付けられます。一般向けサイエンスライターであるRobert Wrightが説明しているように、自然主義は「科学することの不文律」のひとつであって、わずかでも目的論(デザイン)的な響きがあれば慎重に排除することを要請しているのです[16]。この不文律を破れば、侮辱され、嘲笑され、職を失い、査読のある科学論文誌への投稿原稿を拒絶され、科学界から事実上破門される[17]のですから、このようなルールは承認が必要です。

科学界はスペインの異端審問との薄気味悪いほど類似しています。"ローマ教皇"が交付した規則と態度と信念を受け入れなければ、恐ろしい罰が待っています。実際には火刑にするわけではありません。というのは私たちの腰抜けの法律のもとではもはやそのような罰は認められないからです。しかし、そのかわりに確実にDead Duck[訳注: お陀仏がニュアンスとして近い]にします。[18]


この"ルール"が開示されておらず、承認が必要であることを、米国における科学の指導的な組織である米国科学振興協会(AAAS)が採択した最近の方針がおそらくもっともよく示しています。AAAS評議会は「公立学校の科学カリキュラムの一部としてインテリジェントデザイン理論を教えることを許可しようとする体制側に対して、全米の市民が反対するように主張しています[19]。デザインに拒絶している、議論の余地のない仮定へ言及することなく、世界に向かってデザイン推論を拒絶し、学校で議論することを阻止しようと主張しています。

インテリジェントデザイン(Intelligent Design)

インテリジェントデザインは宇宙と生命と生物の多様性の起源において知的な原理が重要な役割を果たしたかもしれないという科学的理論です。デザインは自然の中、特に生命システムにおいて経験的に検出可能だというのが論拠です。インテリジェントデザインは知的原理の探求と、現在の科学教育と研究において推進されている起源についての自然主義的な説明に対して異議を唱える知的運動です[20]。インテリジェントデザイン理論はインテリジェントデザイン理論家であるBaylor UniversityのWilliam Dembski教授により次のように説明されています:
インテリジェントデザインでは、知的原理にできて、何も指示しない自然原理でできないことを観察することから始めます。何も指示しない自然原理は、スクラッブルのピースをボードに置くことはできても、それらのピースを有意味な単語や文になるように並べ替えられません。有意味な並びを作るには知的原理が必要です。この直感が、何も指示しない自然原理と知的原理の本質的な違いであり、前世紀のデザインについての議論の基礎でした。


バイアスのかからない視点では、デザイン仮説は自然研究からの真の跳躍です。それは観測データに対する本能的精神的反応です。もっとも熱心な進化論生物学者でさえも、生命システムが何らかの目的のためにデザインされたかのように見えると認めています[22]。現在、インテリジェントデザイン科学者たちは、生命とその多様性が知的原理の産物であるかもしれないという仮説を経験的かつ客観的に検証し確認する方法を開発しています。彼らは肯定的な証拠を示してこの仮説(たとえば、細胞メッセージ伝達システムの存在)を採択するだけでなく、化学進化やダーウィン進化や新たな"自己組織化"理論たちを排除する証拠もさがしています。

創造科学(Creation Science)

創造科学は聖書の創世記に記されている字義通りの解釈を証明しようとするものです。創造科学は1982年のアーカンソー訴訟[23]の判例で定義されました。その訴訟では、地裁は"創造科学"を教えることは違憲であると判断しました。それが起源について創世記の事実上の言い換えであり、そのようなものを教えることは特定の宗教観を強要することになるというのが理由でした。似たような"創造科学"の判例が、エドワーズ対アジラード[23]裁判において最高裁判所での違憲判決で出ており、そこでもその理由は特定宗教観の強要でした。


インテリジェントデザインと創造科学の関係

インテリジェントデザインは創造科学ではありません。インテリジェントデザインは単に観測とデータ分析に基づく過去のある現象の直接原因についての仮説です。インテリジェントデザインはいかなる宗教経典も論拠にしないし、起源についての[創世記の]記述を証明しようというものでもありません。インテリジェントデザインの提唱者はインテリジェントデザイン理論が新たな証拠によって反証されるかもしれないことを認めています。

多くの宗教と非宗教の起源理論がその居所を見出せるかもしれない大きな住居(tent)のようなものです。インテリジェントデザインは、生命とその多様性が物質とエネルギーを操作できる力を持つ知性の産物であること以外に何も提唱しません。これは、"聖書に記された創造論"やイスラム教、アメリカインディアンあるいはその他の宗教的な遺産など創造主への信仰と矛盾しません。インテリジェントデザインは単純に、創造の理由は示しても誰が創造したかを示しません。それはインテリジェントデザイン理論家が隠された政策を遵守しているからではなく、データはその問いへの答えを裏付けるものではないからです。インテリジェントデザインはひとつの問いだけを指し示します:生命は指導された過程の産物なのか、指導されない過程の産物なのか? 生命が意志によるものなのか、無意味(意志なき)分子運動によるものなのか?

有神論の進化論(Theistic Evolution)

ギャラップによる過去20年の調査(表1)によれば、インテリジェントデザインという言葉知らないかもしれませんが、80%以上の米国人が何らかの形の神の指導する過程を信じています。これらの人々のうち約半分が「若い地球と文字通りの創世記」という見解を信じ、残りの半分が「有神論的進化論」あるいは「神に指導された(God-Guided)進化論」を信じています。

GallPol.jpg

a 項目欄はギャラップではなく著者が記述したもの
b 「過去1万年以内のあるときに人間を今の形で神が創造した」という文に同意した人
c 「人間は数百万年かけて、いまより原始的な形から発展してきたものだが、その過程を神が指導(guide)した」という文に同意した人
d 創造論と有神論の進化論の和
e 「人間は数百万年かけて、いまより原始的な形から発展してきたもので、神はこの過程に関与していない」という文に同意した人


進化を「時間につれての変化」と定義するなら、神はその変化を指示することができるので、神と進化論の両方を明らかに信じられます。しかし、正確にはその定義には批判的です。というのは進化を前述のように科学者が主張どおり(指導も計画もされない偶然)とすると、特定の結果を計画しないで単にさいころを投げる存在に他ならないと言う神を信じるという論理的なむつかしさがあるからです。従って、神がランダムな進化過程を使ったのであれば、定義により、それは無意味な(目的なき)、意図されない結果ということになります。「指導された(guided)、指導されない(unguided)」過程を信じるのは自己矛盾です。ケネス・ミラー教授はこのジレンマについて次のように論じています:
(カート) ワイズが明らかにしたように、進化論的生物学がキリスト教にとって真に危険なのは、大半の科学者がそうだと思っている理由からではありません。進化論版の自然の歴史が聖書の中心的な神話である唯一回の創造と洪水を脅かすことではないのです。むしろ、生命が本質的に無意味(目的がない)であると人々を納得させてしまうかもしれないという、凍りつくような予見です。宇宙に目的がないなら、意味もなく、絶対的なものもなく、存在意義もないのです[26]。


「サイコロを投げる」神を信じる人々は有神論よりも理神論に近いのです。理神論者は、おそらく物質と自然法則を創造したあと、歩み去り、再び姿を現さないような神を喜んで許容します。この神は「チップを落ちるところに落とします。」そのような神は自然界に干渉しません。彼はボールを転がすと、姿を消し、進化を真の"創造"となるように放置します。これは、大半の有神論宗教(キリスト教、ユダヤ教、イスラム教)が抱く神の姿ではありません。

科学と宗教を"重複のないmagisteria"し、2つを完全に分離された、異なる"知り方"と定義して、両者を調停しようとしている人々がいます[27]。このコンセプトによれば、科学の機能とは現実の"客観的"な知識を与えるもので、宗教は"主観的"な霊的な印象を取り扱います。しかし、ここで試みられた区分は、同じ問いに対して両者が答えを提示したときだけmagisteriaが重なるので、むしろ問題を悪化させます:「我々はどこから来たのか」という問いに対して、有神論は人間が何らかの目的のためにデザインされたと答えますが、科学はデザインや目的は幻想であると主張します[28]。混乱の深さを示す最近の例では、米国長老派教会(PCUSA)が採択した決議があります。その決議では"進化"は"創造者としての神"と両立すると言っています[29]。問題は、この決議において"進化"という言葉が定義されていないことです。もし、進化をPCUSAが「時間につれての変化」の意味で使っているなら、この声明は正しいかもしれません。しかし、進化が「指導されない、盲目の、意図されない変化」であるなら、この声明は論理矛盾です。

理神的進化論者は、自然の中にデザインの証拠がないので、神への信仰は"自然の事実(revelation)" すなわち、自然の中にある神の証拠には依拠できません[30]。キリスト教の記述によれば、自然の中に現れるデザインは現実のものです。従って、理神的な進化論者には、信仰のバイアスとして主観的個人的な霊的体験だけが残されます。論理的には理神的進化論者を事実上、厳密なダーウィン進化論者と区別できません。生命が何かにデザインされたものだと信じる有神論の進化論者はインテリジェントデザイン理論にその論拠を見出すでしょう。

Richard Dawkinsは、有神論と自然主義を融合させる試みはまさしく「洗練された神学のロビーに言い寄って、我々のキャンプに引き入れて、創造論者を別のキャンプに移す試みだ。これは政治的には正しいが、知的には正しくない。」と言っています[31]。


デザインの検出

インテリジェントデザイン理論の中心的な主張は、デザインが経験的に検出可能だということです。ほとんどの人々にとって、デザイン検出は熟慮することなく起こる直感的な過程です。これは、200年以上前にWilliam Paleyが彼の本「自然神学」[32]において最も見事に説明しています。田舎を歩いていると、彼はしょっちゅう石が地面にあるのを見ました。もし、彼が少しでも考えるなら、彼は単に物質的な力で形成された自然物がそこにあると結論するでしょう。しかし、もし懐中時計が草の上にあれば、それは知的な出所で作られたものと彼は結論するでしょう。何故でしょうか?それは、彼はそれを調べて、石と違って、それは時を刻むという目的を果たすために 複数の微細加工された相互作用する部品がともに働いている時計であることを発見するからです。彼は直接的なステップ・バイ・ステップの科学的過程によらずに結論に達し、そのようなシナリオは容易に想像でき、彼の結論はどんな理性的な人からも異議を申し立てられることはありません。彼はただ、それがデザインされたものであることを"知った"だけです。もし、Paleyが地面に携帯電話が落ちているのを見つけたら、彼は、その用途はわからなくとも、やはりそれがデザインされたものだと結論するでしょう。空から落ちてきたコーラのビンが「神は気が狂っているに違いない」とアフリカの部族に大混乱を起こさせた映画を思い出しましょう。一人の意志は、他の意志による創造的活動を"感知"できるのです。

この直感は人が造ったものに対しては有効に機能しますが、それが人の手によらないことが明らかにわかっている生物に対して適用できるでしょうか?言い換えると、生物学に適用できるでしょうか?ヒトゲノムプロジェクトの指導的科学者の一人であるGene Myersは、2000年にインタビューで「ほんとうに私にとって驚異なのは生物の構造です。そのシステムは非常に複雑です。それはデザインされたかのようです.... なにか巨大な知性がそこにあります」[33]と言っています。マイヤーズの直感が正しいとどうやったらわかるでしょうか?そして、彼(そして私たち)の心は私たちをだましていないでしょうか?私たちの直感が間違っていたとしたら、生命システムに私たちが見出したデザインは、進化生物学者たちの言うように幻想なのかもしれません。私たちの直感をチェックあるいは確認する方法はないでしょうか?

デザイン検出の方法

もし私たちが、ある物体あるいは現象がデザインされたものかどうか科学的に判定しようとするなら、直感以上の、使い勝手のよいものが必要です。私たちには、問いに対して形式化された客観的かつ系統的なアプローチが必要です。これはまさにWilliam Dembskiが探求を始めているものです。彼の本「The Design Inference」[34]で、Dembskiは「デザイン検出フィルタ」を使ったデザイン検出方法の概要を述べています。「あらゆる(過去あるいは現在の)現象やパターンそして物体について説明原理が3つだけ、偶然と必然(自然法則)とデザインがある」というのが、その論理的な構成です。自然主義仮説は生命の起源と生物の多様性に偶然と必然とだけが働いたと仮定しますが、デザイン仮説はこれら3つすべたが働いたかもしれないと仮定します。デザインの検出は本質的に、デザインが支配的であり、偶然と必然を排除する証拠を探すことになります。

Dembskiのフィルタの適用方法は、まず、問題となるパターンが、そのパターンを形作る個々の要素の意味あるいは意義とは独立な機能や構造あるいは目的を表しているかどうかを、まず問うことから始めます。たとえば、パターン"DESIGN"は、このパターンを構成する個々の文字の意義あるいは意味とは独立に認識できる意味を持っています。Dembski教授はこれを、"指定(specification)"と呼びました。文字列"NDISGN"は意味を持たないので、従ってデザイン推論を支持しません。

次のステップは、この明らかに意味のあるパターンがなんらかの法則や規則によって説明できるかの判断です。そのパターンはそのようになる必然性があるのか?そのパターンを形作る要素は、特定形状をとる必然性があるのか?もうしそうなら、それはデザインだと推測できないかもしれません。

そのパターンが必然でないなら、最後のステップ、そのパターンが偶然によるものなのかの判断に進みます。そのパターンが比較的単純であれば、それは偶然の産物であると合理的に説明できます。しかしながら、偶然で説明できないほど複雑であるなら、デザイン推論が正当となります。フィルタによりデザインされたと判断されたパターンは、Dembskiが"指定された複雑さ(specified complexity)"と呼ぶものを表しています。デザイン推論は複雑さとともに指定(specification)も要件としています。独立に与えられたパターンとマッチしなければなりません。

“TDlPH,B;5H;Nn;E/”は複雑なパターンですが、指定(specification)を欠いていて、意味を持ちません。浜辺の波のパターンは規則正しいですが、複雑さを欠いています。同様に、パターン"DESIGN"は指定されていますが、たった6文字であり、十分な複雑さを欠いていて、偶然ではなく目的をもったものだと自信を持って結論できません。
他方、ゲチスバーグ演説は複雑さと指定を併せ持っています。以下の3つの原理について議論により、読者はこの重要なコンセプトがよくわかるでしょう。

3つの説明原理
偶然。現象は偶然で起こりえます。偶然の現象は a)予測できませんし、b) 意図あるいは法則で制御できません。
カジノで遊んだり、トランプをしたり、コイン投げをした人は誰でも、偶然の意味を知っています。統計計算することで、私たちは、それがいつ、どこで起きるかはわからないが、与えられた現象が起きる見込みを予測できます。たとえば、スクラッブルの26個のパイが入った袋(英語のアルファベット各文字が1個ずつ入っていて、1個取り出されたら同じ文字のパイを補充するものとします)から目を閉じて1個取り出して、"DESIGN"という単語を綴れるのは、どれくらいの確率でしょうか?これは計算できます。1文字目に"D"を引くのは1/26です。"DE"と続けて引くのは1/26^2 = 1/676です。従って、袋から取り出してD-E-S-I-G-Nと綴れる確率は1/26^6 = 1/308,915,776 (=10^8.5) です。簡単に(少し不正確ですが)言うと、3億900万回、6個のパイを引くと、1回は"DESIGN"という単語を綴れることになります。これはたった6文字のパターンです。もし、"HAMBURGERS"と綴りたければ、141兆回(つまり、最初の1回で綴れる確率は1/10^14です)かかります。[訳注: この説明は確率論的には正しくない。141兆回では36.8%の確率で1回も綴れない。]  明らかに、パターンが複雑になれば、偶然で綴れる可能性は指数関数的に小さくなります。ほとんどの科学者は、発生確率1/10^150以下なら、それは事実上不可能だと認めています[35]。

必然(あるいは自然法則)。現象もしくはパターンあるいは物体は必然的に生じることがあります。必然的現象とは、化学や物理の法則により起こされるものです。塩の結晶は、意志からの直接の入力なしに偶然と必然とだけで構成されるパターンの例です。ナトリウムイオンと塩素イオンの溶液が過飽和になると、正の電荷を持つナトリウムイオンは負の電荷を持つ塩素イオンと結合して立方体の結晶構造を形成します。大陸を横切って流れる河は、重力の法則と物体(水、岩など)の存在によってその方向を規定されます。

デザイン。現象あるいは物体またはパターンの3つ目の可能な原理はデザインです。デザインされた現象あるいは物体またはパターンは、意志あるいは知性によって本来考えられ、目的を以って物質とエネルギーを操作して創られたものです。歴史上、人間が作ったものはすべて、デザインの結果であり、意図されたものです。まさに、このドキュメントは、多くの現象(文字、数字、句読点のユニークな並び)のパターンで構成され、インクと紙と言う物質要素を使って、意志によって配列されたものです。デザイン(言語と単語の選択)と必然(インクが紙につく)がこのドキュメントを生成(Cause)しています。自然は人間と人間でないものの"意志(mind)"に満ちていて、一部の科学者たちは異星人の意志を探しています。従って、過去に作用したかもしれない未発見の意志の存在を仮定することは不条理ではありません。

多くの人々が認めていて、議論するまでもない科学的方法は、デザインの検出や、現存する証拠の検証によってインテリジェントエージェントの過去の行動を推論といったものに依拠しています:
  • 事故死(偶然あるいは必然)なのか意図的(殺人)なのかを判断するための調査を行う科学捜査
  • 文字列パターンがメッセージを含んでいるのか、単なる無意味な雑音なのかを調べる暗号解読
  • 人工物が人間によって創られたのか、自然にできたのかを調べる考古学
  • 火災が意図的(デザイン)よるものなのか、擦り切れた電線(偶然か必然か)を黒焦げた燃え残りから明らかにしようとする放火捜査
  • 著作物が偶然に誰かの作品に似てしまったのか、意図的なものかを科学者が調べる著作権侵害と盗作


地球外知性探索 (SETI)
デザイン検出のもっとも明確な例がSETIプログラムです。SETIプログラムでは知的な発信源からの信号パターンをさがして、電波望遠鏡で全天を系統的にスキャンしています。これのフィクション版であるカール・セーガンの本(および映画)「コンタクト」では、研究チームが実際にパルス(1)と休止(0)で、最初の25個の素数(2から101まで)のパターンを繰り返すパターンを発見します。彼らは「ユーレカ!! 我々は見つけた!」と叫びます。では、何故彼らはそう結論するのでしょうか?あふれる歓喜の声は正しかったのでしょうか?このパターンをデザイン検出フィルタにかければ、これがデザイン推論を科学的に有効と判断できるでしょうか?

ステップ 1.
その信号系列がそのパターンを構成する個々の記号の意味とは独立にメッセージあるいは意味を持っているでしょうか? YESです。パルスあるいは休止は独立した意味を持っておらず、パターン(素数系列)だけが意味を持っています。

ステップ 2.
その系列は既知の物理法則に規定されたものでしょうか?そうなる必然性があるでしょうか?NOです。

ステップ 3.
その信号系列が偶然にできる確率はどれくらいでしょうか?これだけを考えるなら[36]。これは簡単に計算できます。パルスと休止の2種類、YESとNO、0と1です。そして、1126個のイベント(パルスか休止)が信号系列にあります。なので、偶然にできる確立は2^1126回に1回、あるいは10^338回に1回の確率です。この数字は10^150よりもはるかに大きいので、この意味あるパターンの合理的な原因として"偶然"を排除できます。では何が残るでしょうか?原理は3つしかありません。デザインと偶然と必然です。偶然と必然を排除して、デザインと言える意味を見出したので、私たち(とSETI研究者たち)はパターンの発信源の(現在の)最も適切な説明は意志であると結論できます。ユーレカ!!

SETIからDNAへ 

SETIの例で示した論理が科学的に有効なら(この結論に合理的な人がけちをつけなければ)、私たちはまったく同じ方法を自然にある対象に適用できます。フィルタにかけてデザイン推論に至るのであれば、私たちはもっとも合理的な結論に自信を持てます。では、外宇宙を離れて同じくらい深い内宇宙、生命の最小単位の中心、細胞へと話を移しましょう。ここで、私たちは地球における既知の最古の有機生命であるバクテリアに注目しましょう。バクテリアは地球がいかなる生命にも居住可能になった頃から、未知の自然の過程で出現したと仮定されています[37]。私たちは何を見つけるでしょうか?私たちは、生命に必須な化学物質である、すべての細胞蛋白質を統合する命令を持つ巨大な図書館をバクテリアに見出します。DNAは非常に長い分子(最も単純な細胞であっても、400万"字"以上の長さ)で、コード化されたメッセージを含んでいます。それは図書館の本のように整然と並んでいます。本は、文字から構成され、文字はつなげられて文になり、分はパラグラフ、章、そして本全体となります。最も単純な細胞にもこのようなDNA"本"が何百とあります。細胞内のDNAの発見は、外宇宙から届いた素数列の発見と同様に、"ユーレカ!"と叫ぶに値するものでしょうか?フィルタにかける必要があります。

ステップ 1.
DNA列は意味を持っていて、目的を持っていますか?YESです。細胞の生命機能を実現する分子機械を組み上げる命令列を与えます。それぞれのDNA"文字"はまったく意味がなく、その文字の連鎖、系列、パターンに意味があります[38]。意味はここの文字の意味とは独立です。英語のアルファベット文字列が意味を持つのと同じように、これらのパターンは機能します。

ステップ 2.
その信号系列は物理法則に規定されていますか?NOです。もし法則が系列を支配しているなら、その系列は意味を持ちえません。何故でしょうか?英語で文を書くとき、すべての"a"の次には"b"がこないといけないでしょうか?"c"を"b"の後の持ってこさせる法則があるでしょうか?もちろんありません。もしあれば、私たちはどんな単語も綴れず、言語を記述できません。どの文字もどの文字の後に使ってもよいので、アルファベットは言語、すなわちコミュニケーションの手段として使えるのです。DNAでもそうです。文字の並びが化学法則にしたがっているなら、生命に不可欠な膨大な情報を運べません。どの遺伝子文字もどの遺伝子文字の後に来てもよいので、遺伝子は地球上の生命の多様性を実現するに必要なだけの無限の命令列をゲノムが記述できるからです。例外があることが不可欠であり、法則では規則正しいものしか作れません(だからこそ法則と呼ぶのですが)。

ステップ 3.
偶然に最初の細胞にDNAが組みあがる確率はどれくらいでしょうか?自己複製する機能を実現するだけの最低300個の遺伝子が、最初の細胞に必要であると仮定します。偶然だけで100個のアミノ酸を作る遺伝子コードが組みあがる統計確率は1/10^190のオーダーだと計算できます[40]。従って、私たちの答えはNOで、機能を持つDNA連鎖が偶然に出現する確率はゼロと考えられます。

私たちはデータと事実からもっとも論理的な結論に至りました。それは、最初の機能する細胞にあるDNAが運ぶメッセージは知的な源に由来することの証だと言うことです。有意味な信号系列が外宇宙で発見されれば、それは"知的異星人"の存在を強く示唆します(いまだ見つかったことはありませんが)。それは生命が他の惑星に出現したことを示唆するので、これは科学的に認められうる推論です。他方、もっと複雑で意味のある"信号"が現に生きている私たちの体内で見つかれば、それは知的な源に由来するのでしょうか?インテリジェントな原理が生命の起源において働いたこと(Causes)を拒否する哲学たる自然主義哲学が科学を支配している限り、このような推論は認められません。

自然主義が正しいなら、DNAが自然法則と、私たちの分析では不可能と言えるランダムな変化によって、形作られたことになります。これは自然主義を厳守することによって起きる問題であり、だからこそこれが科学的に逆効果だと信じているのです。

インテリジェントデザインを支持する証拠

デザイン理論に対する証拠は、デザインを肯定する証拠と、自然主義理論を否定する証拠から構成されます。前述のように、もし2つしか可能な説明方法がないなら、一方に否定的な証拠は、他方に肯定的な証拠となります。

外見のデザイン(Apparent Design)

おそらく、もっとも直接かつ無視できないデザインの証拠は、生命システムのデザインの外見です。私たちが矢尻をみつけたり、人間の眼を研究したりするときに直感的にその証拠を存出します。宇宙のデザインについて、アリストテレス、ソクラテス、プラトン、コペルニクス、ガリレオ、ニュートン、ベーコン、ボイル、およびアインシュタインにさえ納得させた証拠です。 つい最近まで、科学の基礎は外見のデザインが構成していて[41]、それはRichard DawkinsやGene Myers(前述)が生物学にデザインを見出したのも、この直感です。

科学において、もっとも明白でもっとも単純な説明は、ふつうまっさきかけて受け入れられますが、新しいデータによって異議を唱えられるかもしれません。そのようなデータ(ヒントでも、示唆でも、希望的観測)によって、実際に元の仮説が反証されるまで、その仮説は破棄されるべきではありません。記録に残っている人類の歴史の最初の4000年では、デザイン仮説は事実上、普遍的に受け入れられていました。そして科学者の仕事は、この世界がどう生まれたかではなく、創造された世界がどう機能するかを発見することでした。18世紀半ばにヒュームはデザイン推論の論理に異論を唱えましたが、代案は提示しませんでした。Darwinは対抗しうる自然主義仮説という代案を提示しました。当時の多くの人々は(彼と同じく生命の新の複雑さをまったく知らなかった)はすぐに受け入れました。しかし、(特に20世紀後半の)近代科学は、細胞(と宇宙)の構造と機能の度肝をぬくような複雑さを発見しました。 これらの発見により、科学者たちはデザイン仮説のメリットを再考するようになりました[42]。
[訳注:これはインテリジェントデザイン理論の本山であるDiscovery Instituteの400名以上の科学者が署名のこと]

還元不可能な複雑さ(Irreducible Complexity)

生命の起源に対する"法則と偶然"という説明は、細胞の複雑さという本質に関わる観測の観点からはもっともらしくありません。生物化学者 Michael Bahe [訳注:Dr. Dembskiと並ぶインテリジェントデザイン理論家]は、生物の多くの生物学的メカニズムは還元不可能な複雑さを持っていると主張しています。この還元不可能な複雑なシステムとは「ひとつの基本機能をよく調和して相応作用する複数のパーツから構成されたひとつのシステムで、パーツのひとつでも取り去ると、機能しなくなるもの」です[43]。"還元不可能"という形容詞は、より複雑なシステムへと組み上げられる、より単純な機能を持つシステムに分解できないことを意味します。

Dr. Beheは還元不可能な複雑な生物学的システムの例としてバクテリアのべん毛をあげています。この生物機械は高速ロータリーモーターであり、プロペラを回転させて、バクテリアを食物の方へ、あるいは危険を避ける方へ動かします。それの組み立てと動作には少なくとも40個の、とても複雑で、結合されて、動くタンパク質部品が必要であり、一方それは、もっとも原始的な細胞の完全に機能するコンポーネントだと信じられています。全部の部品が同時にそろわない限り、それは動作しません。個々の部品がばらばらではダーウィンの自然淘汰は効かないので、自然淘汰によってこのような機械は作れないとDr. Beheは主張しています(それらの部品には、オリジナルよりもよく機能して自然淘汰で選択されるような生存に有効な機能を持っていません)。Dr. Beheによれば:
還元不可能な複雑なシステムは直接的に、変化前の形態から漸進的な変化(すなわち、初期の機能を、継続的に発展させつつ、同じメカニズムが機能し続ける)によって作れません。それは、いかなる、変化前の形態から還元不可能な複雑なシステムへ変化しつつあるとき、欠けた部品があれば定義上、機能しなくなるからです。還元不可能な生物学的システムが、もしあるなら、ダーウィン進化論に対する強力な反証となります。自然淘汰では既に機能しているものだけが淘汰の対象となるので、生物システムがもし部品が徐々に組み上げられて出来上がるわけにはいかない。従って、自然淘汰が影響するためには、一気に組み上げられなければならないでしょう。


自然法則と偶然だけではひとつの細胞にある、高度に複雑で統合された複数のコンポーネントから構成されるマクロ分子機械のひとつのタンパク質部品でさえも組み上げられたことはありません[45]。現象の準備と調整を知覚、決定、計画、支持する意志の機能がなければ、偶然と必然は概念だけであって創造的には無力です。

生物学的情報(Biological Information)
生命システムは膨大な量の情報(DNAなど)によって特徴付けられます。意味のある特質を持つ情報を生成できるような物理および化学法則あるいは過程は知られていません。複雑さなら可能ですが、情報は不可能です。意味のある特徴は物質あるいはエネルギーだけからは発生しません。意味を作り出せるのは、私たちが経験的に知っている限り、意志のみです。たとえば、"SGIDNE"という文字列は意味を持ちません。しかし、同じ文字を並べ替えて、"DESIGN"とすれば、物質ではなく意志に由来する新しい意味と情報を持ちます。これは天文学者 Paul Davisの説明です:

雪の結晶は六角形の特定形状に文法的情報を含んでいるが、これらのパターン、その構造自体の背後には意味のある情報やいかなる意味も持っていない。これに対して、生物学的情報の特徴的な性質は意味を十分持っている。DNAは機能をもつ有機体を作るために必要な命令列を構成している。明示され予め定められたものを作るための青写真なるいはアルゴリズムを。雪の結晶は、何も象徴するコードを持っていないが、遺伝子は明らかに持っている。生命を説明するのに、自由エネルギーや負のエントロピーの源泉を特定するだけでは、生物学的情報を作り出すに不十分だ。我々はまた、いかにして意味ある情報が出現したのか理解する必要がある。それは情報が単に存在するのではなく、情報の質が真のミステリーなのだ[46]。


生物学的システムの人間の創ったシステムの類似性(Similarities in Biological and Human-Made Systems)

ダーウィン進化論と"創造"する進化の力を支持する人々は類似性の議論に大きく依存している。生命形態によらず分子は類似しており、異なる動物のボディプラン(形態の設計)は類似しているなど。もちろん、類似性は同様に、共通のデザイナーを示唆し、それによって進化論者は生命の可能性としてデザイン(哲学ではなく証拠に基づく)の可能性を排除できません。科学者は多くの生物学的システムが人間が作ったシステムと同じ特徴を持つことを発見しています。ひとつの例はモールス符号のコンセプトと遺伝子コードの類似です。実際、後者は人間が作ったコード化システムのアナロジーとして発見されました[47]。ファルコン(ハヤブサ)は その名を持つF-16 ファイティングファルコンよりもはるかに複雑であり、バクテリアのべん毛を動かすナノスケールのモーターは人間が作った電動モーターよりもはるかに高性能です。人間の作った複雑なマシンと生体分子機械および情報処理システムの類似性は、デザイン仮説を支持します。もし、"類似性"がダーウィン進化論が認められる証拠であるなら、それはデザイン仮説にとっても同様です。


突然の多種の化石の門の出現(Abrupt Appearance of Fossil Phyla)

ダーウィンの自然淘汰は生物の形態の変化が長い時間をかけて徐々に小さな変化を蓄積することで起きると仮定しています。しかしながら、化石の記録はこの推測と矛盾しています。現在の証拠は、最初の生きている細胞は地球の気温が生物が居住可能なレベルになった直後(数百万年)に出現したことを示唆していることから始めましょう[48]。科学者ははじめ、生命の出現には数十億年の時間がかかると推測していましたが、バクテリアの出現は、地球の気温が沸点以族になってから次第にというよりは、直後に突如、生命が出現していました。40種以上の新しく異なった生命が5億5000万年前の「カンブリア紀の爆発」に登場しています[49]。事実上、すべてのボディプランが同時に出現したことはダーウィンの進化論と矛盾します。Stephen J. Gould とNiles Elderidgeは、生命形態の突如の出現を"説明"するために"断続平衡説"を提案しました[50]。残念ながら、それは何も説明したことになりません。誰もみていない間に進化が起こって、動物の変化が急速すぎて化石を残すのに十分な時間がなかったか、化石となるには中間種の個体数が少なすぎるかと仮定しただけです。これは証拠ではなく、希望的観測であり、突如の大きなスケールのゲノムの変化を指示する生物学的メカニズムは知られていません。インテリジェントデザイン理論は変化の速度についてではなく、生命の発展の制御についての理論なので、ゆるやかな生命の出現と突如の生命の出現のいずれのケースに対しても、対応できます。

インテリジェントデザイン理論は、どんな進化論の過程も多様な種の起源に関与していないとは主張しません。インテリジェントデザイン理論は進化が生物の多様性を説明するには不十分であると主張しているだけです。

多くの宇宙物理学者と宇宙論者は、長年、宇宙が「微調整された」ように見えると認めています。 「微調整された(これはデザインと同義語)」とは、非常に正確で複雑にバランスした物理法則の基礎をなす数値定数の存在していることを指しています。重力、電子の質量、陽子の電荷などが特定の実現値です。それらがわずかでも違っていたら、生命どころか、いかなるものも存在し得ないでしょう。Martin Reesは観測された「微調整」を満足する解は2つしかないことを認めています。そのひとつはデザインであり、もうひとつは私たちの宇宙が無限の独立した並行宇宙のひとつであるとして、私たちの"微調整"された宇宙の存在確率を上げるというものです。自然主義に傾倒する者として、彼はデザインという結論を避けるために、見ることも存知することもできない証拠のない複数の宇宙の存在に頼っています。数十億あるうちのひとつの平均的な銀河系の裏庭にあるちっぽけな恒星のまわりにあるちっぽけな太陽系のちっぽけな惑星という存在からかけ離れて、宇宙における地球の位置がとてもユニークである[52]という証拠が提示されました。その結果、宇宙の「微調整」と地球の位置に関する証拠はデザインを支持する証拠となります。

インテリジェントデザイン理論についてのこれらの兆候と証拠に加えて、反論を支持しない発見がありました。これらはさらにデザイン理論の立場を強化します。

統計的研究(Statistical Studies)

数学的な分析は、複雑な生物学的システムを偶然を基礎としたダーウィンの進化論で作ることは想像を絶するありえないことだと示しています。(数千の他の生物分子に触れるまでもなく)遺伝子コードの統合はありえないとNoam Lahav, Walter Bradley and Charles Thaxton, and Robert Shapiro[53]も論じています。

誤って伝えられる証拠(Evidence Misrepresented)

"Icons of Evolution"と題した最近出版された本には、米国で使われている其科書に見られる、進化についての誤解させるような学説について詳細に記述しています[57]。"Icons of Evolution"は誤報に焦点を合わせていますが、その厳密な分析は進化論に関する多くの重要な問題点を指摘しています。


デザイン理論に対する反論

デザイン検出方法を生命システムに適用すると、それらがデザインされたと結論されますが、誰もが同意するわけではありません。従って、無神論者として、デザインに対する最も有名な批判者である、オックスフォード大学のRichard Dawkins教授はインテリジェントデザイナーが存在する可能性を認めません。生命におけるデザインは見かけだけ、ただの幻想だと言っています[58]。Dawkinsにとっての真の"デザイナー"は、ダーウィン進化論の具全と必然たる盲目の時計職人です。彼の結論は、彼が証拠として選んだデータと同じくらいに彼の哲学的な先入観に依拠しています。

明らかに、インテリジェントデザインに対する最も一般的な批判は進化論を支持するために集められた証拠です。 一般に、それは次のような観測結果です:
1) 化石は存在している。これは地球の歴史において非常多くの種類の形をした生物が存在し、後に出現したものが初期に現れたものより複雑であることを示している。
2) Darwinの自然淘汰は自然の中で観測できる。種族の中で、病気で弱く老いたものから淘汰され、敏捷なものが生き残る。
3) ある毒(抗生物質)の中で培養されたバクテリアは、DNA(したがってタンパク質も)を変化させて、毒素に対する耐性を身につけ、生き延びる。
4) 多くの動植物が、人間によって品種改良され、DNA構造と彼らの物理的な形態変えられた。従って、生物の形態は不変のもの(Darwinの時代には広く信じられていた)ではなく、(少なくとも知的な存在の指示のもとで)変化する。
5) 種を超えた体の形状や特に生物分子の類似性は、共通の祖先がいたことを示唆している。

さらに、自然主義者はこのリストに、インテリジェントデザイン理論が示唆するデザイナーを誰も見ていないという事実を加えるでしょう。従って、デザインの証拠はないと。しかし、ストーンヘンジのデザイナーを誰も見ていませんが、誰も南イングランドにあるこの岩石のリングが知的にデザインされたことを疑いません。さらに、最初の生命の誕生とそれに続く多くの変化における意志なき進化過程が機能するのを観察できるわけでもありません。だから、デザイナーを見られないという反論は弱いのです。しかしながら、この反論をするにあたって、ダーウィン進化論者は、科学的に発見に中心的な論理構築の道具を知っています。理論Aを支持するデータは、理論Aと無矛盾でありかつ、競合する理論Bと矛盾するはずだということを。実際、事実上、ダーウィン進化論を実証するのに使われる観測はすべて、インテリジェントデザイン理論も実証するので、どちらが正しいか証明できません(後述)。この事実が一般あるいは学校生徒に公開されておらず、Darwinが正しく実証されており、従って事実であるという間違った印象を与えられたままになっています。話の半分だけしか伝えないのでは教育は教化にしかなりえません。

Darwinは科学界を種の不変性という誤った考えから、きわめてうまく解放しました。それは、彼が動物は(少しは)変化するということを示したからです。これは新しいアイデアではありませんでした。人々は数世紀にわたって品種改良を続けてきたからです。Darwinのアイデアが新しい点は、変化に限界がなく、ランダムな変化に自然淘汰がはたらくことで、共通の祖先からすべての生物が生まれたという命題を導けることにあります[59]。これらの仮定は、データからかけ離れた途方もない信念の飛躍です。しかしながら、彼の論理は、宗教優位の息苦しい狭窄から解放されるのを切望していた19世紀の聴衆には無視できないものでした。教会の権威は結局は創造主の存在に依拠しており、その存在は生物界自体によって証明されているものでした[60]。もし、Darwinが正しいのであれば、科学は聖書が間違っていることを示したのだから、その証拠による圧制はやみました。

(教科書からテレビまで、日々私たちの文化を満たしている)自然主義仮説を立証する支柱についてさらに説明する必要がありませんが、自然主義が幾つかの重要な"自然"現象を説明できていないことを指摘しておく必要はあるでしょう。たとえば、宇宙の起源、宇宙の法則と定数の起源、生命の起源そして、還元不可能な複雑さの起源。自然主義的科学者は、自然とこれらを一時的に問題とみなします。というのは、科学の歴史は、いったんはミステリーだとされた現象も最後には"自然に"説明がつくという例に満ちているからです。確かにこれは明らかに真実ですが、リアルタイムに、関連変数を完全に制御できる条件で実験ができる実証科学や実験科学などにおける進展であることを忘れてはいけません。それはまた、型破りなことを考えることを推奨するフレームワーク内で実行されています。方法論的自然主義は起源を考える自由を制約します。

インテリジェントデザインは「科学の停止装置」か、"God of the Gaps"理論か?

批判者はそのように非難しています[61]。地球が丸いという発見は「科学を止めた」でしょうか?病気の病原菌病原説や、鉛から金を創れないという発見はどうでしょうか?これらの発見は科学の発展を止めたでしょうか?これらは真理の発見であり、したがって、科学的探究をある意味、止めました。彼は、自動車のキーが見つかれば、キーを捜すのをやめるのと同じ意味で、科学的探求を止めたのです。それ以上の探求の必要がなくなったからです。何故、私たちがポリオ防止方法や自動車の発明に資金を出さないかと言えば、それはもう答えが出ているからです。インテリジェントデザイン理論が正しければ、生命とその多様性は未知の知的存在によるものであり、そうなれば、(重力と同じく)それを所与のもととして、反論を証明するのをやめて、生命がどこからきたかではなく、生命がどう機能するかの発見に研究を努力を費やすのが、知的対応です。たとえば、遺伝学の分野では、ゲノムがどれくらい可塑であるかを探求すればよいのです。自然な変化の限界がどこまでで、遺伝子の知的な操作によって、どこまで限界を拡張できるか?遺伝子の挿入と削除でリスをシマリスに変えられるか?遺伝病を治療できるか?そのような有益な発見につながる問いに、注力すべきなのです。私たちの立場から見れば、貴重なリソース(とお金とキャリア)を、仮定が間違っているかもしれない、進化によっていかに私たちが生まれたかを探求することに振り向けるのは、恥です。

科学を前もって決められた採用可能な説明のセットに限るなら「自然な説明はがなければどうするか?」と自然と問うことになります。実際、DNAは知的存在によるものならどうでしょうか。科学は永遠にこれに気づかず、存在しない自然主義的答えの探求に知的資源と金銭的資源を浪費し続けるでしょう。科学の発展は袋小路の発見と間違った理論の排除に大きく依存しています。これが科学の働き方であり、インテリジェントデザイン理論は科学的探究を抑えるのではなく、推進するものと見るべきです。たとえば、最近公表されたコンピュータシミュレーションは知的入力なしに生命がいかに進化するかを説明するものえあり、これは反対の立場にあるインテリジェントデザイン理論の科学的挑戦に触発されたものです[62]。

インテリジェントデザインは"god of the gaps"理論でしょうか? 自然法則と偶然によって説明できないものは何でもデザインだとインテリジェントデザインは提案したと告発されました。従って、私たちの知識の隙間はすべて神によるデザインだと。それにはあたりません。指導されない自然の過程でそのパターンあるいは物体を創れないかを(想像ではなく)論証して、明らかなデザインや意味がそのパターンに欠けていることを示せば、デザイン推論を反証できます。日々、SETI研究者は電波に隠されたメッセージ(デザイン)がないか検証し、いまだ信号がある例を見つけていません。他方で、競合する仮説としてのデザインではなく、自然主義的説明が"chance of the gaps"あるいは"environment of the gaps"な説明をしています。今日、自然法則と偶然で説明できないことは何でも、(無限の並行宇宙のような)確率のリソースをインフレさせる法則や方法を見つけて、明日には自然法則と偶然で説明できるようなると。それ以外に許されないという理由で、そのような自然法則や偶然による説明があるはずだと。

インテリジェントデザインは科学の停止装置でしょうか。いいえ。真の科学の停止装置はデザインを哲学のようなものとして排除する方法論の自然主義です。

インテリジェントデザインは宗教であって、科学ではない?

起源の問題への科学的研究法を適用すれば、インテリジェントデザインが科学であるが明らかになります。デザイン推論は宗教テキストではなく、本当にデータに基づいています。これはディベートの経緯が証拠です。Richard Dawkinsが説明するように、ダーウィン理論は、彼の時代に支配的だった生命システムがデザインされたように見えるという信念への対論としてつくられました。デザインに反対するのがDarwin(そしてDawkins)にとって科学的だというなら、それに同意しないことが科学的です。デザイン理論は一般真理を探究するという科学の伝統的な定義と矛盾しません[65]。

科学組織やその他の組織はデザイン理論に対する数多くの反論をあげて都合よく進化論に生命の起源の説明を独占させようとしてきました。ひとつの反論はデザイン理論が検証不可能で、予言不可能だとうものです。前述のように、デザイン推論は他の伝統的なすべて科学においてつかわれる検証テクニックによって検証できるかもしれません。よい例がSETIプログラムです。さらに、進化論は競合する理論と対比され、比較検討されねばならず、インテリジェントデザイン理論はその起源科学の部分を担います。

デザイン理論は予測をしないで、科学的でないと主張している者もいます。まず始めに注意すべきは、進化の定義そのものが予測不可能です[66]が、デザイン理論は実際に予測可能なことです。たとえば、ゲノムはある目的のためにデザインされており、ジャンクDNAと呼ばれる部分にも機能があると予言します。そして、この予言は最近実証されました[67]。

インテリジェントデザインは生物学的システムが、偶然と法則によるもではなく、意志によるものだと仮定します。この予言は日々、生化学者が生化学機械の"リーバスエンジニアリング"をしようとするとき使います。すなわち、それらのアーキテクチャに組み込まれたデザインの決定事項をさがすことになるからです。William Harveyはデザイン理論を使って、心臓と静脈および動脈の構造を基に、血液がどう循環するかを発見しました。そのようなデザインに対する反論は、起源についての知識を高めるのではなく、議論からデザインを都合よく排除し、インテリジェントデザイナーの支持するいかなる科学的証拠も抑圧するためにつくられたつじつまの合わない弁解に過ぎません。

インテリジェントデザインは宗教ですか? とんでもない。いかなる宗教テキストからでもなく、単に客観的データから得られた論理的な推論です。おそらく最も重要なことは、試験的仮説(方法論の自然主義のような)であって、信念と承認を必要とする主義ではありません。デザイン仮説はそれが当然のことと思われるのを必要としません。 どんな「宗教」(国教禁止条項目的のための)の主要な要件もそれが信念システムであるということです[68]。デザイン理論と進化は、理論あるいは仮説として、宗教に重要な問題を記述しますが、最高裁判所が、組み合わせた結果が特定のあるいはすべての宗教の教義と一致あるいは調和したとしても、材料の組み合わせだけでは宗教を構成しないと判断しました[69]。さらに デザイン推論は、特定の信仰システムを唱えようとはしておらず、知られている宗教の聖職者、倫理とモラルのセット、宗教テキストあるいは装飾を持っていません。

いずれもを支持する証拠は何も証明しない

進化論とインテリジェントデザイン理論のどちらかを立証する証拠だけでなく、多くの証拠はむしろ両方を立証します(従って、どちらも証明しません)。

適応と自然淘汰

環境の影響力によって、種の中で、小さな適応的な変化が起きることについて意見の相違はありません。違いは、ダーウィン進化論者が変化の限界がないと主張するのに対して、インテリジェントデザイン理論は(確実な実験的証拠から、私たちの観点で)事実上の限界があると主張している点です。それに加えて、(新しいタイプの動物につながる目新しくて、複雑な科学システムの出現など)壮大に主張したものは直接観測しえません。インテリジェントデザイン理論家は、これは個々の"デザイン・イベント"が唯一特別なものであって、(ビッグバン理論のように)遥かなる過去に一度だけ起きたものだからと考えます。きわめてゆるやかな変化によって古い種から新しい種が生まれるというダーウィン論者の主張でもまた観測されません。それは、その過程があまりにゆるやかであるために、それが判別できるまでの長い時間を観察者が生きていられない、あるいは変化の本当の理由である生化学をまだ十分に理解していないからだと、ダーウィン論者は考えます。従って、両方の理論ともに間接的な証拠に依拠しています。

インテリジェントデザイン理論家は生化学システムに存在する情報を、過去に知性がデザインしたことの間接的証拠だと指摘します。ダーウィン論者にとっては、ガラパゴス諸島の「ダーウィンのフィンチ(小鳥)」の例が大きく喧伝されました[70]。この話では、渇水期にフィンチのくちばしの平均のサイズが大きくなるのが観測されました。これは環境条件が正しければ、新しい種が約200年以内に出現するだろうという示す注目すべき証拠として、提示されました。読者は進化論と合致する半分だけではなく、話全体を聞けば、これがそれほど注目すべきものではないと思うでしょう。実際、乾季のあとの雨季にはくちばしの平均サイズは「平年」にもどっていきました。
群れ全体の平均のくちばしサイズの振動は、新しい動物が出現したのではなく(新しいくちばしですらなく)、環境要因の変動に体操する過程です。乾季では、(より固い乾いた種をつつける)より短く、よりたくましいくちばしが種を存続させます。雨季には、豊富なやわらかい種があるので、大きなくちばしの方が生き残ります。フィンチのゲノムが組み込まれているのは、環境圧力に対応して変化する能力ですが、しかしそれには限界があります。

ダーウィン論者には、観測された小さな変化(広く受け入れられている小進化)を無批判に受け入れて、(私たちが見るに、広く)外挿して大進化を結論する傾向があるのが問題です。それは、人間が3フィートの小川を飛び越えられるというとても正確で再現可能で定量的科学的観測に基づいて、人間が大西洋を飛び越えて新世界にたどりついたと結論するようなものです。ガラパゴスのフィンチのような話は、学校で何故進化論についてもっと教える必要があるか明らかにしています。すべての証拠は、かれらほども注目すべきでものではありません。

分子レベルと解剖学レベルの種の間の類似

(厳密には生きていないある種のウィルスをのぞけば)すべての生物にDNAがあります。あらゆる生物には(事実上は同じ20の)アミノ酸でできたタンパク質があり、バクテリアと人間のタンパク質はよく似ていることがあります。これは同一の祖先を持つことを立証するでしょうか、それとも共通のデザイナーの存在を示唆するでしょうか? 理論的にはどちらも成り立ちます。自動車、飛行機、エアコン、および大型衣装箪笥にはボルトがついています。これはどれかのものかどれかに進化したからでしょうか、それともデザイナーがよく似た部品をつかってまったく関係のない物の似たような問題を解決したからでしょうか? インテリジェントデザイン理論は、よく似た分子(および解剖学的なもの、たとえば手足目など)から多くの種が形作られていることを、共通のデザイナーを仮定することで、対応します。

"観測された進化"〜抗生物質と薬剤耐性

"通常の"固体にとって致命的な環境で生き延びる"新しい"バクテリアや蚊の出現をインテリジェントデザイン理論はどう見るでしょうか?これはダーウィンの理論の決定的な証拠ではないでしょうか?これらの観測例に対するインテリジェントデザイン理論の見解に注目する前に、少なくとも2点を指摘する必要があるでしょう。第1に、毒素に免疫を持つバクテリアや昆虫は元と同じ種のバクテリアや昆虫です。それは新しい生物でも新しい種でもありません。何も新しいものは"創造"されていません。第2にこれらの生物は、抵抗力を"獲得"したのではなく、感受性"を喪失したことです。正常な種類の個体を死なせる有毒化学物質と結合できなくなったか、取り付けなくなったかした変異もしくは破損したタンパク質を持っているのです。従って、どんな新しい能力も獲得しておらず、正常な機能を失っただけなのです。この証拠はデザイン理論の予測である、予期された適応性と生来の耐久性を持つ機械のようにデザインされた免疫システムと矛盾しません。免疫システムの変異率はその他の部分のゲノムの数千倍も速いことが知られており、この高速変異なしには、生命システムへの多種の新しい脅威に対抗できません。このことは、小進化を進める変化の原因がランダムではなくデザインされたものだということを示唆しています。これらは、限定された方法で環境の変化に対応する計画された柔軟性の例です。

起源理論を生命倫理と関係付ける

神は私たちを創造したのでしょうか、それとも私たちが神を創造したのでしょうか? 私たちには本来の目的があるのでしょうか、それとも私たちは自由に私たち自身の目的を定めることができるでしょうか?これらの質問の答えは倫理のどんな議論にもかぎとなるものです。 William Provine教授は、自然主義的、唯物論そしてダーウィン進化論の世界観が深く意味するところを私たちにわかりやすく説明しています。
第1に、世界は機械論的原理にしたがって厳密に構築されるのだという前提を、近代科学は直接的に内包している。自然にはいかなる目的のある原理はない。合理的な方法で検出可能な神やデザイナーは存在しない。第2に、いかなるモラル、倫理的法則、人間社会の絶対的な指導原理も、近代科学はまったく内包していない。科学と宗教の対立は、宗教的信仰をもったまま、進化論生物学を受け入れるために、教会の扉で自ら脳をチェックしなければならない、というものなのだ。

Provine教授は正しいでしょうか、間違っているでしょうか?自然現象が設計されたものでないと考えるなら、彼は論理的に正しいのです。ある目的のための将来のイベントの準備を整える力を持つ意志のみが、目的の起源たりうるからです。自然法則と偶然には、ゴールを目指し、未来を考える力はありません。従って、ダーウィン論者あるいは進化論の世界観が、有神論の世界観からのそれとは正反対であるという重大な倫理的な意味があります。ある目的のために我々がデザインされたかどうかで、倫理的な判断は大きく異なります。たとえば、合理的で論理的な正当化なしに、他の意志の計画や目的に反した行動をとりたがりません。屋外の石の整列された集まりを見つけて、それが古代の墓地であることがわかれば、土地開発業者は工事を中止して命令を待ちます。古代文明の明確な意志と目的に違反する前に彼は、少なくとも意味を考えるでしょう。 しかしもし、石がただ洪水や雪崩などによりばらまかれたものであるなら、彼は考えるまでもなく、ブルドーザーで押しのけてしまうでしょう。

同様に、生命が偶然のものであるなら、なぜそれを私たちの必要に応じて変更しなてはいけないのでしょうか?もしできるなら、何故ヒトクローンを作ってはいけないのでしょうか?何故、望まれぬ子を堕胎してはいけないのでしょうか?何故、もはや働けない老人を安楽死させてはいけないのでしょうか?何故、結婚制度を廃止してはいけないのでしょうか?何故、脱税してはいけなのでしょうか?何故、盗んだり、殺したり、破壊してはいけないのでしょうか?普通の人々は、生命に本来の目的がないなら、心に浮かんだ目的と合致するものならなんでも許容できると直感的に認識します。「神がまったくいなければ、なんでもは許される[72]」しかしながら、もし生命がまったくの偶然のできごとで(少しでも)ないなら、何かデザインされ、作られたものであるなら、生命には本来の目的があるはずです。目的が生命に充ちているなら、私たちはその目的とは逆にあえて危険を冒しても行動します。遺伝子操作による「デザイナー人間」を作ることは、現在は未知の標準目的と衝突していて、想像を絶する災害はもたらされるかもしれません。私たちは本来の目的がわかるまでは生命をどこまで操作してよいでしょうか?

インテリジェントデザインにおける生命倫理の意味は個人について文化についても明らかです。ヒトクローンを作るべきか否か、ヒトの臓器を流通してよいか否か、死刑を宣告してよいか否か誰が私たちに教えてくれるでしょうか?誰が文化というテーブルの上座に座るのでしょうか?テーブルの席につくのを許されているのは誰でしょうか?自然主義的な科学は「事実」を提示するものであり、その目的と意味を述べる限り神学者や哲学者も許容されるでしょう。しかし、唯物論的科学が生命に本来の目的がないと既に結論を下した後で、どんな本当の役割が宗教に残されているでしょうか?なぜ生命には目的があるという誤った概念を思い違いをした個人は何かを信じられるでしょうか?それらは、政治的理由でパーティーに招かなければならないカップルのようで、その風変わりで美しい視点が無視されます。生命が本当にデザインされ、目的があればどうでしょうか?科学にとっては?もしそうなら、宗教はテーブルに席を確保するだけでなく、上座につく価値があるかもしれません。
posted by Kumicit at 2006/03/21 00:20 | Comment(0) | TrackBack(0) | ID Introduction | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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