2006/04/19

ダーウィニズムさえ利用した宗教 メモ

ダーウィニズムさえ利用した宗教 メモ J.H.ブロック「科学と宗教」[Amazon]

科学と宗教(キリスト教)の絡みつきは、そうそう単純なものではないようだ。

進化論対創造論という戦いを見ていると、いかにダーウィニズムとキリスト教を整合させるかという歴史がありそうな気がする。バチカンやメインラインバプテストが有神論的進化論の変種群による両立を見るにつけても。

ところがそうは単純ではなく、19世紀キリスト教神学はダーウィニズムさえも利用した:
ダーウィン的メカニズムにおける偶然の要素でさえ神学的に利用された。人類が多くの偶然事象から生まれたものとすれば、どんな無神論者も夢想だにしなかったほどの大当たりだったわけで、偶然が重なったのは決して偶然ではないとマコッシュはこじつけた。ダーウィンは設計説の概念を破壊したというより、偶然と設計との対比を浮き彫りにしたのである。マコッシュは「人間の進化には、明らかに熟慮された目的の達成に向かって自然界のあらゆる元素と力能を調整し続けることが要求された」と論じた。この考え方は、「明らかに熟慮された目的」を信じない人々にとっては無意味だったが、信じている人々にすれば、神の関与という感覚に一層真実味をもたらすものであった。(p341)


2005年11月9日の「World is 'intelligent project' that reflects divine origin, pope says(世界は神による起源を反映したインテリジェントプロジェクトであると教皇は言った)」といった記事を見るにつけても、似たような考え方は今もあるようだ。

進化プロセスを可能にする自然法則は調節的な存在者の作品であり、しかも、新しい種が出現するのは、紛れもなく創造的なプロセスにその存在者が不断に参画していることの証である。この論点を展開した護教論者は、外在する神が奇跡的な創造行為に適宜介入したという機械論的宇宙観には、神の超越性を強調して、内在性を無視している欠点があると所感を述べたものだ。進化論的な見方をすれば、よりバランスのとれた見方が可能になる。それがチャールズ・キングスリーの見解だった。(p339)


機械論がもともと、自然法則で説明できないところに神の奇跡を見出すという面を持っていた。その神による直接介入ではなく、神の内在不断の参画を主張するために進化論が使われたという。

浪費、苦痛、苦悩は創造プロセスにつきものであるからこそ、そこに新たな合理性を賦与しうるのだ。自然神学は、ダーウィニズムによってうるさい反論をかわすことができると論じたのはグレイだけではない。イングランドでは、適応を設計の証とするペイリーの個別創造説は複数の設計者を想定するに等しいというヒュームの反論を免れないことを、フレデリック・テンプルが認めていた。しかしながら、ダーウィンの進化論を潜在力が高等生物において顕在化されてゆく統一プロセスとして解釈するならば、一人の設計者にゆきつくはずだと、彼は示唆した。(p343)


William Paleyのデザイン論をダーウィンの進化論が補強するという、現在のインテリジェントデザイン論争から見れば、アクロバティックなことまで起きていたとは。



posted by Kumicit at 2006/04/19 00:06 | Comment(0) | TrackBack(0) | ID Introduction | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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