2003年2月:渡辺久義先生は"還元不可能な複雑さ"に出会った
NO.2 (2003年 2月)「インテリジェント・デザイン論」で渡辺久義先生は、1996年に「Behe: Darwin's Black Box」(Amazon)で
デビューした"還元不可能な複雑さ"と出会って受けた強い印象を述べおられる:
還元不能の複雑性"神の細工の最小単位"などと軽々しく神を口にしておられる。鞭毛が分解されてしまったら、神の細工は神もろとも叩き割られることになるというのに。
ベストセラーになったという『ダーウィンのブラック・ボックス』(Darwin's Black Box)の著者であり「デザイン論」を生化学の立場から補強する強力な論者であるマイケル・ベーエ(Michael Behe 正しくはビーヒーだが翻訳書に合わせておく)は、「デザイン」というものを単純に「部品の、目的をもった配列」であると定義し、そういうものとしての「還元不能の複雑性」があるのだと主張する。こういう論証が「人間原理」とともに「デザイン論」を支える柱の一つになっている。ベーエがこの本で言っていることを最後に引用しておきたい。
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ベーエの取り出してみせる、目的をもったそれ以上還元できぬ複雑性とは、彼はそういう言葉は使わないかもしれないが、神の細工の最小単位をそこに見るということなのである。ドーキンズは例によってこれを口汚く攻撃して、「それは怠け者の生物学者の言うことだ」と言っているそうである。どんな形であっても神を取り入れたときに科学者は科学者として失格だということであろう。私はこの問題を更に稿をあらためて考えてみたいと思う。
渡辺久義先生が1996年にデビューしたと信じている若き新鋭"還元不可能な複雑さ"が、実は1918年と1939年にデビューだったことは内緒だ。
Muller, Hermann J. 1918. Genetic variability, twin hybrids and constant hybrids, in a case of balanced lethal factors. Genetics 3: 422―499.
Muller, Hermann J. 1939. Reversibility in evolution considered from the standpoint of genetics. Biological Reviews of the Cambridge Philosophical Society. 14: 261―280.
そして、昔はCreationism(創造論)と仲良くしていたことも:
The problem is simply whether a complex system, in which many components function unitedly together, and in which each component is uniquely necessary to the efficient functioning of the whole, could ever arise by random processes. The question is especially incisive when we deal with living system. Although inorganic relationships are often quite complex, living organisms are immensely more so. The evolution model nevertherless assumes all of these have arisen by chance and naturalism.
問題は、多くの部品がいっしょになって機能し、全体が効率的に機能するには個々の部品が代替不可能な必須である複雑なシステムが、ランダムな過程によって形成されるかどうかだ。この問題は我々が生物システムを取り扱うときに痛烈な問いとなる。非有機的な関係でもしばしば複雑になるのだから、生物でははるかに複雑になる。進化モデルはこれらすべてが、偶然と自然主義によって起こったと仮定する。
"Scientific Creationism, 1974-1985"(Amazon)
1996年の新人だからこそ魅力もあるのに、渡辺久義先生より年上で、Creationismと仲が良かったなんて知ったら幻滅するだろうからね。
2003年5月:暴かれた真実を知らぬままに惚れ込む渡辺久義先生
NO.5(2003年5月号)「インテリジェント・デザイン」の科学的実証で、惚れ込みを告白された:
有無を言わさぬ実証絶対に分解されるはずがないと思い切り惚れ込んだ渡辺久義先生である。おそらく、もっとも幸福なときだっただろう。半年後にMatkzeの一撃が迫っているのだから。
生化学を専門とするマイケル・ベーエが、その著『ダーウィンのブラックボックス』でやってみせたのは、まさにそのような有無を言わさぬインテリジェント・デザインの実証であったと言えるだろう。生命体の構成単位である細胞自体が恐ろしく複雑に考案された装置であることが次第に明らかになっている。しかしこれがすべて目的も意図もない物理力(の組み合わせ)によって自然に「出来チャッタ」のだと、他を圧倒する大声で言いふらされているのだとすれば、それに反論するためには、これ以上に還元できぬというデザインの最小単位を取り出してみせなければならない。ベーエはそれに成功してこれを「還元不能の複雑性」と呼んだ。例えば、生化学のレベルから見た原生動物などの繊毛の仕組みがその一例であると言う。血液凝固の仕組みについても同じことが言えるらしい。
そして、さらにネズミ捕りにも:
還元不能の複雑性
その仕組みをわかりやすくするためにベーエが好んで用いるのは、家庭で使われる板にバネのついた簡単なネズミ捕り器である。これは図で示す必要もないであろう。ネズミ捕り器は次の五つの部品からなる。(1)土台となる木製の板、(2)ネズミをはさむ(コの字型の)金属のハンマー、(3)仕掛けたときにハンマーを押さえるバネ、(4)わずかに触れるとバネのはずれる引き金、(5)引き金とハンマーをつなぐ金属棒。
この五つの部品のうちどの一つが欠けても罠として機能しない。すなわちこれ以上に還元(簡素化)することのできない複雑な構造物、「還元不能の複雑性」の一例である。自然界にはこのような構造物が満ち溢れているが、これはそれ以前の、より原始的な構造物を改良しながら徐々に出来上がったものではない。このネズミ捕り器の、より原始的な形は存在し得ないからである。すなわち、ハンマーだけでも少しはネズミが捕れ、これにバネをつければもう少しネズミが捕れる、といったものではないのである。
これより4ヶ月前、2002年10月に、ネズミ捕りが還元可能であることがJohn H. McDonald によって暴かれていたのだ(A reducibly complex mouse trap)。Beheのネズミ捕りを少しずつ変形させ、部品を取り去っていき、最後は何もないよりなましという針金1本でできたネズミ捕りのようなものに至るという"還元"過程を提示していたのである。ネズミ捕りのアナロジーなど何の意味もない。
それを知らない渡辺久義先生はとくとくとネズミ捕りを語られた。知らないというのは幸福であるという例証だ。
2003年6月:人間の尊厳を鞭毛に委ねるほどの惚れ込みを見せる渡辺久義先生
ついにはNO.6(2003年6月)文化大革命としてのデザイン理論とタイトルも大仰なものになって:
ベーエは「還元不能の複雑性」としての、デザインの最小単位を取り出して見せた。同様の仕事は今後、「デザイン理論」が科学者社会で認知されるにつれて ――それには時間がかかるかもしれないが――生化学者の重要な、無限に豊かな仕事になっていくであろう。そういう科学者の仕事に含まれた意味を、我々は引き出すことができる。それは、もし微視的な細胞やタンパク質のレベルに、そこに働く意志、計画、設計といったものを検証することができるのだとすれば、同じことが巨視的な人間のレベルにおいても言えるだろうということである。鞭毛に、神に与えられた人間の方向性とまで仰せの渡辺久義先生。鞭毛ごときに人間の尊厳を委ねるまでに、"還元不可能な複雑さ"に惚れ込まれている。
つまり私の細胞がデザインされたものである以上、私という人間もデザインされたものでなければならない。細胞に何かを作り出そうとする「神」の手(目的、意志)が働いているのだとすれば、当然、私という人間においても、私を何かに向かわせようとする、あるいは何かを実現させようとする神のデザインが組み込まれていると想定しなければならない。このことをさらに、宇宙のファイン・チューニングという、明確な宇宙そのもののデザインの事実と考え合わせるならば、人間とは神に方向性を与えられて生きている存在であるという認識に、疑う余地なく行き着くのである。
鞭毛がデザイン ==> 細胞もデザイン ==> 人間もデザイン ==> 神に与えられた方向性
2005年1月:鞭毛とネズミ捕りを庇って咆哮をあげる渡辺久義先生
"還元不可能な複雑さ"が両手に持つ鞭毛とネズミ捕り。2002年10月にJohn H. McDonaldによってネズミ捕りが、そして2003年11月N.J. Matkzeによって鞭毛がばらばらに分解されてしまった。
鞭毛とネズミ捕りがばらばらに分解されたとも知らずに、渡辺久義先生は特権的惑星に浮気中。"還元不可能な複雑さ"は分解された鞭毛とネズミ捕りを前に茫然自失で立ち尽くす。
そして1年の時が流れた。渡辺久義先生は分解された鞭毛にだけ、やっと気付かれた。そして、NO.25(2005年1月)インテリジェント・デザインに対する反論で、サブタイトルも「反論によって露呈する自己矛盾」と強く出られた。愛した"還元不可能な複雑さ"をとにかく守ったという安心感を求めてのことだろうか。
かなりあわてて、反論したためにこうなってしまった:
「還元不能」説が崩れた?鞭毛が分解されたという話だけでうろたえてしまって、
べーエのこの研究が少なからぬ話題を呼んで、科学者による検証の作業が行われた。すると、べーエの主張することがウソだということが判明したのだとミラーは言う。ウソといっても全面的なウソではなく、「還元不能」という主張が崩れたのだという。なぜかというと、鞭毛の装置に必要な三十数個の分子のうちの、幾つかの分子が集まった段階で、ある全く別の機能を果す装置が出来ることが可能だということが突き止められたからだという。それは鞭毛のモーター装置とは縁もゆかりもない、悪玉バクテリアのもつ毒物発射装置で、ミラーによれば「疑ってもいない宿主の細胞膜を通してこれらの毒物を注射することを可能にするいやらしい小さな装置」であるという。ミラーはこれを次のように説明している――
<ここにKenneth Millarの引用>
これがおかしな議論であることは、少し考えてみればわかるであろう。まずべーエが主張しているのは、部品の全部が揃わなければ鞭毛として機能しないということである。部品のサブセットで全く別の機能をもつものができるかどうかは、関係のないことである。これを挟み式ネズミ捕りに例えて言えば、木製の板はそれだけで、例えばまな板として使えるだろう。板にバネをつければ、跳び箱の踏み切り台として使えるだろう。さらにバネの先に何か面白いものでもつければ、子供のおもちゃになるだろう。しかしこれらはすべてネズミ捕り機能とは関係がなく、ネズミ捕り器はこれ以上一つたりとも部品を省くことのできない装置の例であることに変わりはない。
べーエもそういった反論をしたらしく、もしサブセットで別の立派な目的と機能をもつものができるのなら、それはデザインされたものが二つに増えたことになって、デザイン論を補強することになるだけではないか、というような反論をしたらしい。しかしミラー(と彼の支持者たち)は引き下がらず、「還元不能」と言っていたその主張が崩れた以上、デザイン理論も成立しなくなった、と言っているのである。
Primitive type III export system
==>Primitive type III secretion system
==>Surface adhesin
==>Type III pilus
==>Protoflagellum
==>Flagellum
というMatzkeの経路まで気が回らなかったようだ。というより読んでないと思われる。実のところは、Matzkeの提示したものは、"還元不可能な複雑さ"を知らなければ、普通に進化経路が書かれているだけに見える。"還元不可能な複雑さ"にとって最凶なシロモノである。放置するはずはないだろう。
そして、とりあえず、"God of the gaps"論の基本と正道に則って、隙間がひとつ埋まった(部品が2つになったら)ら、新たな隙間(個々の部品)に移動した.....つもりになって安心したようだ。これで鞭毛はもとどおりになったと。そして、既に分解されてしまったネズミ捕りを拠り所にする。
鞭毛もネズミ捕りも、完全に分解されている。なのに、渡辺久義先生はひとりで安心してしまったようだ。
2005年2月:"還元不可能な複雑さ"を忘れ始める渡辺久義先生
NO.26(2005年2月)続・インテリジェント・デザインへの反論では、たったひとこと:
この誤解はマイケル・ビーヒー.....の「還元不能の複雑性」の概念が鞭毛の仕組みの研究からきているために、あたかもそこだけ自然界に穴があいたように思われるところからくる「デザイン」の意味の誤解が原因ではないかと思われる。そして、"還元不可能な複雑さ"を語ることはなくなる。人間の尊厳さえも預けた鞭毛とネズミ捕りだったのに。
そして、次第に、渡辺久義先生の論点は、科学の再定義すなわち機械論への超自然の導入だけになってゆく。そして、反ネオダーウィニズムとみなさている構造主義生物学をとりあげるようになる。皮肉なのは、「Secretoy systemのCo-optionによる鞭毛への進化」が、「部品間の関係の変化」という構造主義生物学的な世界観にとって違和感がないこと。