2010/10/05

創造論・地球中心・地球平板

"若い地球の創造論"ミニストリ"Answers in Genesisを主宰するKen Hamは、進化論と創造論の戦いを、神の言葉の権威をめぐるものだと描写する。
The battle is not one of young earth vs. old earth, or billions of years vs. six days, or creation vs. evolution−the real battle is the authority of the Word of God vs. man’s fallible opinions.

Why do Christians believe in the bodily Resurrection of Jesus Christ? Because of the words of Scripture (“according to the Scriptures”).

And why should Christians believe in the six literal days of creation? Because of the words of Scripture (“In six days the Lord made ...”).

The real issue is one of authority−is God’s Word the authority, or is man’s word the authority? So, couldn’t God have used evolution to create? The answer is No. A belief in millions of years of evolution not only contradicts the clear teaching of Genesis and the rest of Scripture but also impugns the character of God. He told us in the book of Genesis that He created the whole universe and everything in it in six days by His word: “Then God said ... .” His Word is the evidence of how and when God created, and His Word is incredibly clear.

戦いは、若い地球と古い地球、数十億年と6日間、創造と進化についてではない。真の戦いは、神の言葉と人間の誤りうる意見の戦いである。

何故、キリスト教徒はイエスキリストの肉体の復活を信じるのか?それは聖書にそう書かれているからだ。

何故、キリスト教徒が文字通りの6日間の創造を信じるべきなのか?それは聖書にそう書かれているからだ。

真の問題は権威の問題だ。神の言葉に権威があるのか、人間の言葉に権威があるのかだ。であるなら、神は創造のために進化と言う手段を使えなかったのか?答えはノーだ。数百万年の進化を信じることは、創世記やその他の聖書の記述の教えに反するのみならず、神に異を唱えることのなのだ。神は我々に創世記で、神が宇宙全体とすべてを6日間で創造したと語っている。「神は言われた...」神の言葉は、神が、いつ、どのように創造したかの証拠である。神の言葉は明白である。

[Ken Ham: "Couldn’t God Have Used Evolution?"]
6日間の創造を信じないで、イエスの復活を信じられるのか、という主張である。

しかし、この主張はあっさり、自らに降りかかってくる。地球中心説を主張する団体Association for Biblical Astronomyを主宰するGerardus Dingeman Bouwを取り上げた、Daniel Radosは次のように指摘する。
Mainstream creationists (if I may be allowed the term) argue that the seemingly geocentric passages are merely God using the “language of appearance,” or divinely-inspired men speaking from a human perspective. This is the liberal tendency that makes geocentrists apoplectic. “Phenomenological or anthropocentric,” sniffs Bouw:

メインストリームの創造論者は、地球中心と読める記述は、神が「見かけについて語った」あるいは「神のよってインスパイヤされた人間が、人間の見方から語った」のだと論じる。このようなリベラルな傾向は、地球中心説論者を怒り狂わせる。"Phenomenological or anthropocentric"でBouwは次のように、あしらう。
either God inerrently inspired the wording or He did not; either the Bible is trustworthy or it is not. There is no middle ground. There is no room for compromise. After all, both the anthropocentric theory of inspiration and the phenomenological-language theory are forms of accommodation where God is said to accommodate his wording to the understanding of the common man. Good though that may sound on the surface, accommodation still maintains that God goes along with the accepted story even though he really does not believe it.

神が無謬にインスパイヤした言葉と、そうでないこと。聖書が信頼できるか、そうでないか。そこには中間はない。妥協の余地はない。結局のところは、インスピレーションの人間中心理論と、現象論的言葉理論は、普通の人間に理解できるように神は言葉を選んだという、「相手に合わせる」というものである。それは表面的には良いことのように聞こえるが、それは神が実際には信じてもいない物語を語っていると主張していることになる。
It does not help when, for instance, the Answers in Genesis web site caps its dismissal of geocentrism with the observation that “the question of the earth’s physical position is less important than the spiritual reality of God's love for his people” − precisely what Christians who accept evolution say about the physical creation of man. “It’s inconsistent,” Bouw told me. “you can’t say that one part of it is more credible than another part just simply because you feel uncomfortable with what it says there.”

たとえばAnswers in Genesisは、地球中心説を観測とともに否定する記事を載せて、「地球の物理的位置の問題は、神が人間を愛するというすぴるちゅあるな事実よるは重要ではない」と語る。これはまさしく、進化論を受け入れるキリスト教徒たちが、物理的創造論者について語る言葉なのだ。Bouwは私にこう言った「それは矛盾している。書かれていることが不快だという理由で、聖書のある部分が、他の部分より信用できるとは言えない」
[DANIEL RADOSH: "Man in the Middle: An Exclusive Cut Excerpt from Rapture Ready!" (2010/10/02) on The Nervous BreakDown]この地球中心説論者Bouwの主張は論理的には正しい。

しかし、その主張は地球平板説を持ち出すことで、地球中心説にも降りかかってくる。

紀元400年頃にはこんな記述もある。
また天体の形相と形姿とがいかなるものであると、われわれの聖書に従って信ずればよいか、しばしば問題とされる。というのも多くの人々が頻繁にこうした事柄に関して議論しているが、われわれの著者たちは、至福なる生に益なきものとして、学ぶ者たちにこうした問題を扱うことを大いなる賢慮をもって省いてきた。益がないばかりでなく、さらに悪いことに、こうした問題にかかずらうと、救いに関わる問題にふりむけるべき貴重な時間の多くをとられてしまうのである。世界の中心で平衡を保っている地球を、大空がいわば球のように全方向から包んでいるのか、あるいはいわば皿のごとき地球を上方一方からだけおおっているのかといった問題が、わたしに何の関わりがあろうか。しかしここでは聖書の信仰が問題となっており、一度ならず言及したことであるが、ある人が聖書の語り方を理解せず、こうした事柄に関して、それ自体明証的に認識される理拠に反するように見えることを聖書のうちに見出したり、あるいは読まれるのを聞いたりする場合に、その他のことで有益なことを聖書が勧め、物語り、宣べ伝えても、その人がもはや聖書を信じなくなるというようなことにならないように、手短に次のことは言っておくべきだろう、つまりわれわれの著者たちは、天体の形状について真理であることを知っていたが、これらの人々を通して語りたもう神の霊は、救いに何ら益ないことを人々に語ろうとは望まれなかったのだと。
[第2巻第9章20 p.53

[アウグスティヌス (著), 片柳 栄一 (翻訳):アウグスティヌス著作集 第16巻 創世記注解, 教文館,1994 ]


タグ:創造論
posted by Kumicit at 2010/10/05 07:11 | Comment(0) | TrackBack(0) | Creationism | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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