方法論的自然主義という言葉はちょっと違った意味合いを持っている。Stanford哲学辞典の自然主義(Naturalism)の項目は、宗教対科学ではなく、哲学対科学のコンテキスト上で登場している。
[Naturalism: 2. Methodological Naturalism (2007/02/22) by Metaphysics Research Lab, CSLI, Stanford University]反進化論もやっている哲学者Plantinga先生が登場しているが、創造論 対 進化論のコンテキストとは違ったネタのようである。
2.1 Philosophy and Science
In what follows, ‘methodological naturalism’ will be understood as a view about philosophical practice. Methodological naturalists see philosophy and science as engaged in essentially the same enterprise, pursuing similar ends and using similar methods. Methodological anti-naturalists see philosophy as disjoint from science, with distinct ends and methods.
"方法論的自然主義"は哲学的実践に関する見方として理解されるだろう。方法論的自然主義者は哲学と科学を、同様の目的を追及し、同様の方法を用いる、本質的には同じ活動と見ている。方法論的反自然主義者は、哲学と科学を異なる目的と方法論を持つものとして、切り離して見る。
In some philosophy of religion circles, ‘methodological naturalism’ is understood differently, as a thesis about natural scientific method itself, not about philosophical method. In this sense, ‘methodological naturalism’ asserts that religious commitments have no relevance within science: natural science itself requires no specific attitude to religion, and can be practised just as well by adherents of religious faiths as by atheists or agnostics (cf. Draper 2005). This thesis is of interest to philosophers of religion because many of them want to deny that methodological naturalism in this sense entails ‘philosophical naturalism’, understood as atheism or agnosticism. You can practice natural science in just the same way as non-believers, so this line of thought goes, yet remain a believer when it comes to religious questions.
宗教界のある種の哲学では、"方法論的自然主義"を、哲学的方法ではなく、自然科学の方法そのものについての命題として理解している。この意味で、"方法論的自然主義"は宗教的コミットメントと科学は何の関係もないと主張する。科学事態は宗教に対して特定の態度を取る必要がなく、宗教信奉者によっても、無神論者や不可知論者によっても実行可能である[cf Draper 2005]。この命題は宗教哲学者に関心を持たれている。というのうは彼らの多くが、この意味で、方法論的自然主義が、無神論あるいは不可知論として理解される"哲学的自然主義"を必要とすることを否定したがっているからだ。宗教を信じる者たちは、宗教を信じない者たちと同様に自然科学を実践できる。この考え方は、宗教を信じる者たちが、宗教的問いに直面しても、有効であり続ける。
Not all defenders of religious belief endorse this kind of ‘methodological naturalism’. Some think that religious doctrines do make a difference to scientific practice, yet are defensible for all that (Plantinga 1996). In any case, this kind of ‘methodological naturalism’ will not be discussed further here. Our focus will be on the relation between philosophy and science, not between religion and science.
宗教信仰の擁護者すべてが、この種の"方法論的自然主義"を推奨するわけではない。一部の者たちは、すべて擁護可能だとしても、宗教教義が科学の実践を違ったものにすると考えている[Plantinga 1996]。ここでは、この種の"方法論的自然主義"についてこれ以上論じない。我々の焦点は、哲学と科学の関係であって、宗教と科学ではない。
It is uncontentious that philosophers differ widely in their initial attitudes to natural science. Some philosophers celebrate science, and seek out ways in which philosophy can be illuminated by it. Other philosophers view science with suspicion, and feel that any dependence on science somehow infringes the autonomy of philosophy. However, these initial reactions do not necessarily betoken any substantial disagreement about the practice of philosophy. After all, even those philosophers who are suspicious of science must allow that philosophical analyses can sometimes hinge on scientific findings−we need only think of the role that the causal closure of physics was shown above to play in the contemporary mind-body debate. And, on the other side, even the philosophical friends of science must admit that there are some differences at least between philosophy and natural science−for one thing, philosophers characteristically do not gather empirical data in the way that scientists do.
哲学者の自然科学に対する最初の態度は広く異なっていることは明白だ。一部の哲学者は科学を称揚し、科学によって哲学に光明を投じる方法を探求している。他の哲学者は科学を疑いの目で見て、科学に依存しているものは何であれ、哲学の自律性を侵害するものだと感じている。しかし、これらの最初の反応は、必ずしも哲学の実績について本質的な不一致が起きるわけではない。結局、科学に懐疑的がな哲学者であっても、哲学的分析は時として科学的発見次第である。物理的因果が前に示したように現代の精神・肉体論争において演じる役割を考えればよい。そして、他方で、科学の哲学的友人も少なくとも哲学と自然科学の間に何らかの違いがあること、たとえば、哲学者は科学者がやるような方法で経験的データを集められないことを認めなければならない。
If we want to isolate a serious debate about philosophical method, we will need to go beyond initial reactions to science and look at more specific methodological commitments. For the sake of the argument, let us thus understand methodological naturalism as asserting that at bottom philosophy and science have just the same aims and methods, namely, to establish synthetic knowledge about the natural world, in particular knowledge of laws and causal mechanisms, and to achieve this by comparing synthetic theories with the empirical data. (So understood, methodological naturalism is committed to equating ‘science’ with ‘natural science’. This equation will be considered further in section 2.5.)
もし哲学的方法についての真剣な議論を区別して扱いたいなら、科学に対する最初の反応を超えて、より特定の方法論的コミットメントを見ていく必要がある。議論のために、方法論的自然主義を、少なくとも哲学と科学が同じ目的と方法を用いている、すなわち、自然界についての総合知識、特に法則と因果メカニズムを確立するという目的を持ち、経験的データを総合理論と比較することで実現するという方法論を用いていると主張するものだとしよう。したがって、方法論的自然主義は科学を自然科学と同一視している。この同一視についてはさらに2.5で検討する。
Methodological naturalists will of course allow that there are some differences between philosophy and science. But they will say that these are relatively superficial. In particular, they will argue that they are not differences in aims or methods, but simply a matter of philosophy and science focusing on different questions. For one thing, philosophical questions are often distinguished by their great generality. Where scientists think about viruses, electrons or stars, philosophers think about spatiotemporal continuants, universals and identity. Categories like these structure all our thinking about the natural world. A corollary is that alternative theories at this level are unlikely ever to be decided between by some simple experiment, which is no doubt one reason that philosophers do not normally seek out new empirical data. Even so, the naturalist will insist, such theories are still synthetic theories about the natural world, answerable in the last instance to the tribunal of empirical data.
方法論的自然主義者はもちろん、哲学と科学に何らかの差異があることを認める。しかし、彼らはその違いが見かけ上のものだと言うだろう。特に、彼らは目的と方法に違いがないが、哲学と科学が異なる問いを対象としているにすぎないのだと言うだろう。たとえば、哲学の問いは、きわめて一般性を持っているという違いがある。科学者たちがウィルや電子や恒星について考えるが、哲学者は時空連続体や普遍的実在や同一性について考える。このようなカテゴリが、自然界についての我々の思考すべてを構造化する。これの補題は、哲学者は普通は新たな経験的データを探し求めないという疑う余地のない理由により、このレベルの代替理論は簡単な実験によって判断されることはありそうにない。だとしても、自然主義者は、そのような理論は、それでもなお自然界についての総合理論であって、経験的データに照らし合わせれば回答可能だと強調するだろう。
Not all philosophical questions are of great generality. Think of topics like weakness of will, the importance of originality in art, or the semantics of fiction. What seems to identify these as philosophical issues is that our thinking is in some kind of theoretical tangle, supporting different lines of thought that lead to conflicting conclusions. Progress requires an unravelling of premises, including perhaps an unearthing of implicit assumptions that we didn't realise we had, and a search for alternative positions that don't generate further contradictions. Here too empirical data are clearly not going to be crucial in deciding theoretical questions−often we have all the data we could want, but can't find a good way of accommodating them. Still, methodological naturalists will urge, this doesn't mean that cogent empirical theories are not the aim of philosophy. An empirical theory unravelled from a tangle is still an empirical theory, even if no new data went into its construction.
哲学的問いのすべてがきわめて一般性を持つわけではない。意志の弱さや、芸術における独創性の重要性や、フィクションのセマンティクスなどの問題を考えれば明らかだ。これらを哲学的問題として同定できることは、我々の思考が、競合する結論に導く、異なるラインの思考を支持する、ある種の理論的葛藤の中にあるということである。発展には、我々が実現していない暗黙の仮定の明確化と、さらなる対立を生み出すことない代替的ポジションの探索を含む、前提の解決が必要である。我々は求めるべきデータをすべて持っているが、それらに説明を付ける方法が見つからない、理論的問題の判断において、ここでも経験的データは明らかに不可欠のものであはない。それでも、方法論的自然主義者たちは、説得力のある経験的理論が哲学の目的ではないということを意味しないのだと、主張するだろう。絡み合いを解かれたできた経験的理論は、たとえその構築に新たなデータが用いられていなくても、経験的理論である。
The rest of this entry will evaluate methodological naturalism as now understood by seeing whether there are aspects of philosophical practice that it cannot account for.
このエントリの起こりの部分は、方法論的自然主義が、哲学的実践で説明できない面の有無を見ることによって理解されるものとして、評価する。
Draper, P., 2005, ‘God, Science, and Naturalism’, in W. Wainwright (ed.), The Oxford Handbook of Philosophy of Religion, Oxford: Oxford University Press
Plantinga, A., 1996, ‘Methodological Naturalism?’, in J. van der Meer (ed.), Facets of Faith and Science, Lanham, MD: University Press of America.
なので、今後も、ここでは、この哲学 対 科学のコンテキスト上の"方法論的自然主義"は取り扱わない。
ちなみに、ここで扱う"方法論的自然主義"は、Stanford哲学辞典では、Religion ans ScienceやCreationismで言及されている。
信とは選択であり選択せずには生きられない
分野が対象であり、「頼る」かは枝葉末節だ。
選択の余地がない物事を追い求めるのが自然
科学で、理知の不完全性を成長性として肯定。
ゲーデルらの証明したとおり最終地点はない。
特定の時点での問題は全て上位互換の体系で
解決される、解決の後に新しい問題が生じる
「から」成長上限はない、と証明されている。
(だから科学者はとうに「安心」している)
※上位互換=今までの解決能力は保ったまま
更に新しい解決能力を「必ず」獲得できる。
信は絶対の存在「しない」側でだけ存在する。
選択の余地により、その選択に依って変わる
環境との相互依存関係によって、信仰はある。
哲学は人という内的環境、選択の余地がなく
選択の余地を強制する「現状」を問いただす。
信仰文献解釈学と違うのは人を解釈するから。
選択自体は、その理由である価値そのものは
問わず、価値の「人という局所的事情」での
実現を問う、人以外での状況は、さておいて。
頼る弱さは信仰において実は問題にならない。
正解があるからで、哲学にそういうのはない。
前提は「貴方の正解と私の正解は違うかも」。
選択に取捨や競合があるのはなぜか、を問う。
心理学と違って、心の問題は「解決」しない。
どうなっているからどうなるかなら、考える。
現実の患者に迷惑だから離れた場所で考える。
患者以外の心も考える、むしろそちらを問う。
起きた問題も起きてない問題も、解決しない。
小さな子供のように。 ただ、「なぜ?」と。
なぜ、「なぜ?」って聞くの?
なぜ、「なぜ、「なぜ?」って聞くの?」
馬鹿馬鹿しいから楽しい、役立つかは問わず。
作者は役立つかキニシナイのは数学に似てる。
だから変な結果が出るかも。 数学みたいに。
でも変な結果を出す為に数学や哲学はしない。
だそく:
各場面での選択肢の「広さ」は情報理論上の
制約、特に自然対数の底の累乗の枠組に支配
される気もするし、少なくとも多くの宗教で
それと思われる制約が現れるが、その辺りが
どうなっているのだろうというのは気になる。
情報構造の内部自由度次元の、対自冗長性に
よる縮退(いわゆるフラクタル次元)などの
「不自由と安定性」、処理軽量性と頑健性を
最優先して自己検証等の機能を欠く定時処理、
定時処理に組み込まれる条件としての二値性、
また自然対数の底の累乗に関わる伝達効率の
急低下をも回避するマジックナンバーおよび
その実現等は、どのジャンルか未だに不明だ。
主に信仰と哲学に関わるのだろうとは思うが、
この「強制力」は自然科学でお馴染なのだが。