2006/04/26

The Wedge Documentの出だしに絡んで..

"The Wedge Document"(見解つきの本文)はインテリジェントデザインの本山たるDiscovery Instituteの1998年の内部文書である。今回はそのイントロ部分について見直してみたい。

The proposition that human beings are created in the image of God is one of the bedrock principles on which Western civilization was built.
...
Yet a little over a century ago, this cardinal idea came under wholesale attack by intellectuals drawing on the discoveries of modern science. Debunking the traditional conceptions of both God and man, thinkers such as Charles Darwin, Karl Marx, and Sigmund Freud portrayed humans not as moral and spiritual beings, but as animals or machines who inhabited a universe ruled by purely impersonal forces and whose behavior and very thoughts were dictated by the unbending forces of biology, chemistry, and environment.

人間が神の形に似せて創られたという命題は、西洋文明が構築された基盤原則のひとつである。
...
一世紀少し前に、この基本的な考え方は、現代科学の発見に近づく知識人による大規模の攻撃を受けた。伝統的な神と人間の概念の両方をデバンクし、チャールス・ダーウィンやカール・マルクスおよびジーグムント・フロイトのような思想家は、人間をモラルと精神的な存在ではなく、純粋に非人格な力によって規定された宇宙に居住する動物や機械であって、その挙動とまさに思考が確固たる生物学と化学と環境に支配されていると描写した。

これは「人間は動物や機械とは違う」という考え方に基づくもの。それはデカルトの動物機械論の立場に近いようである:
デカルトは動物を機械そのものとして解釈した。これは論議を招いたが、動物機械論は動物にとっては酷かもしれないが、人間にとっては好ましいものだと、デカルトは反論した。なぜなら、(正しいかどうかは今日でも議論の分かれるところだが)他の被造物全体に対する人間の優秀性(創世記によれば、自然を統治することは人間の特権であり責任である)が強調されたからである。
 人間は他の動物とは違う機械である、としてデカルトはその特権を請け合った。人間だけが不死の魂を授かっているからだ、と。デカルトが機械論哲学に利点をみたのは、物質界と精神界の違いを際立たせるからである。人間の心に存在する合理性こそ精神界の証拠があるが、それは人間にしかない世界とされた。デカルトは、唯一神の姿に似せて創造された人間の独自性を機械論哲学によって擁護しただけではなく、積極的に強調したのである。(J.H.ブルック「科学と宗教」p.143)

ところが、このデカルトの、厳格に人間と動物の間に線を引く考え方は、実は脆弱である。
この動物機械説は重大なことを招きかねないと批判したものもいる。「獣の中にある植物的で感じやすい魂を機械とみる人は、理知的な魂の作用も同様の原因によるものであるとし、我々の霊魂を有形の霊魂に置き換える無神論者に他ならなくなる。」(p.157)

だからこそ、Common Descentを認めるわけにはいかない。


Discovery Insituteの人々はダーウィンをフロイトやマルクスと並べることで悪魔化しようとしているが、そもそもJ.H.ブルックによれば、あらゆる者たちがダーウィニズムを自らの正当化に使った時代があった:

  • 自由放任の資本主義
    人類が自然そのものの選択力を介して出現したとすれば、かくも有益な結果を生み出したプロセスに干渉するどんな論拠が有りうるのか。社会に関する社会主義者の諸概念が根本的におかしいという結論に行き着くのは必定だった。(p.316)

  • 社会主義
    後にダーウィン主義的社会主義という考え方を表明した社会主義者ケア・ハーディが依拠したのは、思いやりのある成員を最も多く含む共同体こそ最も栄えるだろうというダーウィンの言明であった。(P.319)

  • Paleyの設計説
    浪費、苦痛、苦悩は創造プロセスにつきものであるからこそ、そこに新たな合理性を賦与しうるのだ。自然神学は、ダーウィニズムによってうるさい反論をかわすことができると論じたのはグレイだけではない。イングランドでは、適応を設計の証とするペイリーの個別創造説は複数の設計者を想定するに等しいというヒュームの反論を免れないことを、フレデリック・テンプルが認めていた。しかしながら、ダーウィンの進化論を潜在力が高等生物において顕在化されてゆく統一プロセスとして解釈するならば、一人の設計者にゆきつくはずだと、彼は示唆した。(p.343)

  • 神学的自由主義
    ダーウィニズムに影響された神学に彼[ライマン・アボット]がいくつかの利点を認めたのは明らかである。その一つは罪に関する伝統的な考え方を現代用語で述べ、不道徳な行為は獣性への逆行なりという古びた諺に新たな意味合いをもたらすことであった。(p.339)

  • マルクス
    ダーウィンが伝統的な目的論の概念を破棄し、命じる意思とは独立した、無意識的な諸力の相互作用の一つへ生命の歴史を変換したからである。それは、非人間的な社会経済的諸力が人間の歴史を形成したというマルクス自身の歴史観と共鳴した。(p..318)



Discovery InstituteのThe Wedge Documentは:
Materialists also undermined personal responsibility by asserting that human thoughts and behaviors are dictated by our biology and environment. The results can be seen in modern approaches to criminal justice, product liability, and welfare. In the materialist scheme of things, everyone is a victim and no one can be held accountable for his or her actions.

唯物論者はさらに、人間の思考と挙動は生物学と環境に支配されると主張することで、個人の責任感を蝕んだ。その結果は、刑事裁判や製造物責任や福祉の現代的アプローチに見て取れる。唯物論者のスキームにおいては、誰もが犠牲者であり、誰もが自らの行動に責任を持てない。
と語る。しかし、このようなアプローチはスペンサーのような立場をとる者にとっては、根本的におかしいことだった。

いかなる立場にあっても、ダーウィンを味方にも敵にも仕立て上げることが出来るというのが19世紀末あたりの状況だったようだ。そして、Discovery Instituteはダーウィンを敵にも仕立て上げた。



posted by Kumicit at 2006/04/26 00:01 | Comment(0) | TrackBack(0) | DiscoveryInstitute | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]


この記事へのトラックバック