2006/06/09

Dembskiの正解を無視して「悪の問題」に応える渡辺久義先生

統一協会の下部組織のひとつ勝共連合の雑誌『世界思想』連載の「人間原理の探求」の2004年12月号の記事「インテリジェント・デザインと悪の問題」で渡辺久義先生は
デザイン論に対する反対論者が、しばしばその論拠とするものに、自然に内在する悪あるいは不合理の問題がある。悪といっても、明らかに人間が不徳によって自ら招く、あるいは作り出す、戦争とか虐待とかエイズなどは別である。それではなくて、自然そのものに内在すると考えられる多くの悪あるいは不合理があり、そういうものが存在する以上、この世界が知的なものによってデザインされたものとはとうてい考えられない、もしデザインされたとしたら、デザイナーたる神はよほど無能か残酷な神であって、そんなものは神として認めることはできない、という議論であって、これはしばしば無神論へと人々を導いてきたものである。

と「悪の問題」に応えようとした。この導入部は間違いではない。

Dembskiを無視する渡辺久義先生

そして、これに対して、インテリジェントデザイン理論家Dr.William A. Dembskiは3つの応えを出している[Intelligent Design is not Optimal Design, 2000/02/02]。
第1の応えは、「デザイナーは知的(intelligent)であっても、賢いかどうかは別」である:
The confusion centered on what the adjective "intelligent" is doing in the phrase "intelligent design." "Intelligent," after all, can mean nothing more than being the result of an intelligent agent, even one who acts stupidly. On the other hand, it can mean that an intelligent agent acted with skill, mastery, and eclat. Shermer and Prothero understood the "intelligent" in "intelligent design" to mean the latter, and thus presumed that intelligent design must entail optimal design. The intelligent design community, on the other hand, means the former and thus separates intelligent design from questions of optimality.

「インテリジェントデザイン」という言葉について、形容詞「インテリジェント」がどういう意味を持っているかが混乱の元だった。結局、「インテリジェント」はインテリジェントエージェントがたとえ愚かに行動したとしても、その結果を意味する。一方、インテリジェントエージェントがスキルと専門的技能とはなばなしさを以って行動することも意味しうる。ShermerとProtheroは「インテリジェントデザイン」の「インテリジェント」を後者の意味でとらえ、インテリジェントデザインは最適デザインをしなければならないと考えていた。インテリジェントデザイン運動側では、他方、前者の意味でとらえ、インテリジェントデザインと最適さについての議論を切り離している。
そして、第2の応えは「生物はすべてがデザインというわけではない」である:
The design theorist is not committed to every biological structure being designed. Mutation and section do operate in natural history to adapt organisms to their environments. Perhaps the panda's thumb is such an adaptation.

デザイン理論家はあらゆる生物構造がデザインされたと言うわけではない。自然の歴史において突然変異と淘汰が働いて、器官を環境に適応させる。おそらくパンダの親指はそのような適応のなのだ。


渡辺久義先生はこの2つについて全く触れていない。どうも、このDembskiの回答をご存じないようだ。特に第1の応えは、インテリジェントデザイン理論の建前として、はずせないものなのだが。

そして、Dembskiの第3の応えは「制約条件のもとでの最適デザイン」である:
No real designer attempts optimality in the sense of attaining perfect design. Indeed, there is no such thing as perfect design. Real designers strive for constrained optimization, which is something completely different. As Henry Petroski, an engineer and historian at Duke, aptly remarks in Invention by Design: "All design involves conflicting objectives and hence compromise, and the best designs will always be those that come up with the best compromise."Constrained optimization is the art of compromise between conflicting objectives. This is what design is all about. To find fault with biological design because it misses an idealized optimum, as Stephen Jay Gould regularly does, is therefore gratuitous. Not knowing the objectives of the designer, Gould is in no position to say whether the designer has come up with a faulty compromise among those objectives.

現実のデザイナーは、完全なデザインを実現するという意味では、最適を狙わない。実際、完全なデザインなどない。現実のデザイナーは制約条件のもとでの最適を追求するものであり、それは最適とはまったく違うものだ。Dukeの技術者であり歴史家でもあるHery Petroskiが、デザインによる発明について適切に論評しているように「あらゆるデザインは矛盾する目的を含み、それ故に妥協を含む。最良のデザインは常に最良の妥協から生み出される」。制約条件のもとでの最適は互いに矛盾する目的の間の妥協の産物である。これがデザインのすべてだ。生物のデザインに欠点が見つかるのは、Stephen Jay Gouldが常に言うように、理想的な最適がないからだ。デザイナーの目的を知らなければ、Gouldはデザイナーがそれら目的の正しくない妥協をしたかどうか言う立場にない。
ただし、この「制約条件のもとでの最適デザイン」は進化論と何ら違わない。

これにだけは渡辺久義先生は対応していて:
総合的にみて最適

 作られたものの最善値というものが、すべての要件を百パーセント満たすことでなく、各要件の歩み寄りによるものであることは、考えてみれば当然である。個別に見て要件が十分に満たされていないからといって欠陥を言い立てるのは愚というものである。これはいわば子供が駄々をこねるのに当たる。
先般、八・九月号に紹介した『特権的宇宙』の著者が、我々の地球は居住可能性だけでなく観測可能性においても、宇宙で最適の場所だと言っていたことは記憶されているだろう。「最適」というのは著者が強調しているように、個別的でなく総合的に見て、ということなのである。著者はパソコンの例をあげて説明している。

....

すべての点で百パーセント満足できるコンピューターが存在しないように、すべての点で百パーセント申し分のない被造物も存在しない。どちらも物質世界を相手にして作る以上、避けられないのである。我々の体を取ってみても、生物界全体を取ってみても、地球そのものを取ってみても、同じことが言えるであろう。地震や台風やハリケーンは、それだけを見つめれば不合理な悪にみえるが、全体として見れば、それらは人間を生かすために活動している生きた地球に伴う、やむをえぬ生理現象とみるべきであろう。
どうも、渡辺久義先生は、インテリジェントデザイン理論家Dembskiではなく、"The Privileged Planet"のGuillermo Gonzalezを頼って執筆したので、第1と第2の応えが抜けてしまったようだ。というか、2004年8月号と9月号を"The Privileged Planet"を1冊読んだだけで執筆し、さらに12月号まで手抜きで済ませようとしたからだろうか。


神学を簡単に語ってしまう渡辺久義先生

そもそも「悪の問題」はキリスト教神学における難問であり、今もなお議論が続く。たとえば...

Alvin C. Plantinga (著), 星川 啓慈 (訳):神と自由と悪と―宗教の合理的受容可能性,勁草書房 ; 1995/11 (Amazon)
Stephen T. Davis (編著), 本多 峰子 (訳): 神は悪の問題に答えられるか―神義論をめぐる五つの答え, 教文舘 ; 2002/07 (Amazon)

そして、インテリジェントデザインは、この神学を建前上カバーしない。デザイナーの属性について関知しないことになっているからだ。

ところが、渡辺久義先生は、同じ記事の中で、境界線をまたぎ越えて、「悪の問題」という神学に手を出されている。
そして、簡単に紡ぎ出された渡辺久義神学は、不明確なものだ。
神は、創造はするが魔術師ではないのである。創造は神秘ではあるが魔術や奇術ではない。神も自分の定めた自然法則には従わねばならず、その意味で全能ではなく制約があると言うべきであろう。もし神が文字通り全能の魔術師なら、人間と地球を創るのに百三十七億年もかける必要はなく、ビッグバンと同時にそれらを創ることができたはずである。神もまず基本的な素粒子や水素から始め、次第に重い元素を作っていき、長時間をかけて人間と、人間の住める宇宙のこの特殊な環境を作らなければならなかった(としか解釈できない)。
神の介入か予見かの区別がない記述だ。元素ができる過程に神の介入したのか、そのように自然法則を創ったのか、どちらともとれる。

特に「神も自分の定めた自然法則には従わねばならず」は致命的だ。"神の介入"を否定するものであり、インテリジェントデザインが蛇蝎のごとく嫌う"有神論的進化論"に限りなく近い立場になる。「自然法則でも偶然でも説明できなくて、意味ありげなものはデザインだ」というのがインテリジェントデザインの基本であり、デザイナーの直接介入を前提とする。これとは相容れない。

そして目先の問題である「悪の問題」をC.S.Lewis (1898-1963)[wiki]の引用で済ませる:
英国のキリスト教作家C・S・ルイスがかつて言ったことがある――苦痛とは、神を忘れて生きている人間に対して、神が自分の方を向くようにと時折吹き鳴らす警告のラッパなのだ、と。いかにも、自分にはどうすることもできぬ苦痛や病気や不幸を通じて、人は神に目を開かれることが多いのである。

あいもかわらず出典を書かない渡辺久義先生である。おそらく、The Problem of Pain (1940)からの引用で:
God whispers to us in our pleasures, speaks in our conscience, but shouts in our pains: it is His megaphone to rouse a deaf world.

Try and exclude the possibility of suffering which the order of nature and the existence of free wills involve, and you find that you have excluded life itself.

http://en.wikiquote.org/wiki/C._S._Lewis

これは、もう神学だけであって、インテリジェントデザインとは無関係。


なお、Dembskiの正解は、もちろん

  • 立派なデザインはデザイナーによる
  • あほなデザインは進化による
である。

==>忘却からの帰還: アンインテリジェントデザイナー


posted by Kumicit at 2006/06/09 00:01 | Comment(0) | TrackBack(0) | Hisayoshi | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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