>「聖書を論拠に、宇宙や生命の起源は神様のせい」を、「聖書と神様」ぬきで主張せよという要求仕様のもとに作られたのが、インテリジェント・デザイン理論。失われた「聖書と神様」を補うには、「確率的に科学で説明できないからインテリジェント・デザイナーのせい」という「God of the Gap」論を展開するしかないというところだろうか。
と言われますが、科学とは何を論拠に絶対真理のように主張されるのでしょうか? 聖書を根拠におく人生感と同じように、科学と言う一方の「聖書」を真理としての人生感が、科学的と言う表現になるのかな?と素朴な疑問が生まれます。 進化論も仮説の1つと思いますが、違いますか? これが絶対に正しいなんて、存在しますか?
前後のつながりが全くない変な主張だ。そもそも、あのエントリ:
==>忘却からの帰還:インテリジェント・デザインは"God of the Gaps"ではないと言い訳するが
は、Dembskiが"説明フィルタ"という"God of the gaps"を高らかに掲げてしまったあとで、それを糊塗しようとして、言い訳を重ねるインテリジェントデザイン支持者たちを取り上げたもの。
隙間の神様の代わりなど幾らでもいるから、"God of the gaps"論など何も主張したことにならない。その隙間が"真の隙間"であることは、機械論の内側かは証明も反証もできないが、たとえ証明できたところで、ちっとも話は前へ進まない。隙間の神様には誰でもなれるからだ。たとえば、異星人のRoadside Picnicの残骸なのかもしれない。
Boris and Arkady Strugatsky: "Roadside Picnic", 1972[wiki, Amazon]
ちなみに、この"Roadside Picnic"は異星人の残した残骸を求めてZONEへと侵入する密猟者たちのお話。ファーストコンタクトものの中で、かくも異星人との距離感の大きいものはそうそうない。1972年の作品だが、既に古典として扱われている。
話をもとへもどすと、そんな"God of the gaps"論は、これまでも隙間の神様たちを結果として生き埋めにしてきた。有名どころでは、Sir Isaac Newtonもそうだ。Sir Isaac Newtonは機械論の隙間に神を求めた[J.H. ブルック, 2006, pp.161-165]。たとえば、Newtonは機械論の隙間だった"惑星軌道の安定性に、神の姿を見出した。しかし、その隙間は"ラグランジュたちによって埋められた。一方で、ライプニッツからは神の介入が必要な宇宙しか創造できない神は、できの悪い職人だと批判された。
Dembskiは自らの情報理論のNewtonと称する{Dembski 1999]。隙間の神様を求める自らをなぞらえたものだ。そして、デザイナーは出来が悪いと批判されて、「できの悪いデザインは進化によるもの」と口走る。それは、ライプニッツから批判されたNewtonの姿に重なる。
テンプレなコメントにテンプレな答え
それに対するコメントとして、まったく"God of the gaps"に対応していない反進化論テンプレをぺちょっと貼り付けだけ。"何か"言っておきたかったのだが、ネタもないので、"何か"を貼り付けたのだろうか。つまり、時候の挨拶みたいなもの。
で、そんな、目新しさもなく、陳腐なコメントに対応する答えもまた、普通に行けば、使い古されたものになる。科学とは
- 仮説・仮説に基づく検証可能な予測・実験/観測による検証・仮説の修正というサイクルをめぐるもの
- Truth without Certainty [Eugenie Scott 2004]あるいはTentative Truth
- 方法論的自然主義を原則とする機械論
- 自然法則を超越する神様は証明も反証も不可能なので、その存否を含めて取り扱い対象外
- メカニズムの解明によって決して手が届くことのない目的・意義・価値・善悪判断などは取り扱い対象外
なのだと。そして、進化生物学関連の研究はわんさかあって、仮説・予測・検証・修正をめぐり続けているのだと。
しかし、それではあまりに面白みがない。それに、まっとうな進化論サイトにいけば、詳細・丁寧な説明がいくらでもあるだろう。だから、ここでは、少し違ったことを書いてみよう(と思うのだが、やっぱりテンプレになってしまう)。
科学とは論文の集合体である
あえて言うなら、科学の成果は、査読つき論文(peer-reviewed paper)の集合体として存在している。掃いて捨てるほどある論文たちの中には、本当に掃いて捨てられた、今では間違いだとわかっているものも多くある。Kumicitが学位取得のために書いた論文たちも今となっては、みんなゴミ箱行きだろう。少なくとも1本は、明らかに間違っていて、なかったことにしたい。Kumicitの中の人を特定されたくないので、もちろんCiteさせてあげないけど。
そして、研究屋の仕事はつまるところ
- ネタを探し
- 答えを出す方法を考え
- 答えを出し
- 論文を書く
ネタとはもちろん、未解明なことや先人の間違い、すなわち科学の隙間である。ネタが底を尽いた分野があるとしたら、そこには研究屋はいない。そんなところにいても論文を書けないからだ。
また、ネタはあっても答えを出す方法がないときは、やはり研究屋はあまりよりつかない。1980年代初頭には、「進化論は成果の出ない分野だから、若い研究屋の扱うべき対象ではない」と言う老人たちもいたくらいだ。
そして、答えが出れば、あとは論文。ときには、その論文は過去の論文を撃墜し、ゴミ箱行きにする。ときには発表直後に、撃墜されるかもしれない。撃墜されていない論文たちの集合体が、科学の成果のスナップショットということになる。
この"論文の集合体としての科学"では、主要な学術誌に目を通していても、とても現状を追いきれるものではない。文献検索なくして、現在の研究の状況も知りえない。googleやyahooが生まれる前から、研究屋たちはINSPECA/B/Cを使って文献検索をしてきた。そして、論文1本書くために、100本くらいは斜め読んだりする。そして、そのうちの幾つかを論拠にする。うまくいけば、幾つかを撃墜対象にする。
そんな"論文の集合体"と"疑問?氏"が貼り付けたテンプレが指す"科学"はたぶん別物だ。少なくともKumicitの見たことがない"科学"だ。
もしかすると、ものすごく遠いところから、"論文の集合体"を眺めると、論文単位の分解能は失われ、さらに論文の集合体を適宜整理した専門書単位の分解能すら失われ、もわっとした塊のように見えるのかもしれない。
どれくらい遠くなのかは想像もつかないが、声も届かないくらいに遠いのだろう。
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