2006/07/25

創造論を語るに使ってはいけない小室直樹の数学原論

小室直樹は「 数学嫌いな人のための数学―数学原論」[Amazon, 2001]の第2章「数学は何のために学ぶのか―論理とは神への論争の技術なり」で"ファンダメンタリストの科学批判"を扱っている。ファンダメンタリストといえば創造論ということで、創造論についてもあてはまると思ってはいけない。事実、小室直樹は一切、創造論について一切、語っていない。そして、小室直樹が取り上げたファンダメンタリストと創造論は大きく違っており、小室直樹の主張を創造論にあてはめることは無理である。

創造論がどれくらい小室直樹の取り上げたファンダメンタリストと違っているかというと....

準備

ここ4日間のエントリが、本エントリの準備:

  • 創造科学の論理 [2006/07/21]

    • "若い地球の創造論"/創造科学は、創造6日の後は自然法則は完全に働き、エネルギーは保存することを前提とする。
    • "若い地球の創造論"/創造科学は、創世記の記述を神による観測事実の記録とみなす。そして、その"観測事実"を科学的に説明しようとする。既存の自然法則で説明できないなら、経験的観測事実をより集めて、自然法則をねじまげる(聖書はその論拠に使わない)。すなわち、聖書の記述からの演繹ではまったくない。

  • 歴史の浅い創造論 [2006/07/22]

    • 創造論はキリスト教神学とは無関係で、19世紀に始まったもの

  • ファンダメンタリストといっても色々 [2006/07/23]

    • クリスチャンサイエンスは聖書を論拠に奇跡を主張するが、"若い地球の創造論"/創造科学は聖書を観測事実として使うが、論拠にしない。
    • クリスチャンサイエンスは奇跡を主張するが、"若い地球の創造論"/創造科学は創造6日の後は自然法則が完全に働くことを前提とする
    • クリスチャンサイエンスは進化論を認めるが、"若い地球の創造論"/創造科学は反進化論である。

  • 一時的真理と帰納とをつらつらと [2006/07/24]

    • 科学は観測事実に基づく一時的真理である
    • 経験主義に基づく科学(帰納法)もまたアリストテレスによるもの
    • 数学的帰納法は演繹法



小室直樹の言うファンダメンタリストに創造論者は該当しない

小室直樹はファンダメンタリストの主張のパターンを次のように説明する:
 聖書に書いてあることを、そのままストレートに信じるファンダメンタリストは、奇跡(the miracles)も、それらは実際に起きたのだと信ずる(者が多い)。世の常識人や科学者が批判しても、一向に気にも留めない。平然としている。その理由を一言でまとめると、自然科学の法則といえども、不完全帰納法の証明によるものにすぎないではないか、ということにある。
 例えば、イエスが水上を歩きたもうた(徒歩で水の上に浮かびたもうた)という話、重力の法則を無視した話であるとされる。が、ファンダメンタリストは驚かない。重力の法則だって絶対であるとまでは言えない。ことによると、物理学者が実験していないところでは、作動していないかもしれないではないか。自然科学の実験、観測はすべて不完全帰納法によって諸法則の証明としているから、ここまで言われると反論の余地はあり得ないのである。
 科学者たちの公式的な異論をはねのけて、ファンダメンタリストはますます意気軒昂、キリスト教の本質に迫る勢いを現した。「奇跡なんて科学的に起こり得ない」と言う人に、ファンダメンタリストは答えて言う。
「自然法則といったところで、やはり神が造りたまいしものにすぎない。だから、神ならば自然法則を変更することもできれば一時停止させることもできる。神が重力の法則を一時停止させたとすれば、人間が水の上を歩いたとしても、少しもおかしくないではないか」


ここまで強気なファンダメンタリストはなかなか見つからない。googleで見つかるのは
AllAbout JesusChrist.OrgAmazing Miraclesとか、もう少し弱気なもの:
The suspension (or violation) of natural laws involved in Biblical miracles is really no different than what we witness on a day-to-day basis. There are inherent natural forces represented by the laws of physics, chemical properties and mathematical formulae, and there are volitional forces that can interact or counteract the natural ones. For instance, the laws of gravity that hold a rock to the ground are not suspended (or violated) when a boy counteracts gravity by applying a greater physical force to pick up and throw the rock. The same logical concept is true when we witness Jesus walking on water or turning water to wine. He merely applies a volitional force outside what we know as the natural laws within our four material dimensions.

聖書の奇跡に関する自然法則の一時停止もしくは逸脱は、我々が日々、目撃するものと本当に違いがない。物理法則や化学的性質や数式によって表現される自然界の固有の力があり、その自然界の力と相互作用あるいは打ち消すことができる意志による力が存在する。たとえば、男の子が上向いて、石を放り投げるために、重力よりも大きな腕力を加えて重力を打ち消すとき、石を地面に保持する重力の法則は停止されることも、破られることもない。イエスが水の上を歩いたり、水をワインに変えたりするのを目撃したときも、同じ論理的概念が真である。彼は、我々の物質的4次元の枠内の自然法則として知っているものの外側の意志の力を加えただけなのだ。
超自然な主張ではあるのだが、自然法則の停止や破れはないと主張する。自然法則の改変は、神の顕現としては壮麗だが、このサイトの執筆者には受け入れがたいようだ。

これらの主張はもちろん"若い地球の創造論"/創造科学にはない。自然法則の適用除外はあくまでも創造6日間に限られる。これは決定的に、小室直樹の言うファンダメンタリストとは異なる。それは"若い地球の創造論"/創造科学がファンダメンタリストではないということではなく、ファンダメンタリストといっても色々だということにすぎない。


小室直樹が例に挙げたクリスチャンサイエンスと創造論は立場が逆

「人間はみんな死ぬというが、そんなこと実証できるか?」。あの人も死んだ、この人も死んだ・・・、なんて言ったところで、畢竟(つまり)、それだけのことではないか。そんな実例を並べてみても、特称命題にすぎない。そんなことから導き出される「人は死ぬ」という法則(全称命題)は、不完全帰納法から導き出された結論にすぎないではないか。正しい(真)であるとはかぎらない。
 これに反し、「イエスの贖罪によって原罪は消えたのだから死はあり得ない」という結論は、聖書から確実に導かれる命題であるから、これは成立する(真である)に決まっている!
 このように、クリスチャン・サイエンスは、論理的に絶対に正しい(聖書の教義から、演繹的に導かれるから、聖書が絶対に正しければ、これまた絶対に正しい)命題をひっさげて、正しさ(真であること)が保証されていない不完全帰納法から導き出された「人間は死ぬ」なんて命題を蹴散らしてしまった。
と小室直樹は書いているが、実際はもうちょっと複雑だ。

クリスチャンサイエンスの聖典MARY BAKER EDDY: Science and Health With Key toThe Scripturesには:
Science obscured

The decisions by vote of Church Councils as to what should and should not be considered Holy Writ; the manifest mistakes in the ancient versions; the thirty thousand different readings in the Old Testament, and the three hundred thousand in the New, - these facts show how a mortal and material sense stole into the divine record, with its own hue darkening to some extent the inspired pages. But mistakes could neither wholly obscure the divine Science of the Scriptures seen from Genesis to Revelation, mar the demonstration of Jesus, nor annul the healing by the prophets, who foresaw that "the stone which the builders rejected" would become "the head of the corner." (p.139)

何を聖書と考え、何をそうでないと考えるかについて教会公会議の投票による決定; 古代のバージョンにおける収録ミス; 3万の旧約聖書の異本と30万の新約聖書の異本はインスパイヤされたページにある程度の暗い色合いとともに、いかに死と物質的センスが神の記録に忍び込んだことを示す。しかし、間違いによって、創世記からヨハネの黙示録までの聖書に見られる神の科学をあいまいにすることも、イエスの実証を損なうことも、「家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった」を予言した預言者による治癒を無効化することもなかった。
という記述がある。聖書は無謬ではなく、現存する聖書には死と物質的センスが忍び込んでいて、これを除去するのに教会公会議の投票による決定を以ってすると言っている。論拠とすべき聖書の記述そのものが論議の対象とされている。

一方、クリスチャンサイエンスのキーは「重病が治った事例がある」ことから帰納される「クリスチャンサイエンスに従えば重病が治る」という"法則"であるともいえる。小室直樹の単純化した説明ほど明瞭に「聖書から演繹された真理」ではない。

"若い地球の創造論"/創造科学にいたっては、クリスチャンサイエンスとはまったく別物。創造6日間の後は自然法則が完全に働くと考える。そして、聖書は観測事実の記録として扱うが、自然法則をねじまげるための論拠にはしない。これは聖書に記された観測事実が科学的に正しいと主張することを目的としているため。

また、クリスチャンサイエンスが魂を別枠扱いとすることで進化論も"あり"にしているのに対して、創造論は反進化論である。

従って、「クリスチャン・サイエンスは、論理的に絶対に正しい(聖書の教義から、演繹的に導かれるから、聖書が絶対に正しければ、これまた絶対に正しい)命題をひっさげて」は、創造論にはもちろん該当しない。


形式論理学の流れとは無関係な創造論

小室直樹はキリスト教に対する形式論理学の影響を記述する。それはもちろん普通に正しい。実際、初期キリスト教の神学者であり哲学者である聖アウグスティヌス(AD354-430)はギリシア思想の影響を受けている[wiki:アウグスティヌス]:
アウグスティヌス自身はプラトン・新プラトン主義(プロティノスなど)・ストア思想(ことにキケロ)に影響を受けていた。すでにギリシア教父はギリシア思想とキリスト教の統合に進んでいたが、アウグスティヌスにおいて新プラトン主義とキリスト教思想が統合されたことは、西洋思想史を語る上で外すことができないほど重要な業績である。またラテン教父の間にあったストア派ことにその禁欲主義への共感を促進したことも、キリスト教倫理思想への影響が大きい。


事実、そのアウグスティヌスは:
地のことについて、天空のことについて、星辰の運動や回転あるいはさらにその大きさや距離についてさえも、また太陽や月の蝕について、年月や季節の周期について、動物や植物や石やその類の他のものの本性について、キリスト者でない人が、きわめて確実な理性と経験によって支持された知識を持っていることがしばしばである。キリスト者がこうした事柄について、いわば聖書に基づいて語ると言いながら戯言を語るのを他の人が聞き、天地の相違とよく言われるような誤りを犯しているのを見て取り、笑いを禁じえなくなるなどというのは、きわめて見苦しいことであり、有害であり、つとめて避けるべきことである。誤った人が嘲笑されるというのは、それほどおぞましいことではない。しかしわれわれの聖書の記者が、[教会の]外にいる人々から、このようなことを考えていたと信じられ、いわば無学の人々として批難され、唾棄されるなら由々しきことであり、われわれがその救いのために心を尽くしているこれらの人々にも有害な結果をもたらすことになろう。

アウグスティヌス (著), 片柳 栄一 (翻訳):アウグスティヌス著作集 第16巻 創世記注解, 教文館,1994 [第1巻第19章39 p.35]
と記している。"若い地球の創造論"を直撃するような記述だが、これはAD400年頃のもの。

さらに、古代キリスト教最大の神学者オリゲネス(AD182?〜251)[wiki:オリゲネス]は:
オリゲネスの世界観や歴史観は新プラトン主義(ネオプラトニズム)の影響を強く受けたものであった。プラトンの「ティマイオス」と旧約聖書の「創世記」の世界創造の記述を融合しようとし、「創造とは神が無に自分の存在を分かち与えたことである」と唱えた。「諸原理について」が現存する代表的著作だが、そこでは神、世界、人間、人間の神への回帰などが論じられている。オリゲネスの思想の特徴として、聖書の記述を字義通りでなく、なんらかの比喩として解釈する比喩的聖書解釈の手法があげられる。

たとえば、「創世記講話」でオリゲネスのは:
文字通りにとれば、神は光を昼と呼び、闇を夜と呼ぶ。
しかし、霊的な意味に即して、前述のこの<元(はじめ)>の内に神が天と地とを造った後に、「光あれ」と言い、光と闇とを分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼んだのはいかなることか、「夕べとなり朝となった」(と述べた後)「第一日」とは言わず、「一日」と述べるのはなぜか、考察しよう。それは、世界が存在するようになる前には、まだ時間は存在しなかったからである。継続する日々によって、時間は存在し始めるのである。第二日、第三日、第四日、(これに続く)他のすべての日々が時間を表示し始めるのである。

(初期ギリシア教父 p.504)[Amazon]
と記している。

これはこれだけのことで、ギリシャ哲学の影響を受けた初期キリスト教が、現在のキリスト教ファンダメンタリストにつながっているわけではない。

既に述べたように"若い地球の創造論"は、19世紀のカルトSeventh Day Adventist[wiki]に端を発する。現在の"若い地球の創造論"は、1960年のJohn C. WhitcombとHenry Morrisによる"Genesis Flood"の出版に始まる。"若い地球の創造論"を現在の勢力にした功績者はこのHenry Morris[wiki]である。彼は水利工学で学位を取得しているが、神学にはまったく関わっていない。


小室直樹は第1章「数学の論理の源泉―古代宗教から生まれた数学の論理」で形式論理学への道を語り、第2章「数学は何のために学ぶのか―論理とは神への論争の技術なり」で、現代のキリスト教ファンダメンタリストを取り上げているので、なんとなくつながりがあるような印象を受けてしまう。しかし、小室直樹はファンダメンタリストたちが形式論理学に則っているなどとは書いていない。


小室直樹の定義では数学的帰納法は帰納法

もののついでに突っ込みをひとつ。

「帰納法」を「不完全帰納法」と呼び、演繹法である「数学的帰納法」を帰納法の仲間にして、完全帰納法だと言う。
◎完全な帰納法は数学だけが持つ
 果たして、ファンダメンタリストの言うように、科学における帰納法は、すべて不完全帰納法なのか。すべては幻か。
 そうではない。
 帰納法にも完全帰納法はあるのである。
 この帰納法で証明された命題は、(必ず)成り立つ(正しい。真である)。
 では、それは、どんな帰納法であるのか。
 数学的帰納法(mathematical induction)である。(pp.195-106)
まさか、小室直樹が"数学的帰納法が演繹法"であることを知らないとは思えないのだが。少なくとも学部は数学科だったはず。

アリストテレスの経験主義重視から、かなり時代が離れての機械仕掛けの宇宙という機械論の成立を経て、現在の科学に至る。そして成立した原則。経験的観測事実によって証明された理論は、一時的真理であり、経験的観測事実によって反証されれば、消え去るか、適用範囲を限定されるか、修正される。それを"数学原論"のストーリーの上で語るために、数学的帰納法を演繹法ではなく完全帰納法と呼んだのだろうか。

少なくとも、帰納と演繹の説明としては正しくないので、真に受けないほうがいいだろう。


追記: 20060803 完全帰納法

"完全帰納法"(Complete Induction)という用語は、数学的帰納法の形式のひとつ:
Complete induction

Another generalization, called complete induction (or strong induction), allows that in the second step we assume not only that the statement holds for n = m but also that it is true for n smaller than or equal to m.

(数学的帰納法の)他の一般化は、完全帰納法もしくは強い帰納法と呼ばれるもので、第2段階を n=m だけではなく、 m以下のnについて真だとする。

http://en.wikipedia.org/wiki/Mathematical_induction

googleで"complete induction"で出てくるのは、このwikiの引用が多いが、他に..

Robert Harper: "15-399 Supplementary Notes: Complete Induction" [PDF]

でも同様の説明をしている。他に、数学的帰納法(Mathematical Induction)の別名として完全帰納法(Complete Induction)を使っている例も見られる。

いずれにせよ、完全帰納法(Complete Induction)と言っても演繹法(Deduction)ではあるけどね。



完全帰納法(Perfect Induction)

で、"Complete Induction"とは別に"Perfect Induction"という用語も存在する。"Perfect Induction"を数学的帰納法の別名で使っている人もいるが、それは適切な用法ではないだろう。

Ludwig von Mises Instituteの用語集Iによると:
Induction, n. inductive, adj. In logic, assuming the truth of a general (or universal) premise from the knowledge that individual or particular instances of the generality conform to the premise. Example: Assuming that all men speak English because all the men you know speak English.

Perfect induction is when the premise is based on the knowledge of all instances. In such cases, the induction is merely the statement of a known totality or generality.

Imperfect induction is when the premise is based on the knowledge of less than all the individual instances, i.e., on a sample. In the sciences of human action, imperfect induction can never provide scientific certainty. At best, it provides only a probability. However, imperfect induction is an epistemological basis of the natural sciences.

TH. 303; UF. 21-27, 44-45.

こっちの用語"Perfect Induction"が、小室直樹の使っている"完全帰納法"にあたるようだ。

もちろん、この完全帰納法(Perfect Induction)は、数学的帰納法あるいは完全帰納法(Complete Induction)とは別な用語。


タグ:創造論
posted by Kumicit at 2006/07/25 00:01 | Comment(2) | TrackBack(0) | Creationism | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
>「小室直樹が"数学的帰納法が演繹法"であることを知らないとは思えないのだが。」
ここでの「演繹法=推論」という意味では?
帰納法は、あくまでも「帰納法」である。
#小室直樹氏の名誉の為にも、修正をお願いしたい。
Posted by 通りすがり at 2013/12/27 13:00
「数学的帰納法は演繹法である」というのは高校数学でも明示されていませんか?
Posted by Kumicit 管理者コメント at 2013/12/28 22:29
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