たとえばアリストテレスの著作は、それなりの水準の教育があれば誰でも読んで理解できるものだった。コペルニクスが1543年に『天体の回転について』を出版したときには、部外者でも、さしたる困難もなくその論旨をたどることができた。1632年にガリレオが『天文対話』を出したときでさえ、物理学は、そこに含まれている数学に通じていなくても、教育を受けていれば、部外者でも理解できる範囲内だった。しかしそのわずか50年後にニュートンの『プリンキピア・マテマティカ』が出たときには、事態は突如としてまったく別の方向に向かった。ある日突然、科学は鏡をくぐりぬけて、専門家にしか理解できないものになったのである。
何が起きたかと言えば、数学が科学の必須の成分になっていたということである。議論の展開は、微積分や、生まれつつあった確率論などの、新しい数学的な技法に通じている読者だけが理解できるような新しい水準に引き上げられていた。物理学は専門家でなければ見通せないものになった。
対照的に生物学は、なお少なくとも二世紀の間、素人にも手が出せるものだった。ダーウィンの本のような専門書が広く読まれたのである。しかし、1700年以後に出された物理の教科書で、出版社のベストセラー図書に入ったものはない。ところが、今では同じことが生物学にも起こりつつある。生物学で鏡をくぐりぬけた最初のものは遺伝学であり、これは1930年に完全に数理化された。今日では、進化遺伝学の教科書は、多くの生物学者にとってさえ、あまりに数理的で理解できなくなっている。生物学の中でも化学指向の強い分野(生理学、細胞学など)も、その後まもなく、基礎化学の利用が重要になるにつれて、同じ運命をたどるようになった。
生物学の中でも、まだ素人に手が出せる領域は、生態学や動物行動学のような行動にかかわる分野である。しかしこれさえも1970年代には数理化されるようになった。1970年代半ばまでは、動物の行動について、世間の人々が誰でも納得できるような一般向けの記事を書くことは、まだ可能だった。そこで、扱われるのは、ごく身近でおなじみの行動だった---春になるとなわばりをめぐって争い、明け方いっせいにさえずり、ひなに餌をやる鳥などである。生物学者が集団遺伝学や経済学で用いられる数理的道具を行動の研究に使えないかと試すようになった1970年代に、事態は密かに、しかし劇的に変化した。
ロビン・ダンバー (松浦俊輔 訳) 「科学がきらわれる理由」pp.205-206, 1997
確かに、ニュートンやケプラーたちの成果は、数式なしには成り立たなくなっていた。
「惑星は太陽をひとつの焦点とする楕円軌道を運動する」というケプラー第1法則[wiki:ケプラーの法則]を知らない人はあまりいないだろう。しかし、これを万有引力の法則から導出する方法を覚えている人は多くないかもしれない。ちなみに、Kumicitは大学1年のときの力学の教科書[喜多ほか:基礎物理コース 力学]を引っ張り出して、紙と鉛筆で式を追って、しばし記憶の回復を待たねばならなかった。
たかだか楕円軌道ごときでも、この有様。
とともに重要なことは、万有引力の法則から楕円軌道を導く過程を、数式なしに説明することは不可能に近いことだ。少なくとも、Kumicitには数式なしに説明できない。たとえ説明できたとしても、次の一歩、たとえば多体問題の説明は数式なしには無理だろう。
そして進化論ももちろん数学まみれ。
にもかかわらず、経済学者Krugman[1996]によれば
So there is a close affinity in method and indeed of intellectual style between economics and evolution. But there is another interesting parallel: both economics and evolution are model-oriented, algebra-heavy subjects that are the subject of intense interest from people who cannot stand algebra.
従って、経済学と進化論には、方法論においても、知的スタイルにおいても、非常によく似ている。しかし、さらに面白い類似点がある。それは、経済学も進化論もモデル指向で、数学が重要な分野でありながら、数学ができない人々に大いに関心を持たれることだ。
進化論対創造論の戦いはまさに、Krugmanの言うとおりである。
メモ:楕円軌道もしくは双曲線軌道の式



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