2011/10/18

メモ「スペインの盗まれた子供たち by BBC」

フランコ政権時代から1990年代まで続いていたスペインのカトリック教会と病院のスキャンダル"盗まれた子供たち"についてのBBC報道記事:
[Katya Adler: "Spain's stolen babies and the families who lived a lie" (2011/10/18) on BBC]
スペインの盗まれた嬰児たちと、嘘の上で生きてきた家族たち

  • その数は? 900件以上が調査されたが、新たな事件が明らかになっており、弁護士たちは、その総数は30万にものぼると考えている。
  • 期間は? Franco政権のもとで始まり、1990年代までの40〜50年間続いた。
  • 誰が得したのか? 最初はファシストたちが敵の子供たちを育てた。後には、倫理的あるいは経済的に欠陥があると判断された親たちから子供取り上げて、祝福されたカトリックの、多くは子供のいない夫婦に手渡された
  • 何故、そのような長期間にわたって発覚しなかったのか?



私がManoli Pagadorに初めて会ったのは、マドリッド郊外の労働者階級の住宅地Getafeだった。彼女はスペイン人が"ninos robados"すなわち"盗まれた子供たち"と呼ぶスキャンダルの被害者たちの集会に参加していた。

彼女には3人の娘と多くの孫がいるが、最初の子供、40年前に生まれた息子と会ったことはない。彼女は、病院の医師たちが言うように息子が死んで埋葬されたのではなく、息子が生きていると信じる自分は狂っているのではないかと考えるようになった。彼女は私の手を強く握って「今この部屋にいる多くの女性たちを見てください。みんな、私と同じです。同じ過去を持っています。同じ経験をしています。私は狂ってはいません。家族はやっと私を信じてくれました」と言った。

1971年に、当時23歳で、結婚して間もなかったManoli Pagadorは、健康だと告げられた男の子を生んだが、所定の検査だといわれて、すぐに彼女の手から取り上げられた。いつ終わるともしれない9時間が経過した。「そして、看護婦でもある修道女が冷たく私に、赤ちゃんが死んだと言いました。」 医師たちは彼女に息子の亡骸を抱かせることもなければ、いつ埋葬されたかも言わなかった。

彼女は病院スタッフに問い詰めようとは考えなかったのだろうか?

「医師を?修道女を?」彼女は怖れるように言った。「私には彼らが嘘をついていると責められませんでした。当時はFranco政権下のスペインです。独裁政治です。今でさえ、スペイン人は権威をあまり疑いません。」

今年まで嬰児誘拐の規模は知られていなかった。それを、Barcelonaに近い海沿いの町で子供のころからの友だちだった二人の男性、Antonio BarrosoとJuan Luis Morenoが、とある修道女から購入したものの中から発見した。彼らの両親は本当の両親ではなく、彼らの人生は嘘の上に成り立っていた。

Juan Luis Morenoは、"父"と呼んでいた男から、その死の間際に真実を知らされた。「彼は『私は、おまえをZaragozaの聖職者から買った』と言いいました。彼はAntonioも同じように買ったと言いました。」

二人は傷つき怒った。彼らは、自分たちがペットショップで買われた二匹の犬のように思われた。彼らが助言を求めた養子縁組弁護士は、しょっちゅう同様な例を見ていると言った。

二人は、報道機関にコンタクトし、この話は全国に広まった。同様の経験をした母親たちがスペイン全国から名乗り出てきた。

祝福された家族

BBCが要請してから数か月後、スペイン政府はついに、スペインの"盗まれた子供たち"について司法省のAngel Nunezに私の取材を受けさせた。嬰児たちが盗まれたのかと問うと、Nunez氏は「疑いなく」と答えた。人数を問うと、Nunez氏は慎重に「数字は言えないが、公的調査規模から、かなりの数だ」と答えた。

弁護士たちは、最大限30万人が盗まれたと考えている。

"望まれない"親から子供を盗んで、"祝福された"家族に与える行為は、Francisco Franco将軍の独裁下の1930年代から始まった。

当初の動機はイデオロギー的なものだったようだ。しかし、後に動機は変わり、倫理的あるいは経済的に欠陥があると考えられる親から嬰児を取り上げるようになっていった。

このスキャンダルは、Franco政権下でスペインの病院や学校や養護施設などの社会サービスにおいて重要な役割を担っていたカトリック教会と密接に関連している。

修道女や聖職者たちは養子縁組を求める親たちのリストをまとめていた。そして医師たちは、母親たちに子供たちの運命について嘘をついてたとされている。

そのような医師の一人Dr Eduardo Velaの名が、多くの被害者たちの調査によって明らかになった。1981年の住民登録情報によれば、マドリッドにあるDr. VelaのSan Romanクリニックで生まれた子供たちの70%について、"母親不明"と登録されていた。これは未婚の母の匿名性を守るためにスペインでは合法な行為である。この法制は、嬰児誘拐の温床となっていると批難されている。

Dr. Velaは、金銭と引き換えに他の夫婦に渡された新生児について、その母親には死亡したと告げていたと告発されている。

あるスペインの雑誌は、母親たちに子供が死んだことを示すために用意していたとみられる、San Romanクリニックの冷凍庫に保存されていた死んだ嬰児の写真を掲載した。

Dr. VelaはBBCの取材を拒否した。しかし、偶然にも、私は彼の設立したクリニックで出産していたので、彼の予約を取ることができた。

私はDr. Velaとマドリッドで開業している彼の自宅で会った。スペインの報道でモンスターと呼ばれている男は、年老いていて、顔には微笑みを浮かべていたが、私がジャーナリストだと告げると、その微笑みは消えた。Dr. Velaはデスクにあった金属製の十字架をつかんだ。彼は私の顔にそれをつきつけて「Katyaさん、これが何かわかりますか? 私は常に神の名のもとに行動してきました。子供たちの幸せために、そして母親たちを守るために」と言った。Dr, Velaは常に合法的に行動してきたのだと主張した。


中には何もない墓

1975年のFrancoの死の後、民主政治への円滑な移行のために主要な政党たちは恩赦に合意した。しかし、この恩赦法は廃止されることはなく、このためスペインの嬰児誘拐を人類に対する国家的犯罪として調査しようという試みは、この国の司法からは却下し、政治家たちからは抵抗されきた。

「独裁者の死から35年。しかし、まだ我々は過去の問題を抱えている。社会問題、個人あるいは文化的問題、この政府の政策が、これを解決しようとしてきた」と司法省のAgel Nunezは言う。

このスキャンダルの国家的調査をスペイン政府は拒否しており、そのことに苛立つ被害者たちは、多くの場合、可能な限り、独自に調査を実行してきた。

DNA検査のために国中で嬰児たちの墓が掘り出された。ときには墓の中には、小石の山しかなかった。あるいは大人の死体の一部が入っていた。

スペイン人たちは家族再会の望みを託して、大挙してDNA検査を受けた。いわゆる"盗まれた子供"と"生物学上の母親"の間で、最初の数例がマッチしている。しかし、潜在的には、はるかに多くマッチする例ががあるはずである。データ保護法によりDNAバンクは情報共有や相互参照を禁じられており、スペイン政府は国家的DNAデータベースの構築の約束を果たしていない。

Manoli Pagadorは今でも40年前のことで苛まれている。彼女は私に、それ以来、病院に行ったことがないと言った。

"You can't just say to yourself, I have to forget it and that's it.

"It's not something you forget, it's with you for the rest of your life."


posted by Kumicit at 2011/10/18 23:23 | Comment(0) | TrackBack(0) | ID: General | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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