意識が連続しているというのは虚妄にすぎない
数年もすれば間違いなく同じ意識質感を使っていない状態になる、というのも、肉体の新陳代謝によって人間の原子構成の形相は同じでも、質料は入れ替わっているから、以前と同じ質感を未だ使っているはずはなく、主観の連続性は保持されない。従って意識質感は不動の非物質的実体でなければならない、この世では物理学に出てくる物質的実体以外認められないから、意識質感という不動の非物質的実体だけ中に浮いてしまう。これはおかしい...「主観の連続性」が"ここ"で保たれていることは富樫氏にとっては無条件に正しいことなのだろう。しかし、もちろん、「主観の連続性」が保たれていることは証明できない。
1921年にBertrand Russelは次のように記した:
There is no logical impossibility in the hypothesis that the world sprang into being five minutes ago, exactly as it then was, with a population that "remembered" a wholly unreal past. There is no logically necessary connection between events at different times; therefore nothing that is happening now or will happen in the future can disprove the hypothesis that the world began five minutes ago.生まれたときから、ずっと自分の意識は連続していると思っているかもしれないが、それはそのような記憶があるだけで、実際は5分間しか生きていない。そういう主張を覆せる根拠を我々は持ち合わせていない。
ありえざるすべての過去を記憶している人々ともに、世界が5分前に、まさに5分前の形で存在し始めたという仮説には、論理的不可能性がない。異なる時間の間の関係に論理的必然性はない。従って、現在起きている事象や将来起こる事象によって、世界が5分前に始まったという仮説を反証できない。
[Bertrand Russell, The Analysis of Mind, 1921, p.159]
時間の順序性すら意味を持たないという反証不能の仮説を、Fred Hoyleは"October the First Is Too Late"(1966)の登場人物の会話の中で記している。それは次のようなものだ。
一列に並んだ箱の中には、過去の出来事が書かれた紙が入っている。より過去ほど、その記録はあいまいで量も少ない。未来側の箱を見ると、そこには新しいことが書かれた紙もある。一方で、過去の記録はよりあいまいで、量も少なくなっている。過去側の箱を見ると、逆に過去の記録は少し鮮明で、量も増えている。そして、隣の列には、他の人の記録が書かれている。意識とは、ライトを振り回して、たまたま光が当たったところにのみ存在する。
我々にわかることは、生まれたときから意識が連続しているという"思い"があるということだけである。我々の意識が本当に連続しているかどうかは確かめようがない。
また、逆に、基底的現実の住人がシミュレーションで不連続性を設定するかもしれない。
ということは、富樫:人工世界の論として、"ここ"が基底的現実なのか、シミュレーションなのかを識別するための材料に「意識の連続性」は使えないことになる。
アニメ美少女声質
さて、最後は富樫氏の渾身の一撃たるアニメ美少女声質感だ。これについて、不思議なことに富樫氏はいかなる例をも挙げていない。Webといういつでも改変可能な媒体を使って人工世界を主張しているなら、番組改変ごとに内容追記していけるだろうに。
で、富樫氏は、"と"にありがちな主張をしている:
意識には特殊な質感があり、例えば声優が発するいかにも美少女な声質とか、いかにも美少年な声質というものがある。
これらは単純に言って物理的実体であり、それ以外の何物でもないはず。
クオリアではなく「物理的実体」だそうである。「物理的実体」の定義がないので、意味不明である。そういうところが"と"なのだ。まあ、それでは話が進まないの、ここではクオリアのようなものだとして、対応する。
まずは、次のような思考実験を考えてみよう。
思考実験I:
- アニメ・コミック・アニラジなどから完全に隔離されていたが、
- 生身の美少女はまわりにいる
- アニメについての文字情報による知識は完全に与えられている人物が、
- Biglobe限定で有償配信中の「シムーン」を見た。
- このとき、この人物はネヴィリルを美少女だと認識するだろうか?
富樫氏の主張「声優が発するいかにも美少女な声質は...物理的実体」に従えば、この人物はネヴィリルを美少女と認識するはずである。
美少女と認識しなければ、美少女アニメ声質のクオリアは虚妄である。認識したら、美少女アニメ声質のクオリアは否定されない(クオリアがなくても美少女と認識するかもしれないから)。
思考実験II:
- アニメ・コミック・アニラジ・ゲームなどには完全に接している
- ただし、"高橋美紀"に関係するアニメ・アニラジ・ゲームについての情報は完全に欠落している(すなわち高橋美紀を完全に知らないし、シーラ・ラパーナ女王陛下やイリスなども知らない)人物が
- 高橋美紀のGo Goヴォイスメッセンジャー(http://www.splashdream.com/radio/vm17.html)を聞いた。
- このとき、この人物は高橋美紀の声を美少女声質として認識するだろうか?
そろそろ**歳な高橋美紀がキャラを演じていない声。これを美少女声質として認識するなら、美少女アニメ声質のクオリアは、ちっともあてにならない。すなわち、美少女アニメ声質のクオリアの存在は疑わしい。
美少女声質として認識しないなら、少女アニメ声質のクオリアは否定されない。
富樫氏がもし、美少女アニメ声質のクオリアはヴォイスメッセジャーにおける高橋美紀の声を美少女声質として認識すべきだと主張したとすると、富樫氏の主張:
現代人と一万年前の人類種は遺伝子構成にほとんど差異がない、ということは一万年前の人類種も現代人と全く同じ質感空間を所有していた、ということになる。とバッティングする。「ということは一万年前の人類種も現代人と全く同じような声を所有していた、ということになる」ので、「昔から、美少女な声が存在し、それを美少女の声と認識していた」と主張できるからだ。
思考実験III:
- アニメ・コミック・アニラジなどから完全に隔離されていたが、
- 漢組[http://emou.net/wootokogumi.htm]だけは聴いている、
- 生身の美少女はまわりにいる
- アニメについての文字情報による知識は完全に与えられているが、
- 緒方組長についてのアニメ関連情報だけは欠落している人物が、時と夢と銀河の宴のアフレコを見た(ただし、アニメ画面は見ない)
- このとき、この人物は、ワルキューレを美少女アニメ声質として認識するだろうか
富樫氏の主張に従えば、この人物はワルキューレを美少女アニメ声質として認識するはずだ。しかし、そんなことがありうるだろうか?
ここまでくると、「声優が発するいかにも美少女な声質は、単純に言って物理的実体」という富樫氏の"と"な主張は、根拠なき主張であることは明らかだ。
この後に富樫氏にできることは「存在が否定されたわけではないから、存在する」という創造論の定番論理"Argument from Ignorance"くらいだろう。
基底的現実とシミュレーションを識別する方法は、おそらくない
"ここ"がシミュレーションではなく、基底的現実だと証明することは原理的に不可能だ。それは、「基底的現実であるかのように、シミュレーションが創られている」という可能性を否定することができないからだ。
一方、ここが基底的現実ではなく、シミュレーションであることを証明することも、容易ではない。それは、「基底的現実ではありえないものが"ここ"に存在するから、"ここ"はシミュレーションだ」と主張するしか方法がないからだ。
この論法は、インテリジェントデザインなどの基軸論理である"God of the gaps"論(科学の隙間に神を見出す)そのものである。「科学で説明できないことは神様のせいなのさ」という"God of the gaps"論で、何かを証明することは、もちろん無理だ。
結局、富樫氏がやったことは、"と"な人にありがちなこと。すなわち、シミュレーション・アーギュメントを知らないまま、シミュレーション・アーギュメントのようなものを創った。しかし、"ここ"がシミュレーションであることを証明しようとした富樫氏独自部分は、何も証明しない。