たとえば、保守的イエスは反財産なリベラルなことを言うわけがないので、マルコによる福音書10章23-25節は次のようになっている:
[Conservative Bible: Mark 9-16]
KJV 保守訳案 分析 Mark 10:23 And Jesus looked round about, and saith unto his disciples, How hardly shall they that have riches enter into the kingdom of God!
イエスは弟子たちを見回して言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」Jesus looked around and said to His students, "How unlikely it is that those who have a lot of money will enter the kingdom of God!"
イエスは弟子たちを見回して言われた。「多くの金を持つ者は神の国に入れそうにない。」The "having" of money isn't the problem, so much as coming to depend on that money as a God-substitute. But anyone who has money, might come to trust in it. God wants us to trust Him, money or no.
神の替りにお金を信頼するのでない限り、お金を「持っている」ことは問題なのではない。しかし、お金を持っている者は、お金を信頼するようになるかもしれない。神は、お金を持っていようが、いまいが、我々に神を信頼させたがっている。Mark 10:24 And the disciples were astonished at his words. But Jesus answereth again, and saith unto them, Children, how hard is it for them that trust in riches to enter into the kingdom of God!
弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。イエスは更に言葉を続けられた。「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。The students were astonished to hear this. But Jesus said again, "Children, how hard it is for them [who trust in money] to enter the kingdom of God!
弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。イエスは更に言葉を続けられた。「子たちよ、彼らが神の国に入るのは、なんと難しいことか。Not all manuscripts contain that clarification.
すべての聖書訳に、この部分が明確に含まれているわけではない。Mark 10:25 It is easier for a camel to go through the eye of a needle, than for a rich man to enter into the kingdom of God.
金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」It is easier for a camel to go through the eye of a needle, than for an idle miser to enter into the kingdom of God."
怠惰な守銭奴が神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」Plousios meant the idle rich then; the closest term today would be "idle miser"; the Greek is from ploutos (wealth), from which plutocrat is derived.
The "needle" was the very narrow pedestrian portal in the larger city gate. In order to pass, the camel must lower itself. Similarly, in order to pass the gates of heaven, a man must bow.
"Plousios"は怠惰な金持ちを意味し、ギリシャ語の"ploutos"(財産)に由来し、これから財閥が派生している。今日最も近い用語は"怠惰な守銭奴"となる。
"針"は大規模な都市の城門の非常に狭い歩行者用入口だった。通過するためには、ラクダは、しゃがむ必要がある。同様に、天国の門を通過するには、人は頭を下げなければならない。
繰り返しになるが、保守的イエスは姦淫を容認するわけがないので...
[Conservative Bible: John 8-14]
KJV 保守訳案 分析 John 7:53 And every man went unto his own house.
人々はおのおの家へ帰って行った。[Then every one of them went home.] Most scholars agree that it is not original to John.
大半の学者はこの節がヨハネによるものではないことに同意している。John 8:1-11 イエスはオリーブ山へ行かれた。
朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。
そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」
イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。
イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。
しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」
そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。
これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。
イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」
女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。The evidence is overwhelming that verses 1 - 11 are not original to John.
1〜11節はヨハネによるものではないという証拠は圧倒的であるJohn 8:12 Then spake Jesus again unto them, saying, I am the light of the world: he that followeth me shall not walk in darkness, but shall have the light of life.
イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」Shortly after this, Jesus spoke to them again, declaring, "I am the light of the world: whoever follows me shall not walk in darkness at all, but shall receive the light of life."
この後すぐ、イエスは言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は誰でも、暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」 The phrase, "shall not walk in darkness" contains the strongest negation possible in Greek.
保守は、イエスが自分たちの考えに近い倫理問題を優先し、富の不平等や非合法移民の扱いについて重視していないと考える傾向があるようだが、Conservapediaはさらに進めて聖書からリベラルイエスを消し去ることで、保守思想と聖書を整合させるようだ。