Soberがインテリジェントデザインは「還元不可能な複雑さを持つマインドは、還元不可能な複雑さを持つマインドによってしか創られない」という補助仮説が必要なことを指摘した[Elliot Sober: "Intelligent Design and the Supernatural -- the 'God or Extraterrestrials' Reply.", Faith and Philosophy, forthcoming.]。ここから始めて、Rosenhouse助教授はデザイナーが科学の対象外であると示す。そして、デザイナーを持ち出しても何も問題の解明にならないと解説する。
コンピュータや自動車のような複雑な装置の存在は、人間のデザイナーのインテリジェントな活動を通して通常説明される。我々は、人間が存在し、その人間がそのようなものを巧みに作れるという知識によって、この推論を支持する。「しかし、人間がどこから来たかか説明していない」という異論を誰も唱えない。
しかし、デザイナーの手になる作品の例だと主張されるものを考えることによってデザイナーの存在を推論しようとするときは、状況が違ってくる。生物はとても複雑なので、特別な種類の説明が必要だ。ほとんどの科学者はこれを長い進化過程の結果として説明する。インテリジェントデザインの支持者たちはこのような見方で説明する。生物は、"複雑で指定された情報(CSI)"として言及される特定の種類の複雑さを示しており、インテリジェントデザインの結果として説明するのがもっともらしいというのが、彼らの信念だ。
この結論を記述するにあたって、彼らは複雑さを持つすべての生命を、意志の活動によって創造する能力を持つエンティティの存在を仮定する。このエンティティは、我々が直接経験的に知っているいかなるインテリジェントエージェントの能力をも遥かに凌駕している。自然界の複雑さは、特定の種類のデザイナーが存在することの証拠として使われる。次に、このデザイナーが自然界の説明として使われる。
これはひとつの問題をもたらす。複雑なエンティティの存在はまさに、説明を必要とする現象なのだ。説明されるべき物よりも複雑な何かの存在を仮定することは、問題をもっと大きなものに置き換えるにすぎない。もし、宇宙がデザインの創造物としてしか説明できないなら、宇宙を創造できる能力を持つデザイナーもまた、説明されなければならない。その結果は、ひとつのデザイナーを説明するために、別のデザイナーを持ち出すという無限回帰になる。
この単純な論理が彼らの理論に対する重大な挑戦となるので、インテリジェントデザイン支持者たちはこれを逃れる策略を提示したことは驚くにあたらない。
我々はこの問題を否定できないことはない。複雑な機械の説明において、誰も人間がどこから来たかを問わない。おそらくは、インテリジェントデザインにおいてデザイナーの説明を求めるのは不合理である。デザイン支持者であるWillam Dembskiは著書"The Design Revolution"で次のように書いた:Design-theoretic explanations are proximal or local explanations rather than ultimate explanations. Design-theoretic explanations are concerned with determining whether some particular event, object or structure exhibits clear marks of intelligence and can thus be legitimately ascribed to design. Consequently, design-theoretic reasoning does not require the who-designed-the-designer question to be answered for a design inference to be valid. There is explanatory value in attributing the Jupiter Symphony to the artistry (design) of Mozart, and that explanation suffers nothing by not knowing who designed Mozart. (p. 199)
デザイン理論の説明は、最終的な説明ではなく、 直近あるいは局所的な説明である。デザイン理論の説明は、ある特定の現象や事物や構造がインテリジェンスの特徴を明瞭に示していて、従って合理的にデザインされたと言えるかどうかについてものである。従って、デザイン理論の論理は、デザイン推論が有効であることを示すために、"who-designed-the-designer"(誰がデザイナーをデザインしたか)問題に答える必要はない。交響曲(第41番)木星がモーツアルトの作曲(デザイン)によるものだというのは説明の価値があるが、誰がモーツアルトをデザインしたかわかっていないことは問題ではない。(199ページ)
これは十分な答えではない。ここで問題としているのは、インテリジェントデザインにおいてデザイナーの存在をどう説明するかではない。そのようなデザイナーは、別のデザイナーの活動を通してしか説明できないと、デザイン支持者自らの論理が我々に告げている。生物における特定の種類の複雑さの存在がデザインによってしか説明できないというのは、彼らの論である。そのような複雑さを持つものを創れる能力を持つデザイナーは、少なくともその創造物と同程度に複雑なはずである。生物に対してデザイン推論が合理的なら、もっと大きな力でデザイナー自身にも適用される。
我々は、インテリジェントデザインのデザイナーがその創造物と同程度に複雑だという命題を否定できるだろうか? ノー、それはできない。我々は地球のバイオスフィアを概念化できる能力を持つデザイナーを仮定し、物質を操作して、その概念を実装できる能力を仮定している。我々が知っている最高のインテリジェンスは、機能させるに複雑な本体が必要であるが、言われるようなインテリジェントデザインのデザイナーのように遠隔操作はできない。我々に関する感覚で、我々よりも非常に偉大な力を持ちながら、我々よりも単純なエージェントというはもっともらしくない。
おそらく、デザイナーの機嫌は不可解だと認めることはできるが、しかし、科学者は、それ自体を説明できないエンティティの存在を日常的に仮定すると論じることは可能だ。Dembskiは繰り返す:The regress implicit in the who-designed-the-designer question is no worse here than elsewhere in science. Such regresses arise whenever scientists introduce novel theoretical entities. For instance, when Ludwig Boltzmann introduced his kinetic theory of heat back in the late 1800’s and invoked the motion of unobservable particles (what we now call atoms and molecules) to explain heat, one might just as well have argued that such unobservable particles do not explain anything because they themselves need to be explained. (p. 198)これは少なくとも、教育的に間違いだ。観測不可能な粒子の有働によって熱を説明することと、未知のインテリジェントエージェントの活動によって生物を説明することをアナロジーに使うのDembskiは間違っている。
"who-designed-the-designer"(誰がデザイナーをデザインしたか)問題に内在する回帰は、他の科学の分野と比べて何ら問題ではない。科学者が新しい理論上のエンティティを持ち出すときはいつでも、そのような回帰が起きる。たとえば、Ludwig Boltzmannが1800年代後半に、熱運動論を提案したとき、観測不可能な粒子の運動(現在、我々が原子や分子と呼ぶ)を熱を説明するために持ち出した。そのような観測不可能な粒子は、それ自体が説明を必要とするので、何も説明したことにはならないといえるだろう。(198ページ)
理由を知るには、科学的説明の性質を考える必要がある。この連載で既に書いたが("What is Science?")、科学者が評価するものは、予測可能性と制御である。科学者がある理論が正しいと主張するとき、それは仮の同意を差し控えることが不合理なほど、多くの実験結果を予測できたということを意味する。
だからこそ、Boltzmannが熱の説明のために、観測不可能な粒子を持ち出しても誰も異を唱えなかった。彼の仮説が熱の現象を説明するだけでなく、未だ実行されていない実験結果を予測することが可能であることを明確に示すことができた。原子と分子に関して考えることは疑う余地なく有用であり、それはBoltzmannが多くの科学者と同じく、大事にすることだ。
おそらく、科学的説明に観測不可能なエンティティを持ち出した最も有名な例はニュートリノである。1900年代初めの原子の実験で、エネルギー保存則に反すると思われる結果が得られた。言い換えるなら、実験の始めよりも、実験の終わりの方がエネルギーが少なくなっていた。この結果から、科学者たちは微小な観測不可能な粒子であるニュートリノの運動エネルギーが失われたエネルギーを説明するという仮説をたてた。一部の科学者はこの動きに異を唱えたが、後の実験でニュートリノの存在は実際に確認された。
これらの例で、観測できない特定の粒子を仮定することで、これまで不可解だった現象を明確にできた。そして、もしデザイン支持者が、彼らの仮説が同様のことをできれば、科学者たちは仮説を受け入れるだろう。つまり、デザイン支持者が何らかの生物学の事実を指して、「デザイン仮説はこれらの事実を理解して、研究成果のでそうなラインを示唆する」と言えば、科学者たちはデザイナー自身の説明が必要だいう根拠で異論を唱えることはないだろう。デザイナー自身の説明は、将来の謎として扱われる。しかし、デザイン支持者たちはそうしない。彼らは、デザインがあったと言うだけで、それ以上は何もしない。彼らはデザインを主張すれども、彼らが選んだ出発点は科学者のいかなる関心も呼んでいない。
注意すべき第2の違いがある。Boltmannの時代の科学者たちは既に、原子や分子が存在するのではないかと疑うだけの十分な理由をもっていた。ニュートリノそのものは提案時点でまったく新しいものだったが、原子より小さい粒子の存在は多く知られており、さらなる仮定をおいても、こじつけにはならなかった。さらに、これらの粒子が持つといわれた性質は、他の物理エンティティが持つ性質と同系統のものだった。観測できなくとも、まったくの謎ではなかったのだ。それらの粒子は不可解なデータを説明するためだけに持ち出された、注目すべきパワーではなかった。むしろ、科学者たちは、問われているデータを説明するために、それらの粒子の性質を正確に推論可能だった。そして、これらの推論は以降の実験の根拠となった。
この論理のさらなる例として、1846年の海王星の発見を考えてみよう。その存在はもともと、天王星の軌道のアノマリーから推論されていた。天文学者たちはそのアノマリーを未知の惑星の重力によって説明できると仮定した。しかし、それで終わりではなかった。彼らは未知の惑星の近似的な大きさと位置を演繹し、この演繹を天体観測のための根拠として使った。もちろん、後に成功で報われた。
そのような例がデザイン仮説では見られない。仮説されるエンティティは我々が経験するようなものとは全く違っていることは見てきたとおりだ。インテリジェントデザインのデザイナーは既知のいかなるインテリジェンスの能力をも遥かに凌駕する能力を持っているので、既知のインテリジェントエージェントからの外挿ではありえない。
創造物だと主張されているものを調べることで、デザイナーの性質についての推論を描けると考え、有用な仮説となるものを提示することを期待しても、デザイン支持者は強固にこれを拒否する。通常、デザイン支持者たちアh、デザインの基礎から、デザイナーの動機や能力を推論できないと主張する。
では、我々に何が残されるのか? 生物におけるデザインを推論するデザイン支持者が使った論理は、我々が知っているものとして宇宙にある事物にのみ適用されると論じられるかもしれない。もし、デザイナーが宇宙の外側にとどまるなら(最初に宇宙を創造したエンティティなので、宇宙の外側にいないと創造できないが)、地球に限定された論理をデザイナーに適用できない。
Harper's Magazineの2006年11月号で、Marilynne Robinsonが、このラインの攻撃を試みた。彼女は、英国の生物学者Richard Dawkinsバージョンの"who-designed-the-designer"(誰がデザイナーをデザインしたか)問題に対抗している:That God exists outside time as its creator is an ancient given of theology. The faithful are accustomed to expressions like “from everlasting to everlasting” in reference to God, language that the positivists would surely have considered nonsense but that does indeed express the intuition that time is an aspect of the created order. Again, I do not wish to abuse either theology or scientific theory by implying that either can be used as evidence in support of the other; I mean only that the big bang in fact provides a metaphor that might help Dawkins understand why his grand assault on the “God Hypothesis” has failed to impress the theists.もちろん、このルートでデザインを科学的仮説とできる望みはない。推論の原理や、デザイナー以外のものに適用できる論理にデザイナー自体は関わらないと言うことは、デザイナーが科学研究の外側にとどまるというに等しい。多くの宗教信者はこの主張を問題にしないが、インテリジェントデザイン支持者にとっては致命的だ。しかし、さらに指摘するなら、Marilynne Robinsonの示唆をナンセンスと見なすような論理的実証主義者になる必要はないということだ。
神が時間の外側にその創造者として存在することは、古代の既知の神学である。忠実な支持者は、神について、実証主義者がきっとナンセンスと考えただろうが、本当に時間がつくられた命令の面である直観力を表す「永遠から永遠まで」のような表現に慣れている。私は神学を科学理論の証拠に使ったり、科学理論を神学の証拠に使ったりすようような、悪用はしたくない。私は、ただビッグバンが、"神仮説"に対するDawkinの壮大な攻撃が有神論者に感銘を与えないかを理解するのに手助けとなるメタファーを提供すると言っているだけである。
宇宙の起源を説明する際に、常在するものがなければならないということは避けて通れない。ビッグバン理路は、現在の形の我々の宇宙が 何かはっきりしなものだったかもしれないという概念を打ち砕く。にもかかわらず、我々は量子論的ゆらぎのようなものが宇宙にあったと考え、基礎物理法則が永遠だと考えることができる。好奇心のある人々は、これらの法則や量子現象がどこから来たか問うかもしれない。しかし、我々は少なくとも、宇宙について我々が知っていることと矛盾しないと思える最も単純な停止点で、立ち止まる。宇宙の存在の大きな謎は、宇宙自体よりもずっと単純な何かの起源の小さな謎に帰着する。これは進歩である。
これと対照的に、我々自身よりも奇怪で不可解な存在が、少なくとも理解できない力のひとつのエンティティに集められ、それが常在するものと論じる仮説は、合理的ではない。デザイナーを我々の宇宙の通常の論理的かつ物理的制約の外側に置くことは、何の解決にもならない。デザイナーが存在して、我々の宇宙に影響を及ぼせるなら、デザイナーがどこから来たかを問うのは合理的だ。そして、デザイナーの説明が不要だと言うなら、そもそも宇宙についての説明が必要だということも不合理だ。
これは、科学における説明原理として非常に強力なデザイナーの活動を使うことによって起きる問題だ。それによって、これまで謎だったものが明解になるわけではない。自然に何も制御可能にも予測可能にもならない。"who-designed-the-designer"(誰がデザイナーをデザインしたか)問題は、それほど宇宙におけるインテリジェントデザイナーの論理的可能性への攻撃にはならない。ただし、インテリジェントデザイン支持者には問題になるが。むしろ、それは考えの空虚さを指摘する。それは何も説明しないし、成果の出る研究ラインにも至らない。宇宙の存在と言うひとつの問題は解決しても、宇宙よりも複雑な何かの存在というもっと巨大な問題を創りだしてしまう。
それでもなお、自然の特定の観測結果が我々にそのような結論を強いると考えてみよう。つまり、我々の経験する現実を超越した何かが存在することを強く示唆していて、それがどこから来たかについて当惑するにもかかわらず、その結論を受け入れるだろう観測事実があったとしよう。それでも、このような跳躍をする前に、我々は現象がよりありふれたアプローチによって本当に不可解であるかどうか確認した方がいい。デザインを持ち出すことは問題の解決にならない。それは問題が解決できないことについての譲歩にすぎない。
なぜ、これがデザイン支持者にとって明らかでないか疑問に思うかもしれない。結局は、科学的説明は典型的には、複雑から単純へ進む。これは実用的な理由によるものだ。単純な説明は複雑な説明よりも有用である。複雑な現象を、より複雑なものの結果として説明しても、予測可能にも、制御可能にもならないからだ。それでも、デザイン支持者は、科学者に正確にその方法(複雑な現象、より複雑なものの結果として説明する)を続けるように訴える。
理由を指摘するのはむつかしくない。支持者の反論にもかかわらず、インテリジェントデザインは本当に科学研究ではまったくない。実際の彼らのゴールは、神が存在するという結論を科学に裏付けさせると主張することだ。理解しがたいデザイナーの活動を仮定することは、自然の謎を研究する終着点であって、出発点ではないことを、彼らは完全に理解している。これは彼らにとっては受け入れうるものだ。というのは、彼らのゴールが、研究活動をしている科学者の毎日の懸念についてよりも、文化的力と権威について多くのものを得ることだからだ。
"who-designed-the-designer"(誰がデザイナーをデザインしたか)問題によってインテリジェントデザインが直面する困難は本当のものだ。もし、自然の性質があまりも複雑で、デザインに起因しているはずだと論じるなら、デザイナーのデザイナーという無限回帰に陥るか、デザイナーがとても奇怪な特徴を持つと結論するしかない。既知の宇宙の法則に基づく研究の対象外にデザイナーを置くなら、デザインは科学の対象ではないと結論し、説明価値がないという他なくなる。
それにもかかわらず、おそらく、いつの日にか我々は、この結論に追いやられるだろう。そして我々は既存の性質よりも不可解な謎を受け入れなければならなくなるだろう。しかし、インテリジェントデザインの断定にもかかわらず、その日はまだ来ていない。