フロントローディングなら有神論的進化論と違わないし、科学の範疇としてはオッカムの剃刀の原則によりデザイナーの出番はなくなる。一方、介入であるなら、自然法則では説明できない奇跡である。すなわち、"God of the gaps"論として科学の隙間に神を見出す形となる。大きな違いだ(もっとも、インテリジェントデザイン理論家Dr. William A. Dembski自身もはっきりしないのだけどね)。
ということで、"奇跡"についての渡辺久義先生の記述を見てみよう。まずは、ファインチューニング系から:
因みに「火それ自体が驚くべき現象である」だけでない。酸素そのものが極めて危険なものであるのに、我々がそれのおかげで生きているということが奇跡的なのだという。
http://www.dcsociety.org/id/ningen_genri/014.html [2004/02]
で、ファインチューニングで押し通すかと思えば、介入なのかフロントローディングなのかよくわからない記述:
しかしその素材は、たまたまそこにあったというものではない。素材自体がデザインされたものである。宇宙はその素材を作るのに何十億年をかけて、まず素粒子そして水素から始め、炭素、窒素、酸素へと次第に重い元素を、爆発を繰り返す星々の内部で作り出し、それらを使って最後には、我々のような高等生物とそれらが住めるこの奇跡的な惑星を作っていったと考えざるをえないのである。ところが、翌月にはインテリジェントデザイン宇宙版である「Guillermo Gonzalez & Jay W. Richards: "Priviledged Planet"」の引用で、ファインチューニング論にもどる:
http://www.dcsociety.org/id/ningen_genri/019.html [2004/07]
誰もが当たり前のことだと思っている、太陽と月の見かけの大きさがほぼ同じで、日蝕時に(天文学者にとって重要な)コロナが観測できるということも奇跡的なこと、つまり宇宙のどこにもそういう場所は存在しないのだという。また本誌で読者の方が指摘されたことがある(二〇〇三、七月号)、銀河系の中での一見辺鄙と見える我々の位置、これも宇宙観測のためにはここしかないという位置であるという。翌月も:
http://dcsociety.org/id/ningen_genri/020.html [2004/08]
奇跡的な太陽系の配置で、フロントローディングに傾き:
しかも「系」をさらに大きくとって、太陽(系)と我々の銀河系の関係に目を移しても、やはり奇跡的としか言いようのない配置が見えてくるようである。
http://dcsociety.org/id/ningen_genri/021.html [2004/09]
果してぺノックは、「科学はただもっと謙虚な方法論的な意味で自然主義を固守するだけなのだ」と言ったその意味をこう説明している――「すなわち奇跡とか、他の自然の因果律の規則性を破るような超自然的な介入に訴えることを、自らに許さないということである。」インテリジェントデザインは「自然法則からの逸脱という奇跡」ではないと言い出す。
これはインテリジェント・デザインをそういうものと見ているということであり、いわばデザイン論の戯画化である。つまり、この物理的原因だけによって成り立っている自然界に、神が天から「介入」してきて物理法則を破って奇跡を起こさせてまた帰っていく、というふうにデザイン論を解釈しようとしているのである。デザイン論は決してそういうものではない。
http://dcsociety.org/id/ningen_genri/026.html [2005/02]
そして、忘れた頃に再び「Guillermo Gonzalez & Jay W. Richards: "Priviledged Planet"」の引用で:
この本[特権的惑星]は単に、人間が住むのに適したこのような環境(地球)が存在することが奇跡的であることを論証するだけでない。副題に「宇宙での我々の場所がいかに発見のためにデザインされているか」というように、我々の生命を可能にする条件が、同時に宇宙観測を可能にする条件でもあること(本来、この二つは別のものであるにもかかわらず)、そして我々人間が宇宙進化のこの時この場所で、宇宙についての真理を悟るように、観測機器を作るための条件も、我々の頭脳そのものも、精密に合わせられていることを指摘する。そして続けて翌月も:
http://www.dcsociety.org/id/ningen_genri/036.html [2005/12]
宇宙のファイン・チューニングの権威者と目されるヒュー・ロス(Hugh Ross)によれば、「神の奇跡の介入なしに」この地球が生まれる確率は、十の二百八十二乗分の一だと言う。唯物論科学者はこういった事実には目をつぶるか、あくまで偶然だと言い張るか、驚かないための工夫(「多宇宙仮説」など)をいろいろするか、いずれかであろう。「コペルニクス原理」の呪縛がいかに強いかがそこに現れる。Brandon Carterによる観測選択効果としての人間原理と、インテリジェントデザイン理論家たちが使う宗教バージョンの人間原理[named by 三浦俊彦]を、ファインチューニングでは区別できない。いずれも科学の範疇外でもある。また、宗教バージョンの主唱者のひとりらしい、古い地球の創造論サイトReasons to Believeの主宰者Hugh Rossを持ち出しているところもお笑いだが。
http://www.dcsociety.org/id/ningen_genri/037.html [2006/01]
そして、ちょっと別の流れで:
しかし彼[ドーキンス]が宗教というときに見えているものは、奇跡や霊現象といった宗教の表面 だけであって、宗教の本質、ものの本質を見ようとする態度(能力とは言うまい)が不思議なほど彼には欠けている。と言った後で、統一教会信者Jonathan Wellsを引用する:
http://dcsociety.org/id/ningen_genri/041.html [2006/05]
ウエルズの「不適者生存」から引用する――これは、フロントローディングか介入かわからない表現。
その当時(一九五〇年代)それは進化論の劇的な確証であると思われた。生命は「奇跡」などでなく、いかなる外力も神の知性も必要でない。ガスを正しく組み合わせて電気を加えれば、それで生命は発生するのだ。
http://dcsociety.org/id/ningen_genri/044.html [2006/08]
さて、渡辺久義先生はオッカムの剃刀で削り取られてしまうフロントローディングを選ぶのか、それとも"God of the gaps"な介入を選ぶのか?