2006/11/23

魂の存在を信じれば、進化論を否定する?

昨日、Michael ShermerのScientifc American 連載記事(2006/10)「: "Darwin on the Right: Why Christians and conservatives should accept evolution"」を取上げた。この連載記事に対する意見の手紙が、eSkeptic: the email newsletter of the Skeptics SocietyWednesday, November 15th, 2006に掲載された。数ある手紙のうち、Kumicitが面白いと思ったのは、これ:
Michael Shermer fails to mention one major tenet of conservative Christians that cannot be reconciled with evolution: the belief in a soul and the afterlife. In the evolution of humans, where is a Christian to draw the line on which hominid had a soul and which didn’t? Perhaps the soul has evolved along with the body. Such an idea would dovetail nicely with reincarnation but not with the all or nothing, saved and unsaved doctrine of conservative Christians. They have no room for Neanderthal souls that are sent to a Neanderthal heaven and a Neanderthal hell. There is a tiny chance that the conflict between Christianity and evolution may be put to a real-life test. If surviving members of Homo floresiensis are found on an isolated Indonesian island, will evangelical Christians send missionaries to convert them? Or will they dismiss them as soulless beings?

マイケル・シャーマーは、進化論と仲直りできない保守的キリスト教徒の主たる信条に言及しなかった。それは、魂と来世についての信仰である。人類の進化において、キリスト教徒は魂を持つヒト科とそうでないものの境界線をどこに引くのか? おそらく魂は肉体とともに進化しただろう。そのような考えは、輪廻とは適合するが、全か無かの、救われるか否かの保守的キリスト教の教義とは合わない。ネアンデルタール人の天国とネアンデルタール人の地獄への送られたネアンデルタール人の魂を、彼らは容認しない。キリスト教と進化論の対立が現実のテストになる小さい可能性がある。ホモ・フローレシエンシスの生き残り集団がインドネシアの孤立した島で見つかったら、福音主義キリスト教徒は、彼らを回心させるために宣教師を送るだろうか?それとも、魂なきものとして無視するだろうか?

— Robert Urbanek, Vacaville, CA
これは、Richard Dawkinsが展開する"進化論的連続性(Evolutionary Continuum)な論だ:
Science cannot tell you whether abortion is wrong, but it can point out that the (embryological) continuum that seamlessly joins a non-sentient foetus to a sentient adult is analogous to the (evolutionary) continuum that joins humans to other species. If the embryological continuum appears to be more seamless, this is only because the evolutionary continuum is divided by the accident of extinction. Fundamental principles of ethics should not depend on the accidental contingencies of extinction. To repeat, science cannot tell you whether abortion is murder, but it can warn you that you may be inconsistent if you think abortion is murder but killing chimpanzees is not. You cannot have it both way.
[Richard Dawkins: A Devil's Chaplain, (Paperback edition published in 2004 by Phoenix), P.39 (Amazon)]

科学は妊娠中絶が悪いことかどうかを言えないが、意識のない胎児から意識のある大人へとシームレスにつなげる(胚形成の)連続性とのアナロジーで、人類と他の種の(進化論的な)連続性を指摘できる。胚形成の連続性の方がよりシームレスに見えるとしたら、それは進化論的な連続性がたまたま絶滅によって断ち切られているからにすぎない。倫理の基本原則は、たまたまの絶滅によって左右されるべきではない。繰り返すが、科学は妊娠中絶が殺人かどうかを言えないが、君が妊娠中絶を殺人だと考えつつ、チンパンジーを殺すことはそうではないと考えるなら、科学はそれは整合性がないかもしれないと指摘はできる。君は両方の利を得られない。
[リチャード・ドーキンス:悪魔に仕える牧師]


話を元へ戻して、魂の存在、そして魂を神の創造物と信じる者たちは、その一点だけでも、進化論と折り合いがつくことがない。そして、それは、福音主義キリスト教徒はネアンデルタールを人間とはみなさないが、ホモ・フローレシエンシス[wiki,wiki/jpn]をどう見るかという判断をせざるをえなくなったときに、あらわになるだろうと言うRobert Urbanekの指摘。


実際の創造論者たちはどうかというと...

今はインテリジェントデザインな創造論者Casey Luskinは、「Human Origins and Intelligent Design」において、人間とそうでないものの境界線を、Australopithecusと「Homo erectusとHomo NeanderthalensisとHomo Sapiens」の間に引いた。しかし、Casey Luskinが、ネアンデルタール人に魂があったと信じているかどうかは不明。

古い地球の創造論の老舗"Reasons to Believe主宰者Dr. Hugh Rossは:
Genesis states that God created only one species with body, soul, and spirit. Anthropological evidence for spiritual expression dates back only 8,000-24,000 years. (Primates' and other mammals' burial practices serve only as evidence for soul.) The anthropological dates are consistent with the best Biblical dates for Adam and Eve, specifically 6,000-60,000 years ago.

創世記は、肉体と魂と精神を持つ唯一の種を神が創造したと言っている。精神(spirit)的表現の人類学的証拠は8000〜24,000年前に遡る。霊長類や哺乳類の埋葬は魂(soul)の証拠でしかない。人類学的な年代は6000〜60,000年前というアダムとイブの聖書の年代と一致する。

[Hugh Ross: The Creation Date Controversy]
と言っていて、ホモ・サピエンスとネアンデルタール人の間に境界線を引いているように見える。ホモ・サピエンスはspiritとsoulを持つが、ネアンデルタール人はsoulだけだと。

とはいえ、魂の有無と反進化論の関係がこれで示されているわけではない。魂を人間にだけ吹き込んだというカトリックバージョンな有神論的進化論でも、魂の問題は始末がつくからだ。生物学な論を振り回して、人間と類人猿の境界線を引くか、そんなものに無関係に境界線を引くか。それが、創造論と有神論的進化論の違い。魂については特に違いがあるわけではない。

これについて、J.H.ブルックは次のように指摘する:
デカルトは動物を機械そのものとして解釈した。これは論議を招いたが、動物機械論は動物にとっては酷かもしれないが、人間にとっては好ましいものだと、デカルトは反論した。なぜなら、(正しいかどうかは今日でも議論の分かれるところだが)他の被造物全体に対する人間の優秀性(創世記によれば、自然を統治することは人間の特権であり責任である)が強調されたからである。
 人間は他の動物とは違う機械である、としてデカルトはその特権を請け合った。人間だけが不死の魂を授かっているからだ、と。デカルトが機械論哲学に利点をみたのは、物質界と精神界の違いを際立たせるからである。人間の心に存在する合理性こそ精神界の証拠があるが、それは人間にしかない世界とされた。デカルトは、唯一神の姿に似せて創造された人間の独自性を機械論哲学によって擁護しただけではなく、積極的に強調したのである。(J.H.ブルック「科学と宗教」p.143)
...
この動物機械説は重大なことを招きかねないと批判したものもいる。「獣の中にある植物的で感じやすい魂を機械とみる人は、理知的な魂の作用も同様の原因によるものであるとし、我々の霊魂を有形の霊魂に置き換える無神論者に他ならなくなる。」(p.157)
このデカルトの論と、その批判者の意見を見ると、創造論者たちは、生物学を根拠に魂の有無という教義を裏付けようとしているように見える。

魂の存在を信じるが故に、人間と類人猿の間に超えがたい一線があるのだと主張するのではない。魂の存在を信じたいから、それを科学に裏付けさせたい。というより、科学に裏付けてもらわないと魂の存在を信じられない...というところだろうか。

タグ:id理論
posted by Kumicit at 2006/11/23 00:01 | Comment(0) | TrackBack(0) | Skeptic | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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