始まりはSheldrakeによるささやかな引用
Rupert Sheldrakeは自らが主張する仮説Morphogenetic fieldの証拠となるかもしれない例として、酒石酸エチレンジアミンのエピソードを、1981年の本"A new science of life"で、引用した。もちろん、証実験を行ったわけでもないので、Sheldrakeは論拠だとか証拠だとか言ってはいない:
In fact, chemists who have synthesized entirely new chemicals often have grate difficulty in getting these substances to crystallize for the first time. But as time goes on, these substances tend to crystallize with greater and greater ease.Sheldrakeが引用したのは、1960年に出版されたHolden&Singerによる"Crystals and Crystal Growing"という本である。この本は、結晶の科学を高校生レベルの読者を対象に、実験で学ぶことを目的として書かれている。名著のようで、若き日に読んだときの熱い思いをAmazon.Comで語る人もいるくらい。1942年生まれのSheldrakeも若き日に読んだのだろうか。
This principle is illustrated in the following account, taken from a textbook on crystal, of the spontaneous and unexpected appearance of a new type crystal:
事実、まったく新しく合成された化学物質は、非常に結晶化させにくいということがよくある。しかし初めはむずかしくても、時間がたつにつれてしだいに結晶化させやすくなることが多い。
この原則は、以下の結晶に関する教科書の記述に具体的に示されている。これは、新種の結晶が自発的に、予期せず出現したことについて書かれたくだりである。
'About ten years ago a company was operating a factory which grew large single crystals of ethylene diamine tartrate from solution in water. From this plant it shipped the crystals many miles to another which cut and polished them for industrial use. A year after the factory opened, the crystals in the growing tanks began to grow badly; crystals of something else adhered to them --- something which grew even more rapidly. The affliction soon spread to the other factory: the cut and polished crystals acquired the malady on their surfaces...
The wanted material was anhydrous ethylene diamine tartrate, and the unwanted material turned out to be the monohydrate of that substance. During three years of research and development, and another year of manufacture, no seed of the monohydrate had formed. After that they seemed to be everywhere.' (A. Holden and P. Singer)
「十年ほど前のこと、ある会社の工場で水溶液からエチレンジアミン酒石酸塩の大きな単結晶をつくっていた。できた結晶は、ここから何マイルも離れた別の工場へ運ばれ、切断し磨かれて産業用に販売されていた。この工場が開設して一年後、タンクの中で、結晶が異常な成長をしはじめた。何か別の結晶が付着し、それが急速に成長していたのだ。この災いはやがてもう一方の工場にも伝播し、切断して磨かれた結晶の表面にも<病気>が現れた...。
必要な物質は無水のエチレンジアミン酒石酸塩だったのに対し、できてしまったのはその物質の一水化合物だったのである。三年間の研究開発期間、およびその後一年間の生産期間には、一水化合物の種子は一度たりとも形成されなかった。ところがこの事件以後、それはいたるところに現れたのである」(A. ホールデン、P. シンガー)
These authors suugest that on other planets, type of crystal which are common on earth may not yet have appeared, and add: 'Perhaps in out own world many other possible solid species are still unknown, not because their ingredients are lacking, but simply because suitable seeds have not yet put in an appearance.'
著者はさらに、地球上ではありふれた結晶でも、他の惑星ではまだ出現していないものがあるかもしれないと示唆し、こうつけ加えている。「われわれの住む世界には、まだ知られていない固体の種が数多くあるのかもしれない。その成分が存在しないのではない。たんにまだ適切な種子が出現していないために、それらの物質はこの世に姿を現わしていないのだ。」
Rupert Sheldrake: A new science of life, 1987(Amazon) [1985年 Anthony Blond版と同一, 初版は1981年のBlond and Briggs版], p.108
日本語訳: [幾島幸子・竹居光太郎 訳: "生命のニューサイエンス", 1986 (Amazon), pp]
さて、この"Crystals and Crystal Growing"のSheldrakeによる引用部分の前後を含めた部分は次のようなもの:
About ten years ago a company was operating a factory which grew large single crystals of ethylene diamine tartrate from solution in water. From this plant it shipped the crystals many miles to another which cut and polished them for industrial use. A year after the factory opened, the crystals in the growing tanks began to grow badly; crystals of something else adhered to them as shown in plate 11 -- something which grew even more rapidly. The affliction soon spread to the other factory: the cut and polished crystals acquired the malady on their surfaces.これは、Holden&Singerが、結晶種を使った析出の解説のついでに、誰も知らない結晶があるという話をしている部分である。
10年ばかり前、ある会社が、酒石酸エチレンジアミンの大きな単結晶を水溶液から成長させる工場を持っていた。この工場からその結晶を出荷し、だいぶ離れた別の所で工業的用途に向けるため切って磨く作業をしていた。工場が動き始めてから一年たつと、タンクの中で成長する結晶の品質が悪くなった。口絵写真1に示すように他の結晶がその表面に付着するし、しかもそれはより速やかに成長するものであった。この悩みは他の工場でも起こった。切って磨いた結晶の表面にもこの種の結晶が発生した。
Enough of the unwanted material was collected to make a superaturated solution of it. Since crystals of both materials--- the unwanted and the wanted---would grow in that solution, the unwanted substance must contain the desired substance. And since crystals of both would grow in a pure solution made from the desired crystals, the unwanted crystals could not be the result of an unwanted impurity which had crept into the solution during the manufacturing process.
そこで不必要な方の結晶の成分を多量に集めてその過飽和溶液をつくった、無用物質および有用物質の両方の結晶がその溶液中で成長するのだから、その無用物質も有用物質を含んでいるはずである。そして、両方の結晶は有用物質の結晶でつくった純粋溶液中で成長するので、無用物質の結晶は製造過程中溶液に入った不純物によるものではあり得ない。
The wanted material was anhydrous ethilene diamine tartrate, and the unwanted material turned out to be the monohydrate of that substance. During three years of research and development, and another year of manufacture, no seed of the monohydrate had formed. After that they seemed to be everywhere. You can imagine, if you like, that in some other world nickel sulfate hexahydrate is well known, and the heptahydrate has not yet appeared. Perhaps in our own world many other possible solid species are stil unknown, not because their ingredients are lacking, but simply because suitable seeds have not put in an appearance.
そこで有用物質は無水の酒石酸エチレンジアミンであり、無用物質はその一水和物であることがわかった。三年間の研究と工業化および数年間の製造の間一水和物の種は生成したことがなかった。その後それらはどんなところにもあるように思われた。もし、お望みならば、ある別の世界で硝酸ニッケル六水和物はよく知られているが、七水和物はまだ知られていない場合を想像すればよい。恐らく、われわれ自身の世界でもまだ知られていない固体があり、それらはその成分が存在しないためではなく、適当な種が見いだされないだけの理由のものもあるだろう。
英文: [Alan Holden and Phyllis Singer: "Crystals and Crystal Growing (Sci. Study S)", Heinemann Educ. 1961 (Amazon)]
http://www.ic.unicamp.br/~stolfi/PUB/misc/misc/CrystalSeed.txt
日本語訳:[崎川範行 訳: "結晶の科学―物性の神秘をさぐる",河出書房新社, 1977 (Amazon) 第2章「溶液」-- 飽和とか飽和 pp.82-83]
(日本語訳には同じ崎川範行氏による1968年版(Amazon,河出書房)も存在するが、同一である。)
これを引用したSheldrakeの主張というより示唆は、「結晶種ではなく、Morphogenetic fieldのせいかもしれない」というもの。
ただ、酒石酸エチレンジアミンにこだわりはないようで、その後、Sheldrakeは酒石酸エチレンジアミンに触れた例は見当たらない。
なお、翻訳版「生命のニューサイエンス」の「結晶の科学」引用部分は、崎川範行氏による訳文ではなく、幾島幸子・竹居光太郎が独自に訳したものである("malady"を<病気>と訳すなど)。特に、次の一文は、印象を強めにしている。
英文: After that they seemed to be everywhere.
崎川: その後それらはどんなところにもあるように思われた。
幾島/竹居: それはいたるところに現れたのである。
SheldrakeとLyall Watsonの結合
Lyall Watsonの捏造である"百匹目の猿"および"グリセリンの結晶化"を、SheldrakeのMorphogenetic fieldに結びつけたのが、1996年の喰代栄一氏による「なぜそれは起こるのか」という本である。ここでは、"グリセリンの結晶化"と"酒石酸エチレンジアミン"のエピソードが連続して紹介されている:
また、こんな例もある。1950年代のこと、ある民間会社の工場で産業用にエチレンジアミン酒石酸塩という化学物質の大きな結晶を水溶液から成長させてつくり、それを別の場所で切って磨く作業をしていた。ところがこの工場開設一年後に、結晶をつくるタンクの中で異変が生じた。できる結晶の品質が悪くなったのである。表面には他の結晶が付着し、しかもその結晶は成長速度が速かった。また、切って磨いた結晶の表面にも同じような結晶が発生したのだ。そしてその現象は他の工場にも現れ、やがていたるところに現れたのである。酒石酸エチレンジアミンについての記述は、幾島/竹居による「生命のニューサイエンス」の訳文どおりに「やがていたるところに現れたのである」が使われている。喰代氏は「なぜそれは起こるのか」の参考文献に、英語版"A new science of life"も挙げているが、実際には訳本を見て書いたということだろう。
初めは何か他の物質が結晶に付着していたのだと思われた。しかし詳細に分析してみると、その結晶はエチレンジアミン酒石酸に水の分子が一つくっついた形の化合物だったのだ。今までつくって販売していたのは純粋にエチレンジアミン酒石酸塩の結晶だったが、突然、エチレンジアミン酒石酸の分子の中に水の分子が一つ入った形の結晶ができはじめたのである。この会社は工場開設前に数年間の研究と試験的製造を行ってきたが、その間一度たりともそんな結晶はできなかった。しかし操業開始一年後のある日を境に、それはできはじめたのである。
...
これから本書で紹介する「シェルドレイクの仮説」は、この現象をうまく説明することができる。つまりひとたびある物質の結晶が、ある形をもってこの世に出現すると、それを形成した一種の「場」が同じ物質に影響を与え、同じ形の結晶を作らせると...。
[喰代 栄一: "なぜそれは起こるのか", 1996 (Amazon)] pp.21-23
そして、おそらくこの本によって、日本国内ではSheldrakeとグリセリンが結合することになったお思われる。ただし、Lyall Watsonの捏造である"百匹目の猿"および"グリセリンの結晶化"を、SheldrakeのMorphogenetic fieldに結びつけたのは喰代氏の独創ではない。たとえば喰代氏の本が出版される4年前に...
==>1992/08/30 ウィルスレベルでの形態共鳴仮説 by アクエラ
喰代氏の「なぜそれは起こるのか」の後、グリセリンの結晶化とSheldrakeが結合するとともに、酒石酸エチレンジアミンはSheldrakeとともに語られることは逆に少なくなったようだ。googleでさがしても、「なぜそれは起こるのか」と同様の記述はあまり見つからない:
- 2004/02/28 鉱物たちの庭:"結晶する不思議" by 佐藤@有機化学美術館
たとえば、酒石酸エチレンジアミンは、硬水の中の金属イオンのように望ましくない鉱物を探し出し、閉じ込めてしまう便利な性質をもった化学物質として、30年余り前(注:1985年時点で)に初めて生成された。これをつくった会社は、ついにはそれを固体として採り出す方法を発見し、しばらくのあいだ、大きくて完全な結晶を売って繁盛した。...
[ワトソン・シェルドレイク・グリセリン・酒石酸・猿] - 過飽和のことならまずこのページをご覧下さい。(キャッシュ)
ひま話:"結晶する不思議"の引用
プリオンとともに再登場する酒石酸エチレンジアミン
あまり関心を持たれなかった、酒石酸エチレンジアミンのエピソードが再登場したのは、
1997年のRichard Rhodesの本「死の病原体プリオン」である:
Gajdusek cites the strange case of an industrial "infection" that occurred during the Second World War. Ethylen diamine tartrate (EDT) is a compound widely used as a purifying agent in industrial processes. A plant that was making EDT became infected with a nucleating agent that caused its EDT to precipitate in an abnormal crystalline state. The "infected" form of EDT didn't work. It was junk. "This infection crippled the industry", Gajdusek writes, "and could not be cured."特に出典は示されず、ノーベル賞受賞な1923年生まれのDr.Carleton Gajdusekがどこかで書いたものとして紹介されている(日本語訳だと、おしゃべりとして紹介されているが)。
とても面白い実例がある、とガイデシュックは、第二次世界大戦中にある工場で起こった珍しい感染現象の例の話をしてくれた。酒石酸エチレンジアミン(EDT)は工場で清浄剤として広く使われている薬剤である。このEDTを製造していた工場で成核剤が汚染され、異常な結晶形を持ったEDTが析出しはじめた。 この異常型EDTには清浄効果がなく、捨てるしかなかった。「これが産業界全体に感染して、どれも使えなくなった。そのうえ正常なEDTがどうしても作れなくなったんだよ。」
[Richard Rhodes: "Deadly Feasts: The "Prion" Controversy and the Public's Health", 1997/03 (Amazon)] p.196
[リチャード ローズ: 死の病原体プリオン, p.217, 1998/07(Amazon)]
印象的な記述だったようで、プリオンに絡んで、1997年に同様の話を書いている例がみられる:
Carleton Gajdusek, the Nobel Prize winner and originator of the "crystallisation" theory, pointed out an analogy with the strange history of a chemical called ethylene diamine tartrate (EDT). Before the second world war, EDT was widely used as an industrial purifying agent. One day, a factory that was producing it became "infected" with a nucleator that made all the EDT form abnormally. Suddenly, the molecules all adopted a useless configuration. It is now impossible to manufacture the original kind on an industrial scale, because it always gets contaminated. This is an uncomfortable analogy to ponder.
[Paul Pearson:MAD DINOSAUR DISEASE, PALAEONTOLOGY NEWSLETTER, No. 36, pp.6-7, 1997.]
国内だとgoogleでひっかかるのは:
http://piza.2ch.net/log/sci/kako/943/943604246.html
グリセリンの結晶化
3 名前: JN 投稿日: 1999/11/26(金) 23:31
酒石酸エチレンジアミンの結晶も同じような事が起きたらしい。
10 名前: JN 投稿日: 1999/11/28(日) 17:05
工場の清浄剤として使われていた酒石酸エチレンジアミンは、第一次世界大戦当時まで、...
15 名前: JN 投稿日: 1999/11/29(月) 02:21
なお、酒石酸エチレンジアミン云々の話は「死の病原体 プリオン」からそのまんまです。
21 名前: JN 投稿日: 1999/11/29(月) 19:48
リチャード・ローズ著 「死の病原体 プリオン」草思社
217ページより ...
明示的にRichard Rhodesの引用として酒石酸エチレンジアミンが語られる。
その後は、明示的な例は見られなくなり、うろ覚えなのが少し:
- 2003/07/29 water:days: "酒石酸エチレンジアミンの結晶型" by ryo
酒石酸エチレンジアミン(EDT)の結晶型が、第二次大戦中にある工場の成核剤が偶然からか異常型の結晶に汚染され、世界中の結晶型がすべて異常型に変化してしまった件...
この事件以降、正しい結晶型の EDT は2度と作ることができなくなったという話。
追記:どうやら、昔聞いたのはグリセリンの結晶化の話だったようだ。こっちはかなり有名だしね。 - 2004/09/22 〜 2006/05/19 2004年度 レポート第9回 回答集by 荒木正健 (レポート期日から最終更新までのどこか)
一昔前に、酒石酸を結晶化させる研究で、どうしても異性体の酒石酸を結晶化できないという問題がありました。ですがある学者が偶然結晶化した異性体の酒石酸を発見し、それを同酒石酸の液体に加えたところそこでも結晶化が始まったというのです。プリオンの話は、それと似すぎているように思えてなりません。
...
酒石酸エチレンジアミン(EDT)の結晶型が、第二次大戦中にある工場の成核剤が偶然からか異常型の結晶に汚染され、世界中の結晶型がすべて異常型に変化してしまった、という事件が実際にあったようです。結晶化のために成核剤というものをすでに用いていたようですね。
Richard RhodesとSheldrakeの結合したリナージュ
きっちりSheldrakeのMorphogenetic fieldと、プリオンがらみの酒石酸エチレンジアミンなエピソードがつながったのは2002年と思われる:
- 2002/01/07 プリオシン海岸: 結晶グリセリンの宣教 (作成は1999/01/07だが酒石酸登場は2002/01/07)
次は第二時世界大戦中の話です。ある工場でエチレンジアミン酒石酸という物質の結晶に異常が起きました。正常型の結晶ができず異常型の結晶ができたのです。そして、やはり先の話と同じようにどこの工場でも異常型の結晶が出現するようになったのです。ここにはなんらかの共鳴現象が見られます。
[シェルドレイク・グリセリン・酒石酸・猿] - 2005/12/19 木のひげ日記・・・私的メモ: "形態形成場理論:リンク" by sadomago
プリオシン海岸へのリンク - 2006/01/19 三日坊主所感: BSEと人食 〜お肉すきすき! by muuuuwa
プリオシン海岸へのリンク - 2006/06/27 カッティングシートで創るブランディング: "流行現象は百匹目の猿" by MARKSHOP
明記されていないが、プリオシン海岸の同一内容なので、おそらく引用
googleでひっかかったのは、プリオシン海岸をソースとするささやかなリナージュ。
本来は、Holden&Singerの本を引用する形でSheldrake自身が触れた酒石酸エチレインアジミンは、いったんSheldrakeから切り離された。そしてここで、Richard Rhodesを発信源とするプリオンがらみの酒石酸エチレンアジミンとして、Sheldrakeに結合している。
ただ、これ以上の酒石酸エチレンジアミンとSheldrakeネタの広がりは見られない。
グリセリンの結晶化と酒石酸エチレンジアミンは同じポジション(SheldrakeのMorphogenetic fieldの論拠として主張される)にあるため、生存競争となり、あっさりグリセンリンの結晶化が勝利してしまったというところだろうか。
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