日本でも1960年代なかばまで、ルイセンコを持ち上げた生物学者たち(八杉竜一とか徳田御稔とか)がいたらしい。
1967年に出版された「日本のルィセンコ論争」(みすず書房)[Amazon]という本がある。著者の中村禎里氏は1932年生まれで東京都立大学理学部卒で、生物学史が専門で、立正大学教養部および仏教学部教授をしていた。本の前書きなどからすると、少なくとも執筆時点の中村禎里氏自身の立ち位置もLeftistとみてよい。
中村禎里[1967]によれば、日本におけるルィセンコ派の八杉竜一[ie.近代進化思想史;1950]は次のような主張をしていたという:
八杉は、多くの生物学者について、研究に世界観と方法が大きな影響をおよぼすことを説明しており、現在の遺伝学者の大多数が、突然変異だけで進化が説明されるという見解を固執していることもそのことに関係しているであろう、といっている。とくに八杉が、メンデル・モルガン派のあやまりの方法論的な基礎として、機械論を摘発してきたいきさつからいって、かれが機械論をどのように評価しているかを一べつする必要があろう。機械論でない生物学があるとしたら、それは呪術か宗教だろうと言いたくもなるところ。
かれは、機械論的生命観と機械論的方法を区別しなければならないと指摘しながらも、生物学者が機械論的方法を用いるとつぎの傾向をみちびきやすい、と警告する。すなわち、(1) 生命現象に物理学および化学の法則が単純にあてはめられて、現象の理解が一面的になる。物理学および化学の方法を適用できる方向にのみ研究が進められる。(3) 物理学および化学の特に最近の達成による方法を適用することが、生物学の近代化の唯一の道であると考えられ、それ以外の方法の価値にたいする認識がおろそかになる。(4) 現象の孤立した理解ならびに生物学各分科の無関連の発達にみちびく。[中村禎里: 日本のルィセンコ論争,p.123]
さらに、八杉竜一は突然変異による進化を攻撃する[ie. 進化と創造;1949]
進化要因論としての突然変異説批判を、次のように個条かきにしてまとめている。(1) 遺伝子突然変異は生活にとって重要な性質に関係していない。(2) 突然変異は一般に生活力を低下させるから、生物にとって不利である。(3) 人為的に突然変異をひきおこす手段は、生物の正常生活と無関係である。(4) 突然変異には方向性がない。(5) 進化の主要因となるには頻度が低い。[p.124-125]同じく、ルィセンコ派の徳田御稔も1950年に「進化過程における真の質的発展の段階の理解のためには、どうしても弁証法による思弁が必要になってくる。弁証法的な思弁を拒否すれば機械論におちいり、進化を遺伝子突然変異の累積によって説明せざるをえなくなる」(p.125)と主張している。
何やら、おなじみ創造論者の主張で見たようなものが並んでいる:
CB100:mutations are rare (Henry Morris: "Scientific Creationism", 1985, p.55)
CB101:mutations is harmful (Henry Morris: "Scientific Creationism", 1985, p.55-57)
CB101.1:Mutations are accidents, and things do not get built by accident(Henry Morris: "Scientific Creationism", 1985, p.55)
さて、それから半世紀近い時が流れ、とっくに生物学からルイセンコな説は消え去り、生物学史に名をとどめるのみ。しかし、生物学の外側には残っていたりする。
インテリジェントデザイン運動などと同じく「Random Mutation + Natural Seleciton」を嫌っているLeftistたちが今もいる。もちろんインテリジェントデザイン運動と同じく、基本的に生物学者ではない。
適当にネットを彷徨って見つけたIn Defence of Marxismには、「進化が進歩ではないというGouldの考えは間違いだ」と主張するドキュメントがあった:
The fundamental thrust of Gould’s argument is undoubtedly correct. What is more problematical is his idea that evolution does not travel an inherently progressive path:Gouldの著作の中では特にクセのない記述に対して、「As evolution has sped up, it has become more and more specific, and the earth has been transformed by the social evolution of a single species, our own.」というEric Lernerの主張を以って対抗している。「高みを目指す進化」でなければ嫌なようだ。
Gouldの議論の基本的な趣旨は、疑う余地なく正しい。問題なのは進化が本質的に進歩的な経路を進むものではないというGouldの考えである:
"Increasing diversity and multiple transitions seem to reflect a determined and inexorable progression toward higher things," states Gould. "But the palaeontological record supports no such interpretation. There has been no steady progress in the higher development of organic design. For the first two thirds to five-sixths of life’s history, monerans alone inhabited the earth, and we detect no steady progress from ‘lower’ to ‘higher’ prokaryotes. Likewise, there has been no addition of basic designs since the Cambrian explosion filled our biosphere (although we can argue for limited improvement within a few designs—vertebrates and vascular plants, for example)." [Gould, Ever Since Darwin, p. 118.]
「多様性の増加と複数の遷移は、高次な存在への断固として容赦なき発展を反映しているように見える。しかし、古生物学記録はそのような解釈を支持しない。生物デザインの高次の発展段階への確固たる進歩はなかった。生命の歴史の最初の2/3〜5/6は地球上にはモネラだけが生息していた。そこには低次から高次の原核生物への確固たる発展など見つけられない。同様に、カンブリア爆発が我々の生物圏を満たしたときから、基本的なデザインの追加はない。」
Gould argues, particularly in his book, Wonderful Life, that the number of animal phyla (basic body plans) was greater soon after the "Cambrian explosion" than today. He says diversity has not increased and there are no long-term trends in evolution, and the evolution of intelligent life is accidental.
Gouldは特に彼の本「ワンダフルライフ」において、動物の門(基本的なボディプラン)の数がカンブリア爆発直後の方が現在よりも多かったと論じる。Gouldは多様性は増加せず、進化に長期トレンドはなく、知的生命への進化は偶然だと言う。
Here it seems to us that Eric Lerner’s criticisms of Gould are correct:
しかし、我々にはEric LernerによるGouldへの批判が正しいと思われる:
"Not only is there a huge difference between the contingencies that lead to the evolution of a particular species and a long-term trend in evolution, such as towards greater adaptability or intelligence, but Gould rests his case on facts that are an example of just such a trend!" says Lerner. "Over time, evolution has tended to concentrate more and more on specific modes of development. Nearly all chemical elements were in existence ten billion years ago or more. The types of compounds vital to life—DNA, RNA, proteins, and so on—were all present on earth some four billion years ago. The main kingdoms of life—animals, plants, fungi, and bacteria—have existed for two billion years; there have been no new ones in that time. As Gould shows, the main phyla have existed for six hundred million years, and the major orders (a lower grouping) for about four hundred million years.
「特定の種の進化を導いた偶然と、より優れた適応性や知性に向かうような、進化における長期トレンドには非常に大きな違いがある。しかし、Gouldはそのようなトレンド例に過ぎないという事実だと言う。時間とともに、進化は特定モードの発展へ集中してきた。ほとんどの化学元素は100億年以上前に出現した。生命やDNAやRNAやタンパク質などに必要不可欠な化合物の種類が地球上に出現したのは40億年前である。主要な生物界である動物や植物や菌類や細菌は20億年前から存在している。それ以来、新たなものは出現していない。Gouldが示したように、主要な生物門は6億年前に出現し、主要な目は4億年前から存在してる。」
"As evolution has sped up, it has become more and more specific, and the earth has been transformed by the social evolution of a single species, our own. This is exactly the sort of long-term trend that Gould, despite his great contribution to evolutionary theory, is ideologically determined to ignore. Yet it exists, as does the trend towards intelligence."
「進化が加速し、より指向性を増し、地球は唯ひとつの種すなわち我々の社会進化へと転換された。これは、Gouldが進化論に大いに貢献したにもかかわらず、イデオロギー的に無視したものである。インテリジェンスに向かうトレンドはまさしく存在する。」
The fact that evolution has resulted in greater complexity, from lower organisms to higher ones, leading to human beings with large brains capable of the most complex tasks, is proof of its progressive character.
大いなる複雑さを生み出し、低次の生命から高次の生命を生み出し、複雑な作業が出来る能力を持つ大きな脳を有する人間へとつながった進化という事実は、その進歩的性質の証明である。
[Alan Woods and Ted Grant: Reason in Revolt: Marxism and Modern Science]
立命館大学の須藤泰秀教授はエンゲルスの「サルが人間になるにあたっての労働の役割」の解説において:
手が自由になり,今や新しい技能を次々獲得することができるようになっていた。そしてこの技能とともに26)獲得された,以前にも勝る柔軟性を後の世代に継承させ27),世代から世代へ強化させていったのであると、すなおに獲得形質の遺伝への憧憬を語っている。
27) vererben は伊藤嘉昭氏の訳語〔伊藤嘉昭『サルが人間になるにあたっての労働の役割』,(青木書店,1967 年),60 ページ〕にならって訳した。現代遺伝学で,獲得形質が遺伝することはないと結論づけられてから久しいからである。だが種レベルで,何百万年も費やしたヒトへの進化に関して,遺伝子のランダムな突然変異と自然選択だけで全てが説明し尽くされるかは疑問。相互作用に基づくのが世の常なれば,行動変化が蛋白性機能分子群に影響を与え,ひいては遺伝子を変異させる逆の可能性もあると思えるのだが……。
[須藤泰秀: 「サルのヒト化における労働の関与」を読む(上), 立命館産業社会論集, 37-1, 107, 2001]
かなりの左と思われる「マルクス主義同志会」のページには:
しかし例えば、人間は果たして、人間の前の“種”の中から生じた、突然変異的な存在(これは、論理必然的に“個”としての存在である)から発展してきたものであろうか、そんな風に人間の発端と進化の歴史を理解することができるであろうか。何らかの猿(類人猿)から、人間への進化は果たして“偶然”の結果であろうか。我々は類人猿の中にたまたま生じた、たった一人のある“ミュータント”の子孫、その意味で偶然の産物であろうか。個体レベルの突然変異を嫌い、今西進化論のようなものへの憧憬を語っている。
...
人類の発端にしても、偶然に生じた類人猿の中の、“突然異変”的な個体から発展してきたというより、ある類人猿の少なくとも一群が、特別の条件と環境の下で進化して人類の祖先となっていったと理解する方が、はるかに理にかなっているように思われる。“個人主義的”発想法はここでも有害ではないだろうか。
[マルクス主義同志会:マルクス主義入門: 自然科学と階級的立場]
Marxismの製造元であるEngelsも自然選択が嫌いだったようだ:
私はダーウィンの学説について進化説は受け容れますが、ダーウィンの証明方法(生活のための闘争、自然淘汰)はただ、新しく発見された一つの事実の、はじめての、暫定的な、不完全な、表現としてそれを容認するだけのことでしかありません。ダーウィンのときまでは、今日では至るところにただ生存のための闘争だけしか見ないその御当人たち(フォークト、ビュヒナー、モレスコット、その他)が有機的な自然のまさに協同作用を、例えば植物界は動物界に酸素と食物を供給し、逆に動物界は植物どもに炭酸と肥料とを供給するというような、とりわけリービッヒによって重視されていたこのようなものを、強調したのでした。双方の見解とも或る限界の内部でそれぞれなんらかの正当さを持っていますが、いずれの一方も他方と同じく一面的で偏狭です。自然諸物体は--無生のものも生あるものも--の交互作用は調和と同じく衝突を、闘争と同じく協同作用を、ともに含んでおります。ですから、一人の自然研究者と自任する者が歴史的発展の多様な冨の全体を「生存のための闘争」という一面的な痩せたきまり文句のもとに、自然の領域においてさえもまともに文字通りには受け取れれえてはいないのこの文句のもとに、包摂させることをあえてするならば、このやり方は全く自分自身を罪に落とすものです。
[エンゲルス: 自然の弁証法(下), 岩波文庫 pp.318-319]
現在は、全国労働組合総連合系組織の出版部門である学習の友社から出版されている「鰺坂ほか: 反デューリング論の学習」(2006)は、もともと共産党の下部組織のひとつ日本民主青年同盟から出版されていた。従って、その見解はそこそこ共産党の公式なものと思われる。その本で、自然選択に絡んで:
フランスのモノーらのように分子レベルで変異と淘汰を説明する試みもありますが、この説の最大の難点は変異も淘汰もたんなる偶然でしか説明されないという点であり、これについてさまざまな議論があります。近年話題を呼んでいる「今西進化論」などもこの点を突いたものです。今西氏らはダーウィンの説も20世紀の分子生物学も変異の必然性を説明できず、承認できないといっています。エンゲルスがすでに19世紀にダーウィン説では変異の原因が解明できていないといい、その限界を指摘しつつ、その積極的意義を認めている点は重要だといえましょう。と記述している。注目点は「この説の最大の難点は変異も淘汰もたんなる偶然でしか説明されないという点」と、インテリジェントデザイン理論家たちと同じことを言っていること。そして、大半のインテリジェントデザイン理論家たちと同じく、この本の著者たちもまた生物学について素人であること。たとえば、この今西進化論への憧憬を語った部分を担当した鰺坂真氏は、京大文学部卒で関西大学教授をしていた。
もちろんエンゲルスは進化の問題をすべて細部にわたって解明しつくしたわけではありません。20世紀の生物学もそれの完全な解明はできていないのですから当然のことです。エンゲルスはダーウィン説をラマルク説で補う方向で考えていたと思われるのですが(112〜113)、これも興味あるところです。
[鰺坂ほか: 反デューリング論の学習, p.46]
結局のところ、Jacques Monodの言うとおり、Marxismもまた物活説であるのだろう。Jacques Monodは:
普遍的合目的原理にもとづく一群の考え方があって、それによる。この原理は生物圏の進化ばかりか宇宙の進化を支配しており、生物圏の内部ではたんにより精密かつ強烈な仕方で現れているにすぎないと、考えているのである。これらの理論は生物のなかに、普遍的に方向づけられた進化から生じた、もっとも洗練され、もっとも完璧な産物を見ているのである。そして、その進化の到達点が人間および人類であり、そこまで到達したのはそうなるべき定めにあったからである。これらの見方 -- 私はこれを物活説(アニミスト)と呼ぶことにする -- は多くの点で生気説よりも興味深い。と物活説を定義した上で、それが「スペンサーの実証主義やマルクス及びエンゲルスの弁証法的唯物論の核心にも見出される」(p.37)と主張している。
[Jacques Lucien Monod: "Chance and Necessity", 1970; 渡辺格・村上光彦訳: 偶然と必然, 1972] pp.27-28
追記: 2007/03/08 03:20
物活説の例文としてJ.B.S.Haldaneを挙げるJacques Lucien Monod
Jacques Lucien Monodは、弁証法的唯物論というMarxismが物活説であると批判するにあたって、弁証法的唯物論の考え方を次のようにまとめている:
とくにエンゲルスが(「反デューリング論」および「自然の弁証法」のなかで)見せているこの倒立のあまたの適用例をもとにして、弁証法的唯物論の創始者たちの胸の底にあった思想を再構成してみることができる。その主要事項を箇条書きにすれば以下のようになるであろう。そして典型例として、J.B.S. Haldaneの一文を挙げた[p.41]:
- 物質の存在様式は運動である。
- 宇宙は、物質の総体--それのみが実在する--として定義したばあい、たえざる進化の状態にある。
- 宇宙についての真の認識はすべて、この進化の理解に寄与する認識である。
- しかしこの認識は、人間と物質(あるいはより正確に言えば、物質から人間を除いた「残余」)との相互作用のなかからしか得られない。そして、この相互作用そのものが進化し、また進化の原因となる。したがって、真の認識は「実践的」である。
- 意識はこの認識の相互作用と関係している。したがって、意識的な思考は宇宙自体の運動を反映している。
- そこで、思考が宇宙的運動の一部であり、しかもその反映であるがゆえに、また思考の運動が弁証法的であるがゆえに、宇宙自体の進化の法則は弁証法的でなくてはならない。自然現象にかんして矛盾・肯定・否定などの用語が用いられるのは、以上のことによって説明がつき、そして正当化される。
- 弁証法は建設的である。それゆえ、宇宙の進化は、それ自体が上昇的かつ建設的である。その最高の表現は、この進化の必然的所産たる人間の社会・意識・思考である。
- 宇宙構造を持っている進化する本質に力的をおくばあい、弁証法的唯物論は18世紀の唯物論を根本的に超克したものだと言える。後者は古典的論理にもとづいたもので、不変的であると想定された物体のあいだでの機械論的相互作用しか認めえなかったのであり、したがって進化を思考する能力を持つことできずにいたからである
[Jacques Lucien Monod: "Chance and Necessity", 1970; 渡辺格・村上光彦訳: 偶然と必然, 1972]pp.39-40
MARXISM has a two-fold bearing on science. In the first place Marxists study science among other human activities. They show how the scientific activities of any society depend on its changing needs, and so in the long run on its productive methods, and how science changes the productive methods, and therefore the whole society. This analysis is needed for any scientific approach to history, and even non-Marxists are now accepting parts of it. But secondly Marx and Engels were not content to analyse the changes in society. In dialectics they saw the science of the general laws of change, not only in society and in human thought, but in the external world which is mirrored by human thought. That is to say it can be applied to problems of "pure" science as well as to the social relations of science.
[J.B.S. Haldane:"Engels' Dialectics of Nature: Preface", 1939]
『マルクス主義は科学を2つの面から考察している。第1に、マルクス主義者は科学を他の人間の活動のなかのひとつとして研究している。彼らは、ある社会の科学的活動がいかにその社会の欲求の進化に依存し、したがってその社会の生産方式に依存しているかを示し、また逆に科学がいかにそれらの生産方法を、さらにまた社会の欲求の進化に変えてゆくかを考察している。しかし第2に、マルクスおよびエンゲルスは、社会の変動を分析するのみに留まらなかった。彼らは弁証法のうちに、たんに社会および人間の思想のなかばかりか、さらに人間の思考によって映し出される外界のなかにも働いている、変化の一般法則を見いだしたのである。結局、弁証法は「純粋」科学の問題ばかりか、さらに科学と社会の関係にも適用されるということに帰着する』
物活説面白いです。
目的論という根に着目したら、社会ダーウィニズムやマルキシズムも創造論と同根になるんですね。
道理で主張が良く似ているはずです。
まさにそのとおりなかんじです。
有神論な創造論と無神論なMarxismということで真逆なのですが、考えてみれば、超越的な神様の存否は科学の外側です。
なので、科学の版図内に干渉している部分だけ見ると、創造論もMarxismも「自然選択+ランダムな突然変異による進化だけでは説明できない」という同じものになってしまうというところでしょうか。
マルクス主義同志会[ http://homepage3.nifty.com/mcg/mcgtext/kagaku/kagaku.htm ]のページは、非常に明瞭な例になっています:
-->
こうした学説では、偶然すなわち「突然変異」といった概念が特別の意義を獲得するようになるのは、一つの必然であろう。
...
正統派は進化やその原因、その本質的な契機については、依然としてダーヴィン(自然淘汰説)や突然変異説の限界の中に低迷している。
...
彼[今西錦司]が影響力を持つことができたのは、“正統派”の進化論があまりにナンセンスであって、多くの人々を納得させることができないからである。ここで言う“正統派進化論”とは、ネオ・ダーヴィニズムつまり生物の進化を突然変異と自然淘汰によって説明する理論を言う。
...
実際、遺伝子万能論、あるいは遺伝子決定論--その典型は、悪名高い「利己的遺伝子」論だ--ほどにナンセンスなものはないのだ。
...
現代生物学の機械論的見方の源流が、環境の力と生物の内的な力を分離したダーウィンにあるとして、生物と環境の関係を論じた箇所は刺激的である
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>進化学者でマルキストというとJ.B.S.ホールデンが有名ですね
Jacques Monodは物活説の例として、そのJ.B.S.Haldaneを挙げてたりします(本文中に追記しました)。
Marxists Internet ArchiveにあるJBS Haldane著作集を見ていると
http://www.marxists.org/archive/haldane
-->
The accidental character of mutation is clear in many other ways. Almost, though not quite, all mutations lower the fitness of an organism in its natural state. This is equivalent to saying that organisms are pretty well fitted to their environment (fitness is defined later) and any change due to chance is likely to be for the worse. If mutation were an adaptive phenomenon like the growth of a muscle when exercised, as Lamarck believed, this would not be so. Most mutations would be useful. The same would (I suppose) be true if mutation were a manifestation of the Life Force (whatever he, she or it may be). Naturally enough, biologists to whom dialectical materialism means nothing, or means a weapon of the abominable Marx, cannot understand how harmful mutations can be a condition of evolutionary progress. They therefore deny them any importance.
http://www.marxists.org/archive/haldane/works/1930s/dae.htm
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といった怪しげな主張に遭遇したりします。