2013/05/09

インテリジェントデザインの父Phillip Johnsonは神が実在か架空かで科学に違いがあると言う

インテリジェントデザインの父たる法学者Phillip Johnsonは、神が実在か架空かによって、「自然主義的」な科学が、「現実と無縁」か「すべての説明するもの」という別のものになってしまうと主張する。
The fundamental issue between the pope and the physicist was whether God is real or imaginary. If God is real, then naturalistic science that insists on explaining everything is out of touch with reality; if God is imaginary, then theologians have no subject matter. If theologians are willing to allow the reality of Got to be decided by scientific naturalists according to the rules of methodological atheism, they do not deserve even the modest position in academic life which they presently occupy.

If God is real however, and if theologians are prepared to assert that reality as a fact rather than a mere subjective reflection, then theology has a very important in the world of knowledge. Whatever we may call it, there is a need for a discipline at the top of the hierarchy of sciences which studies knowledge itself in the most general sense and for that reason governs the more specialized disciplines.

教皇と物理学者の間に根本的な問題は、神が実在か架空かであった。神が実在であれば、すべてを説明すると主張する自然主義的科学は、現実とは無縁なものとなる。もし神が架空であれば、神学者は主題を持たない。方法論的無神論のルールに従う科学的自然主義者によって決められる神の実在というものを、神学者が許容しようとするなら、現在、彼らが占めている、ささやかなアカデミックな立場にすら値しなくなる。

しかし、もし神が実在なら、そして神学者が神の実在が事実であって、主観的反映ではないと主張する準備ができているなら、知識の世界において神学はとても重要な存在になる。それを何と呼ぼうとも、最も一般的な意味で知識自体を研究する、科学の階層構造の最上位に位置する、そしてより専門的な分野を支配する理由としての、学術分野が必要である。

[Phillip Johnson: "Reason in the Balance", 1996. chap 5. Theistic Naturalism & Theistic Realism, pp 103-4]
神が実在であろうが、架空の存在であろうが、科学のやることは変わらない。

そもそも、機械論の成り立ちからすれば、たとえ超越的神が存在し、かつ超越的神が自然界に介入していようとも、機械論は神の存在に言及しない。そして、機械論の外側あるいは上位の立場が、機械論で記述できない現象こと、神の御業であると言う。
メルセンヌの首尾一貫した立場は、自然の秩序に示される神の力能と、いかようにも作用しうる神の絶対的な力能という、長き歴史にわたって形成された重要な区別に依存していた。機械論哲学がメルセンヌや後のボイルに訴えたのは、神がこの世界に作用を及ぼすときの通常のやり方を完璧に表現するものと考えられたからである。自然法則とは、秩序の根本原因でる神の意思が表現されたものであるが、神を拘束するものではない、神は望むならば別のやり方でも行動することができるのだから。機械論哲学は奇跡の起こる可能性を排除したのではなく、真の奇跡を認識する手段をはっきりさせた。自然法則のことばで説明しえない出来事、それこそが奇跡なのである、と。

[J.H. ブルック「 科学と宗教 」(p.142)]
そして、たとえ超越的神が存在しようとも、機械論で説明できないことが、未知の法則があるのか、真の奇跡なのかのを識別する方法が、機械論の内側にはない。機械論の説明が見つかれば、それは真の奇跡ではなかったことがわかる。しかし、見つからなければ、真の奇跡かも知れず、未知の法則があるのかもしれずのままである。

しかし、このような機械論の成り立ちに沿って、科学を論じることも、STS的に見れば、複数の立場の一つにすぎないかもしれない。"God of the gaps"詭弁を用いて「法則で記述できない現象は神の御業」と宣告するところまで、科学に含めるという立場もありかも。


posted by Kumicit at 2013/05/09 00:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | ID: General | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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