2014/01/30

オリゲネスとタルムードと安息日

「さて、太陽も月も星もなく、第一日目には天すら存在しなかったのに、「第一日」、「第二日」、「第三日」と言われ、おまけに「朝」と「晩」があったとされているのを、合理的である解釈する人が誰かいるだろうか、私は尋ねたい」と書いたオリゲネス(184/185 – 253/254)は、他にも聖書を字義通り読むことの奇妙さの例を挙げていた。
更にまた、「安息日に荷をたずさえてはならない」(10)と[聖書が]言っているのも、遵守不能なことと私には思われる。というのは、聖なる使徒[パウロ]も言っているように、ユダヤ人の学者たちはこれらの掟から「とりとめもない作り話」(11)を引き出して、底がねのない履物をはいていれば、荷をたずさえていることにはならないが、底がねを撃った履物をはいていれば、荷をたずさえたことになる(c)、また何かを片方の背に担いでいれば、それは荷とみなされるが、両方の背に担いでいれば、それは荷とみなされないと言っているのである。



10. 「主はこう言われる。あなたたちは、慎んで、安息日に荷を運ばないようにしなさい。エルサレムのどの門からも持ち込んではならない。」 (エレミヤ書17章21節)
11. 「作り話や切りのない系図に心を奪われたりしないようにと。このような作り話や系図は、信仰による神の救いの計画の実現よりも、むしろ無意味な詮索を引き起こします。」 (テモテへの手紙一/1章4節)
c. バビロニアのタルムード Sabbath VI,2

[オリゲネス(小高毅 訳): 諸原理について (第4巻3章一, p.298)]
それらしい記述がタルムードにある。
MISHNA III.: One who carries out anything in the right or in the left hand or in his bosom or on his shoulder is culpable, as so was the manner in which the sons of Kehath carried (their burdens). 1 But one who carries out a thing on the back of his hand or with his foot, with his mouth, with his elbow, with his ear, with his hair, with his waist bag, the opening of which is at the bottom, or between his belt and his shirt, with the edge of his shirt, with his shoe or sandal, is not culpable, because he carries it in an unusual manner.

右手や、左手や、胸や、肩で何かを運んだ場合は違反である。Kehathの子らが荷をそのようにして運んだからである。しかし、手の甲の上や、足や、口や、肘や、耳や、髪や、開口部が底にあるウェストバッグや、ベルトとシャツの間や、シャツの端や、靴やサンダルで運んだ場合は違反ではない。普通でない方法で運んだからだ。

GEMARA: R. Elazar said: "One who carries out a burden ten spans above the ground [not on his shoulder, but in the air] is culpable, because in this manner the sons of Kehath carried their burdens." Whence do we know that the sons of Kehath carried their burdens in this way? It is written [Numb. iii. 26]: "Which is by the tabernacle and by the altar round about." Hence he compares the tabernacle to the altar. As the tabernacle was ten ells, so was also the altar ten ells; and whence do we know that the tabernacle itself was ten ells? Because it is written [Ex. xxvi. 16]: "Ten ells shall be the length of the boards." Or we may say that we know that the sons of Kehath carried their burdens in this manner from the ark, as the Master said: The ark was nine spans high, and with the cover, which was one span higher, it was ten. Experience is to the effect that when a burden was carried on the shoulders by means of poles, one-third of the burden was above the poles and two-thirds below; then as the ark was ten spans high and one-third of it was carried above the shoulders, it was certainly more than ten spans above the ground.

Elazar師は言った「肩の上ではなく、空中で、地上から10スパンの高さで荷物を運んだ場合は違反である。Kehathの子らが荷をそのようにして運んだからである。」どうやって、我々がKehathの子らがそのように荷物を運んでのを知っているのか? 民数記3章25節に「幕屋と祭壇を囲む庭の周りの幕とその入り口の幕、綱、およびそれにかかわる仕事をすることである。」と書かれている。したがって、彼は幕屋と祭壇を比較している。幕屋は10アンマであり、したがって、祭壇は10アンマだった。では、どうやって、幕屋が10アンマだったことがわかるのか? それは出エジプト記26章16節にある。「一枚の壁板は縦十アンマ、横一・五アンマ」 あるいは、Kehathの子らが彼らの荷をそのようにしてアークから運んだことを知っていると言ってもいいかもしれない。主が言われるように、アークは9スパンの高さがあり、1スパンの高さのカバーがあった。したがって、10スパンである。ポールを用いて肩の上で運べば、荷物の1/3はポールの上に、2/3はポールの下になる。アークは10スパンあり、1/3が肩の上で運ばれたので、確かに地上より10スパン以上ある。

[Babylonia Talmud Sabbath X (English Translation]
遵守不能の規定に抜け道のような解釈を与えることで、「字義通り」を捨てないという方法がとられていたようだ。そして、それをオリゲネスはネタにしていた。

現在の「字義通りの解釈」を行う創造論者たちは、たとえば地動説と聖書の記述を整合させるというアクロバテチックなことにチャレンジしている。二千年近く前から、あまり変わっていないというべきか。
posted by Kumicit at 2014/01/30 00:29 | Comment(0) | TrackBack(0) | ID: General | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]


この記事へのトラックバック