2016/01/02

確率・自然・2つの敵

「確率を取り扱えない心」は面倒なものだ。日常的には...

  • 起きる確率はゼロではないが、1%に満たない(<1%)
  • ということは、起きないわけではないのだな
  • ということは、起きるか、起きないか、どちらかだ(~50%)
  • それなら、起きる方に賭ける(>50%)
  • 絶対、起きる(100%)

といったところ。こういう推論をするにであれば、どんな小さなリスクであっても、許容できないだろう。

ところが、その小さなリスクを回避するために、別のリスクと遭遇すると

  • 被害にあう可能性が20%あり、その場合は、深刻なダメージ。(20%)
  • ということは、被害にあう可能性は、あわない可能性より、はるかに小さい。
  • ということは、被害にあうことを考える必要はない。(~0%)
  • 当たらなければ、どうということはない。

といって、気にしなかったりする。判断の時に、確率を脳内で0%か100%と見なしてしまうのは、ありがち。

別のリスクが「自然」である場合は、別の推論で0%にしてしまうこともある。それは、世の中にある自然主義の誤謬の派生バージョンである道徳主義の誤謬と"Appeal to Nature詭弁"という対置される詭弁:

  • 自然への訴え(Appeal to nature fallacy):
    「自然は良い」に基づき、「Xは自然なので、Xは良い」あるいは「Xは不自然なので、Xは悪い」と主張する詭弁。自然主義の誤謬の単純化された形。
  • 道徳主義の誤謬(moralistc fallacy):
    「自然は良い」に基づき、「Xは良いので、Xは自然である」あるいは「Xは悪いので、Xは不自然である」と主張する詭弁。

これらの変形バージョンで...

  • 自然にしていれば悪いことは起きない。
  • 自然にしていて起きたことは、悪いことではない。



2つの敵を同時に相手にするのは難しいため、どちらかを「実は敵ではない」あるいは「大した敵ではない」と思ってしまうこともがある。そのため、「健康のためなら、死んでもいい」ということにも。


posted by Kumicit at 2016/01/02 09:37 | Comment(0) | TrackBack(0) | Quackery | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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