- 起きる確率はゼロではないが、1%に満たない(<1%)
- ということは、起きないわけではないのだな
- ということは、起きるか、起きないか、どちらかだ(~50%)
- それなら、起きる方に賭ける(>50%)
- 絶対、起きる(100%)
といったところ。こういう推論をするにであれば、どんな小さなリスクであっても、許容できないだろう。
ところが、その小さなリスクを回避するために、別のリスクと遭遇すると
- 被害にあう可能性が20%あり、その場合は、深刻なダメージ。(20%)
- ということは、被害にあう可能性は、あわない可能性より、はるかに小さい。
- ということは、被害にあうことを考える必要はない。(~0%)
- 当たらなければ、どうということはない。
といって、気にしなかったりする。判断の時に、確率を脳内で0%か100%と見なしてしまうのは、ありがち。
別のリスクが「自然」である場合は、別の推論で0%にしてしまうこともある。それは、世の中にある自然主義の誤謬の派生バージョンである道徳主義の誤謬と"Appeal to Nature詭弁"という対置される詭弁:
- 自然への訴え(Appeal to nature fallacy):
「自然は良い」に基づき、「Xは自然なので、Xは良い」あるいは「Xは不自然なので、Xは悪い」と主張する詭弁。自然主義の誤謬の単純化された形。 - 道徳主義の誤謬(moralistc fallacy):
「自然は良い」に基づき、「Xは良いので、Xは自然である」あるいは「Xは悪いので、Xは不自然である」と主張する詭弁。
これらの変形バージョンで...
- 自然にしていれば悪いことは起きない。
- 自然にしていて起きたことは、悪いことではない。
2つの敵を同時に相手にするのは難しいため、どちらかを「実は敵ではない」あるいは「大した敵ではない」と思ってしまうこともがある。そのため、「健康のためなら、死んでもいい」ということにも。