「魂」と云われているものの仕様は...
「魂」の定義はいろいろありそうだが、
- 「魂」は人間の誕生時点で製造されるか、「魂」は既存
- 「魂」は人間の誕生時点で、人間にアタッチされる
- 「魂」は人間の人格・思考を何ほどか担う
- 「魂」は人間の死亡時点で、人間からデタッチされる
- 「魂」は人間の死亡後も消滅しない
- 「魂」は物質ではない
これまでに、「魂」は、科学的方法で存在を検出・観測できていない。「魂が物質ではない」とするなら、そもそも検出不可能かもしれない。従って、おそらく科学の取り扱い対象にはならないだろう。
「魂」が科学の取り扱い対象外なら、「魂」について語るのはポエムにしかならないかというと、そうでもない。自然科学と矛盾しない形で、形而上学として「魂」を考えるのは、"あり"だろう。
ということで、ちょっと「魂」を弄ぶことにする。ただし、「魂」のスペックは、最初に書いた定義では、あまりに限定的でありすぎるので、検討する段階ではもっと自由度を高くすることにしよう。どうも、創造論者やスピリチュアル信者たちの考える「魂」のスペックがあまりに、何の前提論理もなく限定されすぎ。
「魂」についての条件
条件を以下のように弛めることにしよう。
- 「魂」の生成消滅については検討対象外
- 「魂」が人間にアタッチされるのは、人間の誕生時点でなくてもよい
- 「魂」には人格があるが、これとは別に人間の脳にも思考・人格があってもよい
- 「魂」が人間からデタッチされるのは、人間が生存している間でもよい
- 「魂」は科学的に検出されない。
- 「魂」は科学的に、その存在を検出されない
- 「魂」は科学的に検出されないように、人間の脳を観測できる
- 「魂」は科学的に検出されないように、人間の脳を操作できる。ただし、操作されたことは原理的には科学的に検出可能。
- 「魂」は科学的に、その存在を検出されない
2.と4.は、「魂」をアタッチされていない状態の人間が存在することも"あり"にする。さらに、以下についても、とりあえず"あり"にしてみる
- 同時に複数の「魂」が、ひとりの人間にアタッチされてもよい
- 同時にひとつの「魂」が、複数の人間にアタッチされてもよい
- ひとりの人間の生涯を、複数の魂が順次引継ぎしてもよい
人格がない人間は「哲学的ゾンビ」であるという形で、人格を定義することにする。この場合の哲学ゾンビとは:
頭を解剖しても普通の人間と区別できない。 哲学的ゾンビは外から見る限りでは、普通の人間と全く同じように、笑いもするし、怒りもするし、熱心に哲学の議論をしさえする。 しかし普通の人間と哲学的ゾンビの唯一の違いは、哲学的ゾンビにはその際に楽しさの「ウキウキ」とした感覚も、怒りの「ムカーッ」とした感覚も、議論の厄介さに対する「イライラ」とした感覚も、全くない、という点である。 またこのような気分だけではなく赤いものを見たとき感じる「赤のクオリア」、 音のクオリア、味のクオリア、匂いのクオリア等々、ありとあらゆる内面的経験を全く持たない。[wikipedia:哲学的ゾンビ]
論点1: 魂と脳
「魂」についての論が、科学的証拠なき形而上学の論であるとしても、少なくとも科学と折り合いをつけておく必要があるだろう。でないと、フィクションになってしまう。
論点1a: 脳を観測する魂
「魂」は人間の外界の観測情報をどこから得ているか。視界は「目」に依存しているようで、目に見えないものは、「魂」も見えていないと思われる。さらに、脳の損傷により相貌失認など様々な障害が起きることから、「目」からの光学情報ではなく、ある程度は脳で解析処理さらた情報を「魂」は得ていると思われる。
すなわち、「魂」は人間の脳を経由しないと、外界の情報を入手できない。あるいは、実際には「魂」は超自然的な方法で外界を観測できているが、使える情報は脳が認識できたものに限られる。
論点1b: 魂の記憶は脳の制約を受ける
たとえ、「魂」が独自に記憶装置を持っていたとしても、実際に「魂」が参照可能な記憶の範囲は、人間の脳にある記憶の範囲に限られると考えてよいだろう。
というのは、脳の損傷によって長期記憶を持てなくなるとか、記憶が失われると言ったことが起きる。「魂」が独自に記憶装置を持っているなら、脳の損傷の影響を受けない筈だが、実際には受けている。ということは、「魂」は記憶装置を持っていないか、持っていても、人間の脳にある記憶の範囲を超えて、「魂」の記憶装置を参照できないはず。
で、基本的に「魂」が記憶について、脳に依存しているなら、人間の生存中に、「魂」のデタッチ・アタッチによる交代が起きても、「魂」自身が、そのことに気付けないかもしれない。
ある日、突如として、84歳の老人にアタッチされた「魂」にとって、その日から、参照可能な記憶は、そこそこ失われ変容し続ける84歳の老人の記憶だけである。「魂」にとって、自分は84歳の老人以外の何者でもない。
論点1c: 魂の思考は脳の制約を受ける
脳の損傷によって言語障害が起きることから、「魂」は独自に言語機能を持っているとしても、使えるのは脳の言語機能の範囲のみと考えてよいだろう。論理思考や理数系の能力についても、老化の影響を受けているようなので、「魂」独自の機能があったとしても、脳以上の能力は発揮しない。
従って、今日、突如として、George W. Bushにアタッチされた魂は、アタッチされた瞬間から、言語機能はテキサス英語で、創造論を信じ、大統領職を務めることになるだろう。イラク攻撃の決断も自分でしたものだと思い込んで。
ここで、
- 「魂」は脳の思考を使う
- 「魂」は独自に思考機能を持つが、それは脳と同等にしか使えない。
この2つは、「魂」が脳を操作するタイミングだけの違い。常時・連続的に脳を操作するなら1.で、間歇的なら2.に相当。なので、とりあえず、2.の場合だけ考えることにする。
なお、記憶については、「魂」が脳の記憶を参照しても、脳の記憶の常時バックアップを持っていてもかまわない。特に差異は生じない。
論点1d: 脳を操作する魂
「魂」の思考・判断した結果が、脳神経系の出力と違っていれば、
- 「魂」は脳を操作する(物理的な存在である脳に、物質でない「魂」が介入する)
- 「魂」は脳に考えを合わせる(後付けで、脳神経系の出力と矛盾しないことを考えたつもりになる)
- 「魂」は考えていることと、行動に食い違いが生じたと認識する
2.と3.の場合、「魂」は人間の脳を傍観するだけの存在。せいぜいがとこ、「人格」を「魂」の中に再構築して、脳を「魂」のやり方で追体験しているだけ。
その場合は、人間に複数の「魂」がアタッチされていたとしても、何の問題も起きない。
それだと面白くないので、1.だということにしよう。ただし、あらゆる場合に「魂」が脳に介入する必要はない。歩くとか、自転車に乗るとか、様々な自動化された行動にまで、「魂」が介入することはないだろう。また、脳神経系の出力と「魂」の思考・判断の結果が一致していれば、介入の必要はない。
論点2: 哲学的ゾンビと人間
さて、今回の前提では、人間の脳にも人格があってもよい。また「魂」がアタッチされていない人間がいてもよい。ということで以下の4種類を考えることができる。
- 哲学的ゾンビA: 「魂」がアタッチされていない+脳に人格がない
- 魂のある人間A: 「魂」がアタッチされている +脳に人格がない
- 哲学的ゾンビB: 「魂」がアタッチされていない+脳に人格がある
- 魂のある人間B: 「魂」がアタッチされている +脳に人格がある
2.は普通に「魂」の存在を信じている人が考えるであろうパターン。「魂」に人格があるので、特に違和感はないだろう。逆に、3.は「魂」が存在しない場合。脳に人格があるので、特に違和感はないだろう。
ということで、問題は1.人格がない場合(哲学的ゾンビA)と、4.人格が複数ある場合(魂ある人間B)である。
論点2a: 哲学的ゾンビA
哲学的ゾンビAは、「魂」がアタッチされておらず、脳に人格もないので、どこにも人格がない。しかし、定義上、哲学的ゾンビAは外見(脳内解剖しても)からは人格がないことを確認できない。
さて、こんな哲学的ゾンビAは存在しうるだろうか?
記憶・思考などについて「魂」が脳に依存する(もしくは、脳に制約されている)ので、感覚やクオリアを持たなく哲学的ゾンビAといえども、脳神経系は常に何かを出力し続けると考えてもいいはずだ。
それが、外から見て、差異があるかないかは簡単に答えは出ない。というのはそもそも、この哲学的ゾンビは哲学の議論用のもの。当然、今でも議論に使用されるくらいだから。なので、とりあえず、この哲学的ゾンビAは保留。
論点2b: 魂のある人間Bはありうるか
論点1b/1cで、「魂」の思考・記憶は脳を使うか、独自の思考・記憶機能を持っていたとしても、脳と同等以上の能力は使えないとした。
「魂」の思考・記憶は、脳の思考・記憶を使うなら、脳の人格の判断と、「魂」の判断に大きな乖離は作れそうにない。なにしろ、前提となる過去の経験が同一である。そして、「魂」の思考は、脳と独立にあるとしても、脳を超えない。
大きな乖離がないなら、多くの場合、「魂」は脳を操作する必要はない。そのなると、「魂」は自分で行動していると思い込んでいるだけの傍観者になる。
乖離が生じたときに、「魂」は脳を操作すればよい。この頻度が少ないか(短期記憶が失われるくらいの時間間隔)、あるいは操作がわずかである(気の迷い程度)なら、脳の人格サイドに違和感は出ないと思っていいだろう。
論点2c: 私は何者なのか?
とりあえず、自分には人格があるとすると、自分が以下の4つのどれであるかを区別できるだろうか?
- 魂のある人間Aの「魂」の人格
- 哲学的ゾンビBの脳の人格
- 魂のある人間Bの脳の人格
- 魂のある人間Bの「魂」の人格
まず、1.と2.を区別する方法はないだろう。どっちも人格は1個しかないから。
3.と4.はおそらく原理的に識別不可能と思われる。というのは
- 脳を操作失敗した「魂」の人格と、「魂」に操作された脳の人格のどっちであるかは区別がつかない。いずれも、意図と違うことが起きているから。
- 「魂」は記憶を脳に依存しているために、脳の操作に成功しようが、失敗しようが、参照可能な記憶は脳にあるもののみ。
では、1.&2.と、3.&4.を区別できるだろうか?
これは、脳の人格が「魂」による脳の操作を認識できるか否かにかかっている。とりあえず、論点2bでは認識できるつもりで論をたてたが、まじめに考えると、そう簡単ではないかもしれない。
たとえば、以下のような経験は、脳の人格と「魂」の人格の判断の乖離があって、「魂」が脳を操作した結果だろうか?おそらく、これらは何も証明しない。
となると、1.&2.と、3.&4.を区別する方法も簡単には思いつけない。
ということで、保留。
論点3: 「ひとつの「魂」が人間の誕生時にアタッチされ、死亡時にデタッチされる」以外のパターンはありうるか
論点3a: 複数の魂がひとつの脳にアタッチされる
魂のある人間B= 「「魂」がアタッチされている+脳に人格がある」が"あり"なら、複数の「魂」がひとつの脳にアタッチするのも"あり"だろう。
複数の「魂」たちは脳の記憶を直接参照するか、「魂」独自の記憶機能のうち脳の記憶相当分だけを参照する。従って、記憶は同一。思考や判断についても脳に制約されているので、判断に大きな差異は出そうにない。
また、もともと、科学的に「魂」の存在を検出できないという条件にしてある。さらに、「魂」は脳を経由して外界を観測することから、複数の「魂」の間で、他の「魂」の存在を認識できそうにない。
そうなると、たとえ1兆個の「魂」がひとりの人間にアタッチされていたとしても、何の問題も生じない。
また、既に論点1b/1cで考えたように、ひとつの脳にアタッチされる「魂」が次々と交代しても、何の問題も生じない。アタッチされた瞬間から、アタッチされた「魂」は、あたかも、その人間の誕生からずっとアタッチされてきたかのようにしか認識できない。何故なら、脳にある記憶しか使えないから。
論点3b: 唯一つしか存在しない「魂」
「魂」に次の機能を追加してみる
- 時間を超越する。
これはキリスト教の「三位一体」の拡張バージョン「全員一体」ということになるだろうか。
さらに、 時間順序性を問わない「魂」ということも考えられる。人間の脳の記憶に依存する限り、ひとりの人生を順を追ってたどる必要はない。時刻も人間もまったくランダムに選択して、「魂」をアタッチし、一瞬の後にデタッチしても、何ら不都合は生じない(ネタ元はフレッド・ホイル「10月1日では遅すぎる」)。
たとえば、とある殺人事件の起きた瞬間の、殺人犯にアタッチ。すぐにデタッチして、被害者にアタッチ。すぐにデタッチして、殺人犯が誕生した瞬間にアタッチ。...とか。
ということで...
ということで、科学を離れて、形而上学に移れば、「魂」についていろんなことが考えられそうである。
「魂」が存在すると主張する人々は、こういったことは考えたことがあるのだろうか?