2007/11/18

Judgment Dayで頭に血が上って創造論者の主張「進化論も宗教」に手を出すCasey Luskin?

インテリジェントデザインの本山たるDiscovery InstituteのRobert CrowtherとCasey Luskinは、PBSのドキュメンタリー"Judgment Day"を見て頭に血が上って、創造論者の主張「進化論も宗教だ」に手をだした
The PBS teaching guide is a companion piece to the NOVA docudrama about the 2005 Dover intelligent design trial and claims to provide for teachers “easily digestible information to guide and support you in facing challenges to evolution.” The guide instructs teachers to introduce religion into science classes with discussion questions like

2005年のDoverインテリジェントデザイン裁判についてのNOVAドキュドラマの関連資料に、PBSの授業ガイドがある。これは「進化論への異論に対応する際のガイドとサポートをするために、情報を簡単にまとめたもの」である。この指導ガイドは質疑応答で理科の授業に宗教を持ち込むものだ。
“Can you accept evolution and still believe in religion? A: Yes. The common view that evolution is inherently antireligious is simply false.”
「進化論を受け入れて、なおかつ宗教を信じれるか?」
「はい。進化論は本質的に反宗教的だという一般的な見方は、ただの間違い」
“This statement oversimplifies the issue and encourages teachers to prefer certain religious viewpoints in the classroom, betraying Supreme Court law concerning religious neutrality,” says attorney Casey Luskin, program officer for public policy and legal affairs at Discovery Institute.
「この表現は問題を単純化しすぎて、教師たちに授業で特定の宗教的観点を選好させることを推奨しており、宗教の中立性についての最高裁判決に抵触する」とDiscovery Insituteの公共政策問題担当のCasey Luskin弁護士は述べている。
[Robert Crowther: "PBS Encouraging Teachers to Violate the First Amendment’s Establishment Clause" (2007/11/13) on Discovery Institute公式ブログ]
Casey Luskinに何か言われても説得力のかけらもない。が、気を取り直して、取り合ってみる。

まず「進化論が反宗教的ではない」というのは「宗教的見方のひとつだ」とCasey Luskinは言っている。つまり、「進化論も宗教だ」という創造論者の主張を言ったに等しい(この場合、無神論も宗教扱いするのが、創造論サイドのデフォ)。

もし、「進化論も宗教だ」と言ってないと言うなら、科学と宗教は並立可能という、いわゆるNOMA(nonoverlapping magisteria)など成り立たないと言ったことになる。これだと、頭に血が上らなくても、インテリジェントデザイン運動側が常に言っていること。

2003年にインテリジェントデザイン応援団たるIntelligent Design NetworkのHarris and Calvertは「神の意図と関与について言及しないのは、NOMA侵犯」だと主張している:
Some attempt to reconcile science with religion by defining each as “nonoverlapping magisteria,” two completely separate and distinct “ways of knowing.” According to this concept the function of science is to provide “objective” knowledge of reality while religion deals only with “subjective” spiritual impressions. This attempted demarcation only exacerbates the problem rather than solving it because the magisteria actually do overlap when both offer an answer to the same question: Where do we come from? Theism holds that humanity was designed for a purpose, while science claims that design and the purposes it serves are an illusion. A recent example of the depth of the confusion is a resolution adopted by the Presbyterian Church USA (PCUSA) in which “evolution” is held to be consistent with a “God as Creator.” The problem is that evolution is not defined in the resolution. If by evolution, the PCUSA means “change over time,” then the statement may be accurate, but if evolution means “unguided, blind, unintended change,” then the statement is logically inconsistent.

科学と宗教を"重複のないmagisteria"すなわち、2つを完全に分離された、異なる"知り方"と定義して、両者を調停しようとしている人々がいる。このコンセプトによれば、科学の機能とは現実の"客観的"な知識を与えるもので、宗教は"主観的"な霊的な印象を取り扱う。しかし、ここで試みられた区分は、同じ問いに対して両者が答えを提示したときだけmagisteriaが重なるので、むしろ問題を悪化させる:「我々はどこから来たのか」という問いに対して、有神論は人間が何らかの目的のためにデザインされたと答るが、科学はデザインや目的は幻想であると主張する。混乱の深さを示す最近の例では、米国長老派教会(PCUSA)が採択した決議がある。その決議では"進化"は"創造者としての神"と両立すると言っている。問題は、この決議において"進化"という言葉が定義されていないことである。もし、進化をPCUSAが「時間につれての変化」の意味で使っているなら、この声明は正しいかもしれない。しかし、進化が「指導されない、盲目の、意図されない変化」であるなら、この声明は論理矛盾である。
[William S. Harris and John H. Calvert: Intelligent Design -- The Scientific Alternative to Evolution, 2003]
宗教が「自然界についての真理」を取り扱うために、「自然界についての知識」たる科学と衝突するのは不可避だと言っている。

また、同じく2003年に、インテリジェントデザインの本山たるDiscovery Instituteのサイトに掲載された記事で、Benjamin Wikerは道徳の起源について、神に言及することなく、自然な説明を行おうとすることを侵犯行為と定義する。
Leap ahead about 2,000 years, and we find the same thing in Darwin himself, a fact all too often covered up by Darwinists. Read only Darwin’s Origin, and it seems as if he’s keeping within NOMA-esque bounds. Read Darwin’s Descent of Man (1871), and it’s startlingly clear that, in regard to the extent evolutionary explanations reach, Darwin knew no such bounds. In the Descent, Darwin offered an evolutionary account of the rise of morality and religious belief, solely in terms of natural selection.

2000年の後に、我々は、Darwin自身にある同じもの、そしてダーウィニストたちによってあまりも繰り返しカバーアップされる事実を見出す。Darwinの種の起源だけを読めば、NOMAの領分にとどまっているように見える。Darwinの"Descent of man(1871)"を読めば、進化論の説明が到達する範囲について、Darwinがそのような境界の存在を知らなかったことは、おどろくほど明らかである。"Descent of man"において、Darwinは、自然選択のみによる、道徳と宗教の起こりについての進化論的説明を提示した。

[Benjamin Wiker: "Does science point to god? Part II -- The christian critics, 2003]


Casey Luskin基準で政教分離を実現しようとすると、宗教の教義に抵触するような科学は理科の授業で教えられなくなる。もし、創造論者の主張「進化論も宗教だ」と言っていないなら、Robert CrowtherのエントリにおいCasey Luskinは、NOMAなどありえないという従来からの主張を再確認したものということになる。



関連エントリ

NOMAが成り立たない理由 (2007/06/26)
NOMAが成り立たない理由 つづき (2007/06/27)



MISAKIさんに読み上げってもらったんだけど、どうかなあ?

タグ:id理論 DI
posted by Kumicit at 2007/11/18 00:01 | Comment(0) | TrackBack(0) | DiscoveryInstitute | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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