2005/09/20

「百匹目の猿」そろそろ終わり

2005年09月18日 「100匹目のサル」をめぐって(4)(福田::漂泊言論)で、福田氏は英文解釈に限って訴訟テクニックをまだ続けている。これについては別の面から反証をあげておこう。

Lyall Watsonは"Lifetide"で

Not only that, but the habit seems to have jumped natural barriers and to have appeared spontaneously, like glycerine crystals in sealed laboratory jars, in colonies on other islands and on the mainland in a troop at Takasakiyama.

それだけでなく、地理的な障壁を超えて、自然発生的に、密封された実験容器のグリセリン結晶が結晶化したように、他の島のコロニーや本島の高崎山の群れにも現れたのです。

と言っているが、もしこれが「海水使用」だとすると、海岸まで生息域が及んでいない高崎山(海岸との間には日豊本線と国道があり、山が海に迫っていて、砂浜もなく消波ブロックもあったりする)には「海水によるサツマイモ洗い」は伝播しようがない。ついでに高崎山には涸れることのない淡水プールも用意されている。(もちろん、海から遠い大阪箕面・京都嵐山(岩田山)には絶対に「海水によるサツマイモ洗い」は伝播できない。)従って、海水説は棄却される。


時系列

1979年の"Lifetide"でLyall Watsonがついたウソは
...個人的逸話と霊長類研究者たちの伝承の断片を集める必要があります。それは彼らの多くが何が起きたのか未だはっきりわかっていないからです。そして、真実にうすうす気がついた人々は嘲笑されることを恐れて公表したがりません。したがって、詳細は即興でつくる他ありませんが、私が言える範囲で、おおよそ次のようなことが起こったようです。

だった。詳細データが存在するにもかかわらず、それがないことにして、「百匹目の猿現象」を創作した。

そして、1985年にデバンカー側のRon Amundson: "The Hundredth Monkey Phenomenon"(忘却からの帰還:05年08月02日「百匹目の猿」の嘘を暴いた"The Hundredth Monkey Phenomenon"by Ron Amundsonに追記つきの和訳)と、ニューエイジ側のElaine Myers: "The Hundredth Monkey Revisited"(幻影随想:「100匹目のサルのウソ」はいかにして暴かれたかに和訳)によりウソがばれる。

1986年にLyall Watsonは「百匹目の猿現象」がKoshimaでおきていないことを認めた。

しかしこれで「百匹目の猿現象」は終わらず。有名どころでは船井幸雄氏が「百匹目の猿」を1996年に出版している(同書前書き)。

ただ、彼らが住んでいるのは1960年代の世界であって、21世紀ではない。Lyall Watsonが"Lifetide"(1979)で、参考文献(ではなく道具)として挙げたのは1960年代の文献だった。

Imanishi, Kinji. 1963. In Primate Social Behavior, Toronto: Van Nostrand.
Kawai, Masao. 1963. Primates, 4:113-115.
Kawai, Masao. 1965. Primates, 6:1-30.
Kawamura, Syunzo. 1963. In Primate Social Behavior, Toronto: Van Nostrand.
Tsumori, Atsuo. 1967. In Social Communication Among Primates. Chicago: University of Chicago Press.

それから40年のときが流れている。あっち側の人々が「真似て習得した猿の数が臨界数を超えると地理的障壁を超えて広まる」という「百匹目の猿現象」という夢を見続けている間も、研究の方は進んでいるわけで。

1970年代にはケチがつきはじめていた文化の伝播
あの頃は、「文化の伝播」という解釈だった。しかし、既に1970年代にはケチがつき始めたようだ。そのあたりは以下で紹介されている。

渡辺 邦夫・冠地 富士男・山口 直嗣(京都大学霊長類研究所幸島観察所):幸島のニホンザル, みやざきの自然 12号 '96-2

観察学習かそれとも局部的強調か

 幸島のサルによる文化的行動が、“見よう見まね”で伝播してきたものであるということが強調されたことは前に述べた。「サル真似」という言葉が示すように、我々にとってサルが見よう見まねで他の個体の行動をおぼえていくということのほうが、より理解し易かったのであろう。だが1970年頃になって、見よう見まねで新しい行動を獲得する例がほとんどないことが明らかになってきた。確かによく行動をみていると、ムギやイモを洗って食っている個体の近くには、たくさんのサルがいる。だがその行動を見ていて、急に思いついたかのように同じ行動を始める個体はまるで見当たらない。同じ親子兄弟であっても、洗い方はみな違っていてバラバラである。さらに見よう見まねということだけでいうと、ずっと高等な類人猿でもそうやたらとあるものではないことが分かってきた。だからこれまで文化的行動とされたことの大半は、ある特定の条件の下で、個別に学習されるのに適した刺激が継続して与えられたことによるのではないかと言われるようになった。

幸島ではこの点に興味をもった動物心理学者の樋口義治君(現愛知大学)が、オペラント条件付けといわれる方法を用いて詳しく調べている。要するに箱の一面にパネルをしつらえて、そのパネルを押すと大豆が出るようにしておく。箱は1個しかなく、まわりでは多数の個体が見ているから、それを1頭1頭全部チェックできる。そうやってそれぞれの個体が、どうやってこの新しい課題を学習していくのか、それを長期間かけて調べてみたのである。彼の結論を要約すると、大体以下の通りである。新しい行動を、観察することによってのみ獲得したと判断される個体は少なかった。だがサルたちは他のサルのやることに大変興味を持つ(局部的強調)。しかし興昧をもって他のサルがする行動を見ただけでは、なかなか同じ行動をするまでには至らない。むしろ興味を持って箱をたたいてみたりかじってみたりしながら、いろいろな試行錯誤を繰り返して、個別に学習していくのである。ただ34頭のサルがこのパネル押しを学習した中で、3頭は観察学習だったものと判定されている。だから観察学習が全く否定されたというわけではない。


なお、これは、樋口義治氏(現 愛知大学大学院文学研究科教授)の1992年の本(amazon)で報告されている。

「観察学習=サル真似による習得猿数の増加からシンクロニシティへ」という「百匹目の猿現象」の一歩目からずっこけてしまうような「個別学習」が主だということになっているらしい。

なお、その後の群れの動向は京都大学霊長類研究所のWebに掲載されいている(1999年, 2000年, 2001年, 2002年, 2003年)。アオメ・ハラジロ・ナミ・ノリ・ナツ・エバとあった家系も多くが消滅近く、エバ系4家系のうちエノキ家系、エゴ家系、イモ家系も消滅確定。いまやエバ系サンゴ家系だけの群れになろうとしているらしい。

その頃、ニホンザルの雄が群れを渡り歩くことが明らかになりはじめていた

今では、ニホンザルのオスは出身の群れを出て、群れを渡り歩くことは周知となっている(第6回ニホンザル研究セミナーの概要)が、当時はそれが明らかになる過程だったようだ。実際、伊谷純一郎「高崎山のサル」初版 (光文社「日本動物記」第2巻)[1954年]の時点では、ニホンザルの雄は基本的に群れの中で大人になっていくと考えられていたが、1973年に同書が講談社文庫から出版されたときには「講談社文庫版へのあとがき」として

「高崎山のサル」の中で、ミミナシともう一頭の孤猿ミミキレについて私はつぎのように書いている。
もともとはこの群れのサルであったのであろうが、いまでは二匹ともはっきりとよそもの扱いにされている。ミミキレの方は落伍者といった感じで、群れの周縁部にはいって来ても、みんなから黙殺され、ボスたちは見向きもしないのだが、ミミナシの方はそうはゆかなかった。あっさり屋のボスたちも、ミミナシにたいしてだけは執念ぶかい面を見せた。ことにジュピターとミミナシとは、宿敵のあいだがらであるかのうようにさえ見えた。」
 この文章の中で、おそらく訂正を必要とする箇所が一箇所ある。それは、二頭の孤猿の出自に関する件(くだり)で、冒頭の点を付した部分である。すなわち、その後に集積された資料にもとづく現在の私の考えによると、この二頭はおそらく高崎山以外の、どこか遠く離れた群れの出身ではなく、放浪の末、高崎山にたどりつき、この群れに接近したものにちがいないということになる。

....

 ジュピターの亡きあとは、きわめてスムーズにタイタンがついだ。タイタン時代は三年余で彼は一九六四年の五月に姿を消したが、それが死亡であったか、群れからの離脱であったかは確かめられていない。当時パンとモンクはすでに群れを去っており、タイタンのあとは老猿バッカスがついだ。彼は一九六七年の五月に群れを離れ、捕えられて日本モンキーセンターの檻の中で天寿を全うした。私が一九五三年にボスのクラスに入れた六頭の中の末席ブアが、第四代目の首長となったが、彼はわずか三カ月で群れを離れた。その後約三年余、一九六九年の一二月まではダンディが首長の地位にあったが、彼も群れを去った。
 そのあとは、私が一九五五年当時、第四〇位に位置づけているトクが一八歳で第六代目となった。トクは、高崎山の群れの出身であることが明らかであるため注目されていた個体であるが、彼もついに、一九七三年の一月に群れを去ってしまった。

と書いている。

「観察学習=サル真似による習得猿数の増加からシンクロニシティへ」の一歩目がずっこけてくれれば、こっちはダメージ僅少かもしれない。遠く離れた群れへと「イモ洗い」の習慣を持つ雄猿がたどりついても、サル真似してくれないかもしれないから。

もののついでだが、Wikipediaの「百匹目の猿現象」には、
1954年出版の『高崎山のサル』には、芋洗いのことは記述されていないが、1973年の講談社文庫版には、幸島のサルと高崎山のサルの芋洗いのことが、あとがきに追加されて紹介された。

とあるが、そのような記述は私の手元にある講談社文庫版(昭和51年4月5日第3刷)にはない。


遥かなる「百匹目の猿」
"Imo"が発明したサツマイモ洗いを、真似て覚えた猿たちの数が臨界値を超えると、地理的障壁を超えてそれが伝播するという百匹目の猿現象。
「そもそも、サルはサル真似をあまりしないので、実はそれぞれ独自にサツマイモ洗いを発明した」のであれば、「百匹目の猿現象」は消え去る他ない。雄が群れから群れへと渡り歩くなら、地理的障壁もあまり強い意味を持たないかもしれない。

と、ここまで、ネットを漂流したところで、私は奇妙なことに気づいた。私は高崎山サルがサツマイモを洗うという観察記録や報告をネット上で見つけていない。日本語・英語ともにgoogleにひっかからない。前述のように、講談社文庫版「高崎山のサル」にもサツマイモ洗いについての記述は見当たらない。
高崎山は海沿いにあるが、海岸と高崎山の間には国道と日豊本線がある。プールは用意されているので洗い場所はあるのだが。

リアル図書館を彷徨わなければ、高崎山のサルのサツマイモ洗いにはたどりつけないかもしれない。

追記(2005/9/21):
高崎山のサルA/B/C群の生息域が高崎山自然動物園のページに記載されている。サツマイモについては
サルの手はよく発達し器用で小さな小麦の粒や木芽の様なものも一つ一つつまむことができます。又ミカンやビワの皮をむいたり、サツマイモについた土を手で丹念に払い落としたりします。(ref)

と記載されている。
また、大分市高崎山管理公社 猿の高崎山ホームページにもサツマイモを洗う画像やテキストは存在しない。


追記(2005/10/08):
高崎山のごく一部の猿は現在も芋洗いをしていることが判明。


過ぎ去りし「百匹目の猿」
Koshimaの"Imo"がサツマイモ洗いを始めて半世紀のときが流れ、"Imo"たちはもうこの世の猿ではなく("Imo" 1972年5月21日死亡 ref))、それどころか"Imo"の家系(リナージュ)は消滅が確定している。今西錦司氏や伊谷純一郎氏そして川村俊蔵氏も、この世の人ではなく、河合雅雄氏も80歳。しかしいまだ、ニホンザルの生態が理解しつくされたわけではない。というより、まだまだわからないままかもしれない。

だからといって、「訴訟テクニックを駆使すれば、ウソというには立証十分だとは必ずしも言えない」という理由だけで、「百匹目の猿現象」という「人の想い」がサイエンスの仮説であるなど論外。「人の想い」は「人の想い」であって、サイエンスと交錯する必要もない。Lyall Watsonが"Lifetide"で詳細データがないとウソをついて、創作してから四半世紀が過ぎている。もう、「百匹目の猿現象」を旧世紀発の御伽噺にしてしまってもよい頃合だろう。


posted by Kumicit at 2005/09/20 00:16 | Comment(0) | TrackBack(0) | Hundredth Monkey | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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