で、Lywall WatsonはRon Amundsonの批判に対して
- 自分のアイデアを語る比喩の題材としてKoshimaの猿を選んだ。行きがかりによっては「百匹目のゴキブリ」だったかもしれず、「百匹目のケバナウォンバット」だったかもしれない。
- Ron Amundsonの主張はすべて正しい
- 百匹目の猿現象はKoshimaで起きていない
- しかし、百匹目の猿現象は存在すると確信している
と応えていた。もちろん、「百匹目の猿現象」が存在する証拠は挙げていない。
一応、和訳しておいた。ただし、これはサイエンスではなく、「いやみ」つきの「言い訳」文章なので、ちょっと訳に無理があるかもしれない。
http://www.findarticles.com/p/articles/mi_m1510/is_vNON4/ai_4436766
Lyall Watson responds - to criticism of the hundredth monkey theory of telepathic group mind - letter to the editor Whole Earth Review, Autumn, 1986 by Lyall Watson
Lyall Watson は返答する...
私は、好奇心の抑制の自薦委員会の屁理屈がとても退屈であると思っています。
さらに、私は科学的信仰の守護者を自任する必要性を感じる人々に深い不信感を抱いています。
しかし、私は、Ron Amundsonを賞賛すると言わざるをえません。彼の「百匹の猿現象」の分析は明快で面白く、そして、CSICOP(超常現象とされるものの科学的研究のための委員会)の公表するものにありがちな感情的な否定論がすがすがしいくらいにありません。
百匹の猿の起源と進化についてのAmundsonの分析を何らの留保なく受け入れます。Amundsonが正しく示したように、あれはほんのわずかの証拠と多くの伝聞を基に私が創ったメタファー(比喩)です。私は偽りを述べてはいません。
しかしながら、私はしたがって、「百匹目の猿現象」が存在しえないという彼の結論には異議があります。
他の場所に旅行に出かけていたら、それは「百匹のゴキブリ現象」とか「百匹のケバナウォンバット現象」と呼ばれていたかもしれません。
たまたま、私は既に思考とファッションが私たちの文化を伝わる非線形の方法に興味を持っていました。そして、私は日本に到着したとき、心の中で意識における大躍進[quantum leaps]の概念(ある種の心の断続平衡状態)を具体化していました。イモ洗い行動を知る人々とオフレコの会話してみて、私はメタファー(比喩)を語る手段として猿を選びました。
そして、私はまだ、それらの研究が見かけによらないもの、あるいは学術誌においてハワイに到達したようなものだと主張しています。
私の結論は、Amundsonが私を論破するために用いた5つのソースに基づいていません。厳密に逸話としてあの現象についての証拠を慎重に記述しています。「生命潮流」の引用文献は、何かの論拠とするためではなく、私がいつもやるように道具、および有用な背景情報へのアクセスのためとして提示したものです。
ときには適切かつ十分な理由なしに、アイデアにかき立てられる傾向があることはまったく認めますが、
たとえ、Koshimaでそれが証明されないままでも、百匹の猿現象のような何かが現実に動いていると確信しています。伝統的な自然淘汰に支配されるものではないメカニズムが進化にあって、そのような過程の特定と記述の必要性は高まっていると、私には思えます。百匹目の猿は、社会行動における臨界値の可能性に注意を向けてもらい、議論を刺激するための私なりの記述方法です。そして、Amundsonは私がそれに成功したことの生きた証拠です。たとえ、彼が、根拠を示さないアイデアに対して、批判を続けているとしても。
Amundsonは、百匹目の猿現象が存在し得ないと結論しています。彼は彼の指摘を立証するために慎重に証拠を選んだ上で認識論のリアリズムの旗印を掲げて「事実は事実です。事実に関する問題はこれで終わりです。」と言っています。
しかし、そうでしょうか? Ron Amundsonがよく知るところの科学は、その現実性の定義に対する参照によって、それがあるえるのか判断します。定義に合うものは何でも認められます。定義に合わないものはありえないもので、拒否されなければなりません。そして、ここでの問題は、どんな形の集合意識についてのコンセプトも、現在の定義と直接対決していることです。なので、公開討論にいたった問題は、対立する事実のどちらを選択するかということに帰着します。
通常現象 対 超常現象。
科学 対 Amundsonが疑似科学として言うもの。
そしてもちろん、科学は常に勝ちます。たとえ、思い切り歪曲してでも。
通常、このような議論において無視されているのは、現実性の科学的定義が理論であって、事実ではないことです。私たちは、ものごとがどう働くのか厳密にはわかりません。私たちが手にできるのは、合理的に適切な仮説です。対立する事実群の間の選択を強要する必要はありません。議論は、ものごとがどうおこるかという理論と、それと調和しない情報あるいはアイデアの関係に関るものです。問題になるのは作業仮説の正当性です。 新しい概念と古い理論を調和させるために必要なものは、理論が完全なものではなく、一般に受け入れられた方法以外に情報を交換できるかもしれないと認めることだけです。自然法則や科学の原理に対する襲撃ではないので、科学への信仰の守護者も異端の告発も必要ありません。
百匹目の猿現象は現実性の拡張された定義についての請願です。心、おそらく比較的単純なものであっても、それらが関わり合いを持つとき、あのようなことが起きる可能性を内包していること。あとは、生きているということは何かとても大きいものの一部として存在することだと認めることです。
その心のグローバル生態系のなかでは、たとえイモ洗いするニホンザルとえども小さいものなのです。
【Hundredth Monkeyの最新記事】
当方、「懐疑論者の祈り」というHPをつくっているワカシムと申します。
今回、100サルのページを改定、追記したのですが、Ron Amundsonの記事の邦訳と、86年の記事に対するワトソンの返答の邦訳が、大変に有用だと思いましたので、リンクさせていただきました。
当該部分は
http://www.geocities.jp/wakashimu/yota/saru.html
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幸いなことに「忘却の彼方」(←ココ)というブログで「百匹目の猿」の嘘を暴いた"The Hundredth Monkey(←ココ)という、この記事の邦訳が読めるので、興味のある方は参照されたい。また、同ブログにて、86年の記事に対するワトソンの返答(←ココ)も邦訳されており、あわせてお推めする。
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以上のようになります。
後からになりましたが、ご報告いたします。
また、質問があります。
この邦訳部分なのですが、どういった形で載せるかはさておき、テキストを当サイトに全て転載させていただくことは可能でしょうか?
ノーの場合は今のままにします。
もし可でしたら、訳者の名前(訳者の著作権)をどのようなお名前にすればよろしいでしょうか。
メールでも結構ですので、ご回答たまわりたく存じます。
m(__)m
とり急ぎブログの名前だけ直しておきました。
http://www.geocities.jp/wakashimu/yota/saru.html