2005/10/03

インテリジェント・デザイン・ネットワークの言い分を読んでみる(1)

==>改修後記事群


インテリジェント・デザインを主張する団体のひとつに、インテリジェント・デザイン・ネットワークというものがある。生化学のウィリアム S ハリス博士と弁護士のジョン H カルバート法学博士の共同品で、検索エンジンにそれなりにひっかかるので有名どころなのかもしれない。で、彼ら推奨のドキュメントが、共同代表者2名による「Intelligent Design: The Scientific Alternative to Evolution」というエッセイ。

彼らの立ち位置を明確化している前半部分からわかることを書いておこう(読んだという証拠として、和訳をつけておく)

人間は何らかの目的のために存在するといいたい.....しかしそれは科学ではない

で、まずはIDnetのハリス博士とカルバート博士の主張とはつまるところ...
...「我々はどこから来たのか?」.....「我々は何らかの目的のためにここにいるのか?」...考えられる答えは2つあります: 宇宙と生命とその多様性--自然現象--が、1)自然法則と偶然だけの産物なのか(自然主義仮説) 2) 法則と偶然とデザイン(何らかの意志あるいは物質とエネルギーを操作できる力を持つ何らかの知性)の産物なのか(デザイン仮説)。後者なら「目的」がありえますが、前者はそうではありません。

このあとのエッセイの流れは

  • 「我々は何らかの目的のためにここにいる」と言いたい
  • 人間が「自然法則と偶然だけの産物」であるなら、そうは言えない。
  • だから、「目的」のあるID理論を提唱する
  • しかし、近代科学は目的論を排除することで成立している
  • だから、目的論を排除する科学の方法論たる「自然主義/科学的唯物論」を敵とする

となっていく。つまりは、ID理論が科学であると主張するには、「科学」の定義を変えなければならないことを自覚しているというわけだ。

なお「原因を目的から説明するアリストテレス」から「機械的な自然法則で説明する近代科学」への転換については以下参照。
井出薫「近代科学思想の正当性と目的論の復権」

ID理論は創造科学ではない......しかし創造説を言いたい

学校で「創造説」を教えることが違憲とされたために、科学を装う「創造科学」が作られたが、これも実効的には主教であるとして違憲とされた。学校で教えるために、違憲とされないように、ID理論は「創造科学」とは違うのだと主張する。
インテリジェント・デザインは創造科学ではありません。IDは単に観測とデータ分析に基づく過去のある現象の直接原因についての仮説です。IDはいかなり宗教経典も論拠にはしないし、起源についての[創世記の]記述を証明しようというものでもありません。IDの提唱者はID理論が新たな証拠によって論破されるかもしれないことを認めています。

ついでだが、最後の一文の「論破可能性」は科学としての要件。

しかし、このあと
IDは、生命とその多様性が物質とエネルギーを操作できる力を持つ知性の産物であること以外に何も提唱しません。これは、"聖書に記された創造論"やイスラム教、アメリカインディアンあるいはその他の宗教的な遺産など創造主への信仰と矛盾しません。IDは単純に、創造の理由は示しても誰が創造したかを示しません。

あっさり、「キリスト教の唯一神」と名乗らないだけだと白状している。

「有神論の進化論」も敵

そしてIDnetのハリス博士とカルバート博士が敵とするのは

  • 「自然主義/科学的唯物論」
  • 「進化論」=化学進化、ダーウィン進化論、自己組織化などを含む
  • 「有神論の進化論」=神は物質と自然法則を創造し、その後は何もせず、生物は神の創造した自然法則と偶然にしたがって進化したという考え方

ひとつめは前述の通り。
ふたつめはもちろんID理論の主敵。自己組織化は攻撃目標にしているだけ。まだ攻撃策を見つけていないようだ。

ここまでは違和感はないが、みっつめの「有神論の進化論」には違和感があるかもしれない。なにしろ、唯一神の存在を前提としており、物質の起源も神によるものという考えなのだから。この二人が敵対する理由は

進化を前述のように科学者が主張どおり(指導も計画もされない偶然)とすると、特定の結果を計画しないで単にさいころを投げる存在に他ならない神を信じるという論理的なむつかしさがあるからです。従って、神がランダムな進化過程を使ったのであれば、定義により、それは無意味な(目的なき)、意図されない結果ということになります。「指導された(guided)、指導されない(unguided)」過程を信じるのは自己矛盾です。

つまり、「『有神論の進化論』は神の存在を認めているが、『神がランダムな進化過程を使ったのであれば、定義により、それ[人間]は無意味な(目的なき)、意図されない結果』となってしまう」から、というのが彼らの主張。

ただ、これは表向きで、幾億年の生命の進化を受け入れてしまっている「有神論の進化論」が「聖書の創世記の記述を否定している」ことが真の理由かもしれない。彼らの「ID理論が...聖書に記された創造論...と矛盾しません」という主張からすれば、むしろこっちが主たる理由だろう。
もちろん、それを言えば、科学ではなく宗教になってしまって、違憲になるので言わないだけで。


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以下は途中までの和訳 (かなり一文一文が長い英語であるため、和訳もわかりにくくなってしまった...と言い訳してみる)
Intelligent Design: The Scientific Alternative to Evolution
William S. Harris and John H. Calvert
http://www.intelligentdesignnetwork.org/NCBQ3_3HarrisCalvert.pdf

インテリジェント・デザイン:進化論の科学的代案

A little science estranges a man from God; a little more brings him back.
Francis Bacon (1561–1626)

遅かれ早かれ誰もが「我々はどこから来たのか?」と問うことになるでしょう。その答えは深遠で、人生を形作る意味を持ちます。この問いに答えられなければ、倫理、宗教そして生命の意味についての鍵となる根源的なもうひとつの問い「我々は何らかの目的のためにここにいるのか?」に答えられません。考えられる答えは2つあります: 宇宙と生命とその多様性--自然現象--が、1)自然法則と偶然だけの産物なのか(自然主義仮説) 2) 法則と偶然とデザイン(何らかの意志あるいは物質とエネルギーを操作できる力を持つ何らかの知性)の産物なのか(デザイン仮説)。後者なら「目的」がありえますが、前者はそうではありません。

自然主義仮説は(宇宙と生命の起源についての)化学進化の理論と(生物の多様性についての)ダーウィン進化論を支柱としています。デザイン仮説は、しばしば「微調整された」と記述されるようなきわめて複雑な自然システムの目的のある特性を支柱としています。それぞれの仮説は、哲学的因習や宗教的因習と密にかかわっており、科学と哲学、証拠と含意、現実性とイマジネーションを分離するために明快な思考が必要です。

著者たちは科学的研究および法曹について鍛えられています[1]。この記事では、読者の皆さんが、私たちの起源についての本質的科学的議論があり、この議論はインテリジェント・デザイン(ID)とその進化論への挑戦を客観的に考慮しない限り解決せず、科学や宗教、倫理、モラルについての私たちの世界観にとって非常に重要であることを知ってくれることを望みます。この議論において、私たちは幾つかの命題を作ります。: 1) ダーウィンの進化論の最も重要で明確な特徴は、それが指導されず、計画もされず、無意味な(目的のない)過程であること。2) IDは科学であり宗教ではないこと。 3) それぞれの起源論は、深い宗教、倫理およびモラルの含意があること。

この記事を、主要な用語と概念の包括的な議論から始めます。続いて、デザインの検出についての考察、両起源仮説を支持する証拠、そして、最後にIDが生命倫理にどう影響するか考えます。

議論の用語
多くの進化論とIDについての混乱は不正確でわかりにくい用語の定義から生じています。

起源科学(Origins Science)

このエッセイでは、起源科学は宇宙や地球、生物およびその多様性の起源(あるいは原因)を説明しようとする科学のことです。起源科学は厳密に現実に実証的であるというよりは、歴史学的です。従って、仮説を直接検証するための実験ができないので、化学や物理のような実験科学とは異なります。起源科学の歴史学的な本質はハーバード大学エルンスト・マイヤー教授によって説明されています[2]。

たとえば、ダーウィンは科学に歴史学的真実性を取り入れました。 進化論者は既に起きた現象と過程を説明しようとするというので、物理や化学と違って進化生物学は歴史学的科学です。そのような現象と過程の説明には自然法則と実験は不適切な方法です。そのかわりに、説明しようとする現象につながる仮に再構築した特定シナリオから構成される歴史的な物語を作ります。


歴史学的と実証的の区別はきわめて重要です。自然法則と実験によってその結論の厳格な客観性が保たれる純実証科学と違って、歴史学者の説明には守るべき基準や規律はありません。このことにより歴史学者の説明は主観的であってもよく、根拠となるデータだけでなくイマジネーションや哲学や宗教観(あるいは非宗教観)に影響されます。

起源科学の第2のユニークな特徴は、あらゆる宗教と同じ問いを発しているために、信仰への影響が避けられないことです。「我々はどこから来たのか?」という問いに対するいかなる答えも、誰かの感情を害することは確かです。従って、歴史学的、主観的および宗教的特性を持つ起源科学は、哲学的および宗教的バイアスなしに客観的に遂行されなければならず、すべての関連証拠は個々にその意味に関わらず検証されなければなりません。

進化(Evolution)
普通の用法では、進化(evolution)とは物事が時間とともに変化することを意味します。この意味では多くのものが"進化(evolve)"します: 自動車デザイン、政治制度、コンピュータソフトウェア、対人関係など。この定義は議論にはなりません。誰もが物が変化することだということで一致しているからです。たとえ、生命システムに対して使われても、私たちは物事が変化するという意味だとわかります。受精卵は乳児に、そしてティーンエイジャーから大人になります。タンポポは金色の花から綿帽子になり、イモムシは蝶になります。もっと身近だと、私たちは犬や猫、家畜の品種が計画された選択的な交配による人為的な選択によって"創造"されることを知っています。従って、進化(evolution)は変化することだとすべての科学者が認めています。問題は変化したことではなく、何がその変化を引き起こしたのかです。

ダーウィン進化論(Darwinian Evolution)

チャールズ・ダーウィンが1859年の本「種の起源」において"自然淘汰"[3]という新語を作ったとき、"人為的(すなわち知的に誘導された)淘汰"という言葉を心にとめていました。ダーウィンは知恵のある行為者(intelligent agent)が計画された交配によって数年で、そのような動物の形態に対する根本的な変化を起こせるのなら、十分な時間と適者が不適者よりも生存しやすく、子孫を残しやすい環境要因があれば、意志なき過程でもおそらく同じことができると論じました。ダーウィンは生物の形態や基本体型、構造が長い時間で変化してゆくことをよく知っていました。いまもういなくなっていまった、ますます複雑になる植物と動物のおどろくいほどの多様性を、化石だけが証明しています。疑いなく生物は変化してきました。しかい、何が変化させたのでしょうか?ダーウィンとその後継者たちは、指導されることのない意志なき自然現象が変化を起こし、自然法則と偶然(ランダムな変化に対する自然淘汰)だけで生物の多様性と生命の起源を十分に説明していると主張していました。

1995年に米国生物学教師協会はは次のような進化の定義を規定しました:
地球の生物の多様性は進化の結果です:自然淘汰や偶然、歴史的な偶発性、環境の変化に影響された遺伝子変化を伴う管理されない、非人格的な、そして予見できない不意の自然現象[4]



従って、進化はその定義から、まったく指導も監督もされない過程であり、その中では意志がいかなる役割も演じないのです。意志だけが目的を作れるのですから、進化は目的のない過程です。過程に目的がないことをダーウィンの理論を唱える人々によって明らかにされています:

ダーウィンは2つことを示しました:彼は進化が聖書の記された創造伝説に反する事実であり、その原因たる自然淘汰は、神の指導やデザインの余地のない自動的なものであることを示しました[5]。

人間は目的なき、神を考えない自然現象の結果です[6]。

ダーウィンの科学に対する計り知れない功績は、デザインと目的があるという明らかな証拠があるにもかかわらず、すべての生物学的現象が機械論的な原因で説明しうることを示したことです。何者にも指示されない無意味な(目的なき)変化と、盲目で冷淡な自然淘汰の過程との結合によって、ダーウィンは生命の過程について、神学的あるいは霊的な説明を無用のものとしました[7]。

人間は偶然の産物に過ぎないことを理解すべきです[8]。

これが、生物学者の言う"進化(evolution)"です。ただ変化というのではなく、指導されない、故意ではない、無意味な(目的なき)、より高次の知性に影響されない変化です。これらの主張から明らかになったことは、進化はいかなる自然のあるいは超自然の意志の介入も受けないものだということです。ダーウィン論者によれば、私たちは"現象(occurrences)"であって、"デザイン"ではありません。

ネオダーウィニズム(Neo-Darwinian Synthesis)

ダーウィンは生物にどのように変化が起きて、後の世代にどのように引き継がれるかのメカニズムを提示しませんでした。グレゴール・メンデルはダーウィン存命中に遺伝学の基本原理を発見していましたが、(1866年に興行された)メンデルの業績は広く知られることはなく、1900年に再発見されるまで、ほとんど影響を与えませんでした。1950年になってようやく、遺伝学が科学たりえるようになり、古生物学や微生物学、生化学、発生学そしてダーウィンの進化仮説をひとつにつないで、包括的な理論が作れるようになりました。なので、"ネオダーウィニズム"は近代進化論についての固有の名称なのです。その理論では、ランダムな環境制約に支配された生物の都合のよい(ランダムな突然変異による)遺伝的変化が生存すると仮定します。ダーウィン進化過程は現在の環境圧に適した特徴を持つ個体群が
子孫を残すように選別する一連のふるいと考えられます。川がその流れを選べないように、生物も選べません。自然法則と偶然が許す方向に流れをとります。


化学進化(Chemical Evolution)

化学進化は生命の起源自体について自然主義的な理論を示します。化学物質がランダムに有史以前の海洋("生命のスープ"仮説)で生成され、再び何らかの"ランダムな変化に対する選択行為"により、生物のようなものが形成されました。現時点では、純自然過程でどのように生命が発生したかについて広く認められた一貫し理論はありません。この分野を専門とするある科学者は、この問いに答えるのはほとんど絶望的だ[9]といっています。また他の科学者たちはより楽観的です[10]。

ほとんどの科学者(と素人)は化学進化を指すときもダーウィン進化論を指すときも"進化(evolution)"という略した用語を使い続けています。私たちはここでは自然法則と偶然にだけによる、デザインによらない、ダーウィン進化論や化学進化および宇宙の起源と発展についての自然主義的な理論を含むすべての進化理論を意味することにします。

自然主義/科学的唯物論(Naturalism/Scientific Materialism)

進化は自然主義と呼ばれる哲学に基盤(undergird)としています。自然主義とは、(化学や物理における)因果律と効果がすべての現象について適切に考慮されていて、デザインや自然についての目的論的な概念は無効であるという主義です[11]。最後のフレーズは、証拠に基づく演繹の結果ではなく、原理的にデザイン仮説は先験的に無効だということを意味します。人間は自然現象として"発生した(occur)"ものであり、何らかの目的を以ってデザインされたり創造されたりしたものではないと信じろと言っているのです。デザインを除外すれば、自然主義の哲学は、いかなる自然現象の説明についても効果的に超自然的な説明を排除できます。実際、まさにこの自然主義の機能によって、あらゆる科学的説明から超自然の介入の可能性を排除しています。教皇ヨハネパウロ2世は「それらのインスパイアした哲学故に、進化論は ... 人間についての真理とは並び立たない。」と述べています[12]。

また、デザインに対するこの議論の余地のない仮定は「科学的唯物論」と呼ばれます。すべての現象、意識さえもが物質とエネルギーと物理的因果律の働きにに還元されることを保証します。非物理的な意志の働きを反映するデザインは許されません。哲学者たちは自然主義や唯物論の多くの変種をカタログしていますが、デザインについては働いてきる原理として拒絶しています。

自然主義的な世界観に対するコミットメントは、ハーバードの遺伝学者Richard Lewontin教授によって明確に説明されています:
一部の構成に明確な不合理があるとしても、健康と生命についての途方もない約束を満たせていないとしても、ただのお話に対する科学界の寛容性でしかないとしても、我々は科学の側をとる。それは、我々が優先するコミットメント、唯物論へコミットメントしているからだ。科学の方法論と慣例に従って現象世界の物質的説明を受け入れているのではない。むしろ逆に、我々が物質的因果律に対して先見的に支持するということは、たとえ直感に反していようと、初心者にとって煙にまかれたようなものでも、調査の仕掛けと物質的説明を作り出すひとまとまりの概念を創り出すことなのだ。さらに唯物論は絶対であり、神が足を踏み入れることなど許されない。

この声明は、IDの反対者がいかに、起源科学について哲学的制約をおくことに伴う2つの中心的問題をさけていることを例証しています。

第一は私たちはすべての科学について議論しているのではなく、生命の起源と生物の多様性の起源について議論しているということです。何かがどう機能するかと、どう生じたのかはまったく別種の問題です。科学者が生物がどう機能するかを発見しようとしている普段の世界ではLewotinは正しく、超自然的な説明は出てきません。しかし、知的な力が生命の起源や生物の多様性の起源においてまったく働かなかったというのは明白に前提であり、実験で確かめることも、直接観察することもできない問題の多い主張です。第二は、"唯物論へのコミットメント"が有神論に対して与える明らかな影響をまったく無視していることです。おそらく、もっとも明確にいかに自然主義が科学を証拠に対して盲目にさせているかを表現しているのはカンザス州立大学の生物学者スコット・トッドでしょう。彼は「たとえあらゆるデータがインテリジェント・デザイナーを指し示していようとも、そのような仮説は自然主義的でないが故に、科学からは排除される。」[14]と言っています。つまり、ある特定の原理だけをあらかじめ想定し、それ以外をデータではなく定義で排除すると言っているのです。

実際には自然主義は主義か哲学と意味しているのですが、多くの科学者は、科学の"方法論"の一部にすぎず、ほんとうの哲学的な主義ではないと主張しています。この点からすれば、哲学的自然主義というよりは方法論的自然主義と呼ぶべきです。つまり、科学は自然を探求する方法論としてすべての観測された現象に対する可能な説明としての非物質的ないかなる力も排除するという選択をしているのです。これは最近、サイエンス誌(Scientific American)の編集者ジョン・レニーが認めました:「近代科学の中心的な主義は方法論的自然主義である[15]。」哲学的自然主義と呼ばれようと、方法論的自然主義と呼ばれようと、それはいずれにせよ非物質的です:この主義の効果は、科学者だけではなく一般人も生命はデザインされていないというこの中心的な教義を信じさせるものなのです。

自然主義的仮定が主義ではなく証明されていない仮定として真に方法論的に使われているなら、そのことが適切に開示され、それを認めるかどうかは任意とすべきです。適切な開示とは、提示された歴史学的説明の信頼性へのこの仮定の影響と、データの選択と解釈に対してこの仮説がどういう形で影響するかが説明されることです。デザインに対する自然主義的バイアスの開示がなされていないのは、進化と起源についての科学の教科書やそのほかの出版物において、この議論が記載されていないことから証拠付けられます。一般向けサイエンスライターであるロバート・ライトが説明しているように、自然主義は「科学することの不文律」のひとつであって、わずかでも目的論(デザイン)的な響きがあれば慎重に排除することを要請しているのです[16]。この不文律を破れば、侮辱され、嘲笑され、職を失い、査読のある科学論文誌への投稿原稿を拒絶され、科学界から事実上破門される[17]のですから、このようなルールは承認が必要です。

科学界はスペインの異端審問との薄気味悪いほど類似しています。"ローマ教皇"が交付した規則と態度と信念を受け入れなければ、恐ろしい罰が待っています。実際には火刑にするわけではありません。というのは私たちの腰抜けの法律ともとではもはやそのような罰は認められないからです。しかし、そのかわりに確実にDead Duck[訳注: お陀仏がニュアンスとして近い]にします。[18]


この"ルール"が開示されておらず、承認が必要であることを、米国における科学の指導的な組織である米国科学振興協会(AAAS)が採択した最近の方針がおそらくもっともよく示しています。AAAS評議会は「公立学校の科学カリキュラムの一部として'インテリジェント・デザイン理論'を教えることを許可しようとする体制側に対して、全米の市民が反対するように主張しています[19]。デザインに拒絶している、議論の余地のない仮定へ言及することなく、世界に向かってデザイン推論を拒絶し、学校で議論することを阻止しようと主張しています。

インテリジェント・デザイン(Intelligent Design)

IDは宇宙と生命と生物の多様性の起源において知的な原理が重要な役割を果たしたかもしれないという科学的理論です。デザインは自然の中、特に生命システムにおいて経験的に検出可能だというのが論拠です。IDは知的原理の探求と、現在の科学教育と研究において推進されている起源についての自然主義的な説明に対して異議を唱える知的運動です[20]。インテリジェント・デザイン理論はID理論家であるBaylor UniversityのWilliam Dembski教授により次のように説明されています:
インテリジェント・デザインでは、知的原理にできて、何も指示しない自然原理でできないことを観察することから始めます。何も指示しない自然原理は、スクラッブルのピースをボードに置くことはできても、それらのピースを有意味な単語や文になるように並べ替えられません。有意味な並びを作るには知的原理が必要です。この直感が、何も指示しない自然原理と知的原理の本質的な違いであり、前世紀のデザインについての議論の基礎でした。


バイアスのかからない視点では、デザイン仮説は自然研究からの真の跳躍です。それは観測データに対する本能的精神的反応です。もっとも熱心な進化論生物学者でさえも、生命システムが何らかの目的のためにデザインされたかのように見えると認めています[22]。現在、ID科学者たちは、生命とその多様性が知的原理の産物であるかもしれないという仮説を経験的かつ客観的に検証し確認する方法を開発しています。彼らは肯定的な証拠を示してこの仮説(たとえば、細胞メッセージ伝達システムの存在)を採択するだけでなく、化学進化やダーウィン進化や新たな"自己組織化"理論たちを排除する証拠もさがしています。

創造科学(Creation Science)

創造科学は聖書の創世記に記されている字義通りの解釈を証明しようとするものです。創造科学は1982年のアーカンソー訴訟[23]の判例で定義されました。その訴訟では、地裁は"創造科学"を教えることは違憲であると判断しました。それが起源について創世記の事実上の言い換えであり、そのようなものを教えることは特定の宗教観を強要することになるというのが理由でした。似たいような"創造科学"の判例が、エドワーズ対アジラード[23]裁判において最高裁判所での違憲判決で出ており、そこでもその理由は特定宗教観の強要でした。


インテリジェント・デザインと創造科学の関係

インテリジェント・デザインは創造科学ではありません。IDは単に観測とデータ分析に基づく過去のある現象の直接原因についての仮説です。IDはいかなり宗教経典も論拠にはしないし、起源についての[創世記の]記述を証明しようというものでもありません。IDの提唱者はID理論が新たな証拠によって論破されるかもしれないことを認めています。

多くの宗教と非宗教の起源理論がその居所を見出せるかもしれない大きな住居(tent)のようなものです。IDは、生命とその多様性が物質とエネルギーを操作できる力を持つ知性の産物であること以外に何も提唱しません。これは、"聖書に記された創造論"やイスラム教、アメリカインディアンあるいはその他の宗教的な遺産など創造主への信仰と矛盾しません。IDは単純に、創造の理由は示しても誰が創造したかを示しません。それはID理論化が隠された政策を遵守しているからではなく、データはその問いへの答えを裏付けるものではないからです。IDはひとつの問いだけを指し示します:生命は指導された過程の産物なのか、指導されない過程の産物なのか?。生命が意志によるものなのか、無意味(意志なき)分子運動によるものなのか?

有神論の進化論(Theistic Evolution)

ギャラップによる過去20年の調査(表1)によれば、インテリジェント・デザインという言葉知らないかもしれませんが、80%以上の米国人が何らかの形の神の指導する過程を信じています。これらの人々のうち約半分が「若い地球と文字通りの創世記」という見解を信じ、残りの半分が「有神論的進化論」あるいは「神に指導された(God-Guided)進化論」を信じています。



a 項目欄はギャラップではなく著者が記述したもの
b 「過去1万年以内のあるときに人間を今の形で神が創造した」という文に同意した人
c 「人間は数百万年かけて、いまより原始的な形から発展してきたものだが、その過程を神が指導(guide)した」という文に同意した人
d 創造論と有神論の進化論の和
e 「人間は数百万年かけて、いまより原始的な形から発展してきたもので、神はこの過程に関与していない」という文に同意した人


進化を「時間につれての変化」と定義するなら、神はその変化を指示することができるので、神と進化論の両方を明らかに信じられます。しかし、正確にはその定義には批判的です。というのは進化を前述のように科学者が主張どおり(指導も計画もされない偶然)とすると、特定の結果を計画しないで単にさいころを投げる存在に他ならないと言う神を信じるという論理的なむつかしさがあるからです。従って、神がランダムな進化過程を使ったのであれば、定義により、それは無意味な(目的なき)、意図されない結果ということになります。「指導された(guided)、指導されない(unguided)」過程を信じるのは自己矛盾です。ケネス・ミラー教授はこのジレンマについて次のように論じています:
(カート) ワイズが明らかにしたように、進化論的生物学がキリスト教にとって真に危険なのは、大半の科学者がそうだと思っている理由からではありません。進化論版の自然の歴史が聖書の中心的な神話である唯一回の創造と洪水を脅かすことではないのです。むしろ、生命が本質的に無意味(目的がない)であると人々を納得させてしまうかもしれないという凍りつくような予見です。宇宙に目的がないなら、意味もなく、絶対的なものもなく、存在意義もないのです[26]。


「サイコロを投げる」神を信じる人々は有神論よりも理神論に近いのです。理神論者は、おそらく物質と自然法則を創造したあと、歩み去り、再び姿を現さないような神を喜んで許容します。この神は「チップを落ちるところに落とします。」そのような神は自然界に干渉しません。彼はボールを転がすと、姿を消し、進化を真の"創造"となるように放置します。これは、大半の有神論宗教(キリスト教、ユダヤ教、イスラム教)が抱く神の姿ではありません。

科学と宗教を"重複のないmagisteria"し、2つを完全に分離された、異なる"知り方"と定義して、両者を調停しようとしている人々がいます[27]。このコンセプトによれば、科学の機能とは現実の"客観的"な知識を与えるもので、宗教は"主観的"な霊的な印象を取り扱います。しかし、ここで試みられた区分は、同じ問いに対して両者が答えを提示したときだけmagisteriaが重なるので、むしろ問題を悪化させます:「我々はどこから来たのか」という問いに対して、有神論は人間は何らかの目的のためにデザインされたと答えますが、科学はデザインや目的は幻想であると主張します[28]。混乱の深さを示す最近の例では、米国長老派教会(PCUSA)が採択した決議があります。その決議では"進化"は"創造者としての神"と両立すると言っています[29]。問題は、この決議において"進化"という言葉が定義されていないことです。もし、進化をPCUSAが「時間につれての変化」の意味で使っているなら、この声明は正しいかもしれません。しかし、進化が「指導されない、盲目の、意図されない変化」であるなら、この声明は論理矛盾です。

理神的進化論者は、自然の中にデザインの証拠がないので、神への信仰は"自然の事実(revelation)" すなわち、自然の中にある神の証拠には依拠できません[30]。キリスト教の記述によれば、自然の中に現れるデザインは現実のものです。従って、理神的な進化論者には、信仰のバイアスとして主観的個人的な霊的体験だけが残されます。論理的には理神的進化論者を事実上、厳密なダーウィン進化論者と区別できません。生命がなにかのデザインされたものだと信じる有神論の進化論者はID理論にその論拠を見出すでしょう。

リチャード・ドーキンスは、有神論と自然主義を融合させる試みはまさしく「洗練された神学のロビーに言い寄って、我々のキャンプに引き入れて、創造論者を別のキャンプに移す試みだ。これは政治的には正しいが、知的には正しくない。」と言っています[31]。

原注

[1] ウィリアム S ハリス博士は生化学者である。 ジョン H カルバート法学博士は1968年から弁護士事務所を開業しており、公立学校での起源科学の教育に関する裁判の憲法問題に焦点をあてている。彼は地質学の学位を持ち、さまざまな法律の契約において実行している。 二人は客観的起源科学に焦点をあてた組織であるインテリジェント・デザイン・ネットワークの常務を勤めている。

[2] Ernst Mayr, “Darwin’s Influence on Modern Thought,” Scientific American 283.1 (July 2000): 80–82. [強調部分は著者による]

[3] 淘汰(Selection)は選択をする、すなわち判断という意味を持つ言葉です。同義語には選択(choosing)や好み(preferring)があります。この意味で、意志を持たない(mindless)過程は"選択(Select)"しえません。川は抵抗が最も小さい道筋に沿って流れるように選択しません。ナトリウムイオンと塩素イオンは塩の結晶を形成することを選択しません。ガソリンと酸素とスパークは爆発を選択しません。そして水切りは麺をよそうことを選択しません。"自然淘汰"は自家撞着であり、この用語が広く使われていることがこの問題の特徴付ける誤った混乱を招いています。

[4] [強調部分は著者による]
Gene Stowe 「神学と科学を混同しないでください。教授たちは主張した。」サウスベンドトリビューン、1998年2月20日参照。 この定義は米国生物学教師協会により公表されました。苦情により、"監督されない(unsupervised)"という単語は削除されました。http://www.asa3.org/archive/evolution/199610/0058.html (2003年7月11日) および

http://www.nabt.org/sub/position_statements/evolution.asp (2003年6月11日)参照。進化生物学の基本的な主義主張は元のままです: 進化は指導も監督もされない過程です。

[5] The New Encyclopedia Britannica, 15th ed., 1973–1974.

[6] George Gaylord Simpson, The Meaning of Evolution (New Haven, CT: Yale University Press, 1967), 345.

[7] Douglas J. Futuyma, Evolutionary Biology, 3d ed. (Sunderland, MA: Sinauer Associates, Inc. 1998), 5.

[8] Jacques Monod, quoted in Horace Judson, The Eighth Day of Creation (New York: Simon & Schuster, 1979), 217.

[9] 生命の起源を求めて長くて、曲がりくねった旅をしてきたので、がっかりする読者もいるかもしれません。 生命の起源のあらゆる側面にあまりにも多くの推測やモデル理論や論争があり、この科学分野がほとんど絶望的状態にあるとさえ思えます。
Noam Lahav, Biogenesis: Theories of Life’s Origins (Oxford: Oxford University Press, 1999), 302.

[10] 米国科学アカデミーはもっと楽観的です。 「生命の起源を研究している人々の間では、もはや非生物的な要素だけを含む科学過程で生命が発生しうかどうか問題ではない。替わって問われているのは、多くの道筋のどれで最初の細胞が発生したかだ。」Science and Creationism: A View from the National Academy of Sciences, 2d ed. (Washington, D.C.: National
Academy of Sciences, 1999). No hard evidence is presented to support this statement.

[11] 目的論は自然にあるデザインもしくは目的に関する証拠の研究です。

[12] "Consequently, theories of evolution which, in accordance with the philosophies inspiring them, consider the mind as emerging from the forces of living matter, or as a mere epiphenomenon of this matter, are incompatible with the truth about man. Nor are they able to ground the dignity of the human person.”
Pope John Paul II, message to the Pontifical Academy of Sciences (October 22, 1996), “Magisterium Is Concerned with Question of Evolution, for It Involves Conception of Man,” L’Osservatore Romano (English), October 30, 1996, n. 5.

[13] Richard Lewontin, “Billions and Billions of Demons,” The New York Review of Books, January 9, 1997, 31.

[14] Scott C. Todd, “A View from Kansas on that Evolution Debate,” Nature 401.6752 (September 30, 1999): 423.

[15] J. Rennie, “15 Answers to Creationist Nonsense,” Scientific American 287.1 (July 2002): 84.

[16] Robert Wright, Three Scientists and Their Gods (New York: Times Books, 1988), 70–71.

[17] 「重要なポイントは進化に目的のようなもの、あるいは目的論的なものがありえないということだ。固有の目的という考えは、自然を客観的解析の対象でなくしてしまう。生物学者が他の生物学者を目的論者と呼ぶのは侮辱しているに等しい。」Robert Wesson, Beyond Natural Selection (Cambridge: MIT Press, 1991), 10.
2000年には、進化論と矛盾するという理由で、複雑な自然システムにおけるデザインの検出の科学的研究を行っていたベイラー大学(Baylor University)の学部全体が閉鎖されました。
2003年4月にはミシシッピ女子大学の化学の教授が「進化論に対する批判的考え(Critical Thinking on Evolution)」と題するインテリジェント・デザインのような進化論を代替する見方についての講演を行って、解任されました。
Ed Vitagliano, “Professor Dumped Over Evolution Beliefs,” Agape Press, March 11, 2003.
ダラスのテキサス大学でホーマー・モントゴメリー博士が「恐竜の時代」という講義の必要な期末レポートのためのシラバスで以前は、「ソースと題材についての注意... レポートのテーマが反進化論(微生物病因説に反する議論や原子論に反するものも同様)なら、失格とする。創造論者の論文やIDを主題とする論文を科学論文誌は計算しない。私はそのようなものを採択しない。」と書いていた。その後、シラバスは改定されました。2003年6月23日現在のシラバスに関しては、http://www.utdallas.edu/dept/sci_ed/Homer/dinosyllabus.html 参照。
デザイン理論が科学的でないのは、査読されていないからだという議論は陰険です。というのは、この理論を査読することを妨げるデザイン理論を排除する"不文律"があるからです。実際、ID理論は査読されたことがあり、今も査読されています。デザイン理論を主導する科学者であるMichael BeheとWilliam Dembskiのすべての成果は、彼らの主張に反論する自然主義的説明をするために広く査読されている。[訳注: "peer reviewed"に"査読"という訳語をあてたが、本来の意味とは違って、"ただ読まれているだけ"。]

[18] Donald Gould, former editor of New Scientist, “Letting Poetry Loose in the Laboratory,”
New Scientist 135.1836 (August 29, 1992), 51. 「次々と科学者たちが起源科学に対する客観的アプローチを支持することを表明し始めています。そのリストは300名を超えており、その多くが博士学位取得者であり、http://www.IntelligentDesignNetwork.org/polls.pdf. (June 10, 2003) に掲載されています。」

[19]「AAAS評議会は米国の科学の授業でインテリジェント・デザイン理論に反対することを決議した」AAAS press release, November 6, 2002. [http://www.aaas.org/news/releases/2002/1106id.shtml] (June 10, 2003).
AAAS決議への反論はIDnetで読めるでしょう。(June 10, 2003). この決議は2002年10月18日にAAAS評議会理事たちにより承認されました。。

[20] 最新の研究論文は、複雑さと情報とデザインについての国際協会(the International Society for Complexity, Information,and Design)のサイト http://www.ISCID.org. (June 10, 2003)参照。

[21] William Dembski, “The Intelligent Design Movement,” Cosmic Pursuit 1.2 (Spring 1998): 22–26.

[22]“Biology is the study of complicated things that give the appearance of having been designed for a purpose.” 「生物学とはある目的のためにデザインされた表現形を与える複雑なものを研究するものです」Richard Dawkins, The Blind Watchmaker: Why the Evidence of Evolution Reveals a Universe without Design (New York: W.W. Norton & Company, 1996),
フランシス・フリック(DNA構造の共同発見者, 1962年ノーベル賞受賞)によれば、「生物学者は、見たものが出剤されたものではなく、進化したものだということを常に銘記しなければならない。」Francis Crick, What Mad Pursuit: A Personal View of Scientific Discovery (London: Penguin Books, 1990), 138.

[25] Kenneth Chang, “Evolutionary Beliefs: Views in U.S. Much Different Than Elsewhere,”ABC News, August 16, 1999. [http://abcnews.go.com/sections/science/DailyNews/evolutionviews990816.html] (July 2, 2003).

[26] Kenneth R. Miller, Finding Darwin’s God: A Scientists Search for Common Ground Between God and Evolution (New York: HarperCollins, 1999), 187.

[27] "Magisteria"は"教師"に相当するラテン語の単語です。スティーブン・J・グールドは、科学と宗教が別々の、そして、異なった教育権威であると断言する。 残念ながら、どんな真の知的な重さも後者の意見に与えない。
Rocks of Ages: Science and Religion in the Fullness of Life” (London: Jonathan Cape, 2001) 参照。

[28] マノ・シンガム(Mano Singham)は、重複したmagisteriaについての問題について“The Science and Religion Wars,” Phi Delta Kappan 81 (February 2000): 426 で次のように記述しています。「非常に真に重要な問題だと認識しているが、私には解決策はない。我々が科学に対して示唆できる解決策はバイアスのかからない科学的な方法で、データと論理的分析が許す範囲に説明を限り、起源を探求と説明を客観的に行うことだ。そうすれば、生来の人生の目的といった思索的な問題は何であれ、自然と宗教の領分となる。科学が球技の審判のように客観的に探求を行う限り、(審判にも投げつけられる普通の罵倒表現以外に)どちら側にも不満は起こらないはずだ。」
私たちのシンガム博士に対する反論は John Calvert and William Harris, “Ending theWar Between Science and Religion.” [http://www.intelligentdesignnetwork.org/endingwar.htm] (June 10, 2003) 参照。

[29] その決議は「人間の起源の進化論と神の主義の間には、矛盾が全く創造者としてありません。」と再び断言しています。
John Filiatreau, “GA affirms ‘God’s Gift’ curriculum,” 214th general assembly news, June 20, 2002. [http://www.pcusa.org/ga214/news/ga02108.htm] (June 10, 2003).

[30]「神について知られていることが彼らにとって単純なのは、神がそのように創ったから。世界の創造から、神の見えざる性質である永遠の力と神性を、神の創りしものから明らかに見て取り、理解できるので、人間に言い訳はない。」Rom 1:10-20 強調追加。これに対するコメントは次の通りです。「無神論者に言い訳はできません。創造の本質に関する偏見のなく見れば、神の存在は明白になります。」
New International Version Disciples Study Bible (Holoman Bible Publishers, 1988), 1417.

[31] Quoted in Edward Larson and Larry Witham, “Scientists and Religion in America,” Scientific American 283.9 (September 1999).


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2005/11/07 Deismの訳語を「自然神論」から「理神論」に修正。
posted by Kumicit at 2005/10/03 01:13 | Comment(0) | TrackBack(0) | ID Introduction | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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