IDは科学の停止装置ではない....しかし神を問うな
「科学の停止装置(science stopper)」とは「わからないことはIDのせいにし、それ以上の探求を止める」という意味。ID理論サイドは次のように反論する。
Did the discovery that the earth was round“stop science? .... These were discoveries of the truth, and therefore they did, in a sense, “stop” scientific inquiry. They stopped it for the same reason that you stop looking for your car keys when you find them. There is no need for further investigation.
地球が丸いという発見は「科学を止めた」でしょうか?...これらの発見は科学の発展を止めたでしょうか?これらは真理の発見であり、したがって、科学的探究をある意味とめました。彼は、自動車のキーが見つかれば、キーを捜すのをやめるのと同じ意味で、科学的探求を止めたのです。それ以上の探求の必要がなくなったからです。
しかし、なんのことはない。
If ID theory is true and life and its diversity did arise by the action of an unknown intelligent agent, then the only “intelligent” response is to take it as a given (like gravity), stop trying to prove the counter argument, and intensify research efforts into the discovery of how life works, not where it came from.
ID理論が正しければ、生命とその多様性は未知の知的存在によるものであり、そうなれば、(重力と同じく)それを所与のもととして、反論を証明するのをやめて、生命がどこからきたかではなく、生命がどう機能するかの発見に研究を努力を費やすのが、知的対応です。
インテリジェント・デザイナーを問うなと言っている。そう、それ以上、探求するなと。つまり、「科学の停止装置(science stopper)」であることを自白している。
IDは"god of the gaps"理論ではない.....しかし進化論で説明できないものはIDのもの
"god of the gaps"とは、「隙間はすべて神のもの」という論法、つまりは国境紛争で、敵国でないものは自国のもの。ID理論サイドは次のように反論する。
A design inference can be falsified simply by showing a lack of any apparent design or meaning in the pattern, or by demonstrating (not imagining) that unguided natural processes can produce the pattern or object in question.
指導されない自然の過程でそのパターンあるいは物体を創れないかを(想像ではなく)論証して、明らかなデザインや意味がそのパターンに欠けていることを示せば、デザイン推論を論破できます。
論破できない隙間はすべてID理論のもの。
IDは宗教ではない....しかし宗教
Furthermore, a design inference does not seek to advance a particular religious belief system and does not have a clergy, a set of ethics and morals, religious texts or any of the other trappings of recognized religions.
さらに デザイン推論は、特定の信仰システムを唱えようとはしておらず、知られている宗教の聖職者、倫理とモラルのセット、宗教テキストあるいは装飾を持っていません。
であるので、最高裁判所の判例に示される宗教の要件を満たしていないとID理論サイドは主張する。
これはもちろん、創造説や創造科学が裁判で敗退してきたこと意識したもの。ただ、科学であることと、法的に宗教とみなす条件を欠いているかもしれないということは、同じではない。疑似科学や似非科学から与太話まで、宗教と科学の間にはいろいろある。
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以下は途中までの和訳 (かなり一文一文が長い英語であるため、和訳もわかりにくくなってしまった...と言い訳してみる)
Intelligent Design: The Scientific Alternative to Evolution
William S. Harris and John H. Calvert
http://www.intelligentdesignnetwork.org/NCBQ3_3HarrisCalvert.pdf
インテリジェント・デザイン:進化論の科学的代案
つづき....
デザイン理論に対する反論
デザイン検出方法を生命システムに適用すると、それらがデザインされたと結論されますが、誰もが同意するわけではありません。従って、無神論者として、デザインに対する最も有名な批判者である、オックスフォード大学のリチャード・ドーキンス教授はインテリジェント・デザイナーが存在する可能性を認めません。生命におけるデザインは見かけだけ、だたの幻想だと言っています[58]。ドーキンスにとっての真の"デザイナー"は、ダーウィン進化論の具全と必然たる盲目の時計職人です。彼の結論は、彼が証拠として選んだデータと同じくらいに彼の哲学的な先入観に依拠しています。
明らかに、IDに対する最も一般的な批判は進化論を支持するために集められた証拠です。 一般に、それは次のような観測結果です:
1) 化石は存在している。これは地球の歴史において非常多くの種類の形をした生物が存在し、後に出現したものが初期に現れたものより複雑であることを示している。
2) ダーウィンの自然淘汰は自然の中で観測できる。種族の中で病気で弱く老いたものから淘汰され、敏捷なものが生き残る。
3) ある毒(抗生物質)の中で培養されたバクテリアは、DNA(したがってタンパク質も)を変化させて、毒素に対する耐性を身につけ、生き延びる。
4) 多くの動植物が、人間によって品種改良され、DNA構造と彼らの物理的な形態変えられた。従って、生物の形態は不変のもの(ダーウィンの時代には広く信じられていた)ではなく、(少なくとも知的な存在の指示のもとで)変化する。
5) 種を超えた体の形状や特に生物分子の類似性は、共通の祖先がいたことを示唆している。
さらに、自然主義者は個のリストに、ID理論が示唆するデザイナーを誰も見ていないという事実を加えるでしょう。従って、デザインの証拠はないと。しかし、ストーンヘンジのデザイナーを誰も見ていませんが、誰も南イングランドにあるのこの岩石のリングが知的にデザインされたことを疑いません。さらに、最初の生命の誕生とそれに続く多くの変化における意志なき進化過程が機能するのを観察できるわけでもありません。だから、デザイナーを見れないという反論は弱いのです。しかしながら、この反論をするにあたって、ダーウィン進化論者は、科学的に発見に中心的な論理構築の道具を知っています。理論Aを支持するデータは、理論Aと無矛盾でありかつ、競合する理論Bと矛盾するはずだということを。実際、事実上、ダーウィン進化論を実証するのに使われる観測はすべて、ID理論も実証するので、どちらが正しいか証明できません(後述)。この事実が一般あるいは学校生徒に公開されておらず、ダーウィンが正しく実証されており、従って事実であるという間違った印象を与えられたままになっています。話の反部だけしか伝えないのでは教育は教化にしかなりえません。
ダーウィンは 科学界を種の不変性という誤った考えから、きわめてうまく解放しました。それは、彼が動物は(少しは)変化するということを示したからです。これは新しいアイデアではありませんでした。人々は数世紀にわたって品種改良を続けてきたからです。ダーウィンのアイデアが新しい点は、変化に限界がなく、ランダムな変化に自然淘汰がはたらくことで、共通の祖先からすべての生物が生まれたという命題を導けることにあります[59]。これらの仮定は、データからかけ離れた途方もない信念の飛躍です。しかしながら、彼の論理は、宗教優位の息苦しい狭窄から解放されるのを切望していた19世紀の聴衆には無視できないものでした。教会の権威は結局は創造主の存在に依拠しており、その存在は生物界自体によって証明されているものでした[60]。もし、ダーウィンが正しいのであれば、科学は聖書が間違っていることを示したのだから、その証拠による圧制はやみました。
(教科書からテレビまで、日々私たちの文化を満たしている)自然主義仮説を立証する支柱についてさらに説明する必要がありませんが、自然主義が幾つかの重要な"自然"現象を説明できていないことを指摘しておく必要はあるでしょう。たとえば、宇宙の起源、宇宙の法則と定数の起源、生命の起源そして、還元不可能な複雑さの起源。自然主義的科学者は、自然とこれらを一時的に問題とみなします。というのは、科学の歴史は、いったんはミステリーだとされた現象も最後には"自然に"説明がつくという例に満ちているからです。確かにこれは明らかに真実ですが、リアルタイムに、関連変数を完全に制御できる条件で実験ができる実証科学や実験科学などにおける進展であることを忘れてはいけません。それはまた、型破りなことを考えることを推奨するフレームワーク内で実行されています。方法論的自然主義は起源を考える自由を制約します。
IDは「科学の停止装置」か、"God of the Gaps"理論か?
批判者はそのように非難しています[61]。地球が丸いという発見は「科学を止めた」でしょうか?病気の病原菌病原説や、鉛から金を創れないという発見はどうでしょうか?これらの発見は科学の発展を止めたでしょうか?これらは真理の発見であり、したがって、科学的探究をある意味とめました。彼は、自動車のキーが見つかれば、キーを捜すのをやめるのと同じ意味で、科学的探求を止めたのです。それ以上の探求の必要がなくなったからです。何故、私たちがポリオ防止方法や自動車の発明に資金を出さないかと言えば、それはもう答えが出ているからです。ID理論が正しければ、生命とその多様性は未知の知的存在によるものであり、そうなれば、(重力と同じく)それを所与のもととして、反論を証明するのをやめて、生命がどこからきたかではなく、生命がどう機能するかの発見に研究を努力を費やすのが、知的対応です。たとえば、遺伝学の分野では、ゲノムがどれくらい可塑であるかを探求すればよいのです。自然な変化の限界がどこまでで、遺伝子の知的な操作によって、どこまで限界を拡張できるか?遺伝子の挿入と削除でリスをシマリスに変えられるか?遺伝病を治療できるか?そのような有益な発見につながる問いに、注力すべきなのです。私たちの立場から見れば、貴重なリソース(とお金とキャリア)を、仮定が間違っているかもしれない、進化によっていかに私たちが生まれたかを探求することに振り向けるのは、恥です。
科学を前もって決められた採用可能な説明のセットに限るなら「自然な説明はがなければどうするか?」と自然と問うことになります。実際、DNAは知的存在によるものならどうでしょうか。科学は永遠にこれに気づかず、存在しない自然主義的答えの探求に知的資源と金銭的資源を浪費し続けるでしょう。科学の発展は袋小路の発見と間違った理論の排除に大きく依存しています。これが科学の働き方であり、ID理論は科学的探究を抑えるのではなく、推進するものと見るべきです。たとえば、最近公表されたコンピュータシミュレーションは知的入力なしに生命がいかに進化するかを説明するものえあり、これは反対の立場にあるID理論の科学的挑戦に触発されたものです[62]。
IDは"god of the gaps"理論でしょうか?自然法則と偶然によって説明できないものは何でもデザインだとIDは提案したと告発されました。従って、私たちの知識の隙間はすべて神によるデザインだと。それにはあたりません。指導されない自然の過程でそのパターンあるいは物体を創れないかを(想像ではなく)論証して、明らかなデザインや意味がそのパターンに欠けていることを示せば、デザイン推論を論破できます。日々、SETI研究者は電波に隠されたメッセージ(デザイン)がないか検証し、いまだ信号がある例を見つけていません。他方で、競合する仮説としてのデザインではなく、自然主義的説明が"chance of the gaps"あるいは"environment of the gaps"な説明をしています。今日、自然法則と偶然で説明できないことは何でも、(無限の並行宇宙のような)確率のリソースをインフレさせる法則や方法を見つけて、明日には自然法則と偶然で説明できるようなると。それ以外に許されないという理由で、そのような自然法則や偶然による説明があるはずだと。
IDは科学の停止装置でしょうか。いいえ。真の科学の停止装置はデザインを哲学ようなものとして排除する方法論の自然主義です。
IDは宗教であって、科学ではない?
起源の問題への科学的研究法の適用すれば、IDが科学であるが明らかになります。デザイン推論は宗教テキストではなく、本当にデータに基づいています。これはディベートの経緯が証拠です。リチャード・ドーキンスが説明するように、ダーウィンの理論は、彼の時代に支配的だった生命システムがデザインされたように見えるという信念への対論としてつくられました。デザインに反対するのがダーウィン(そしてドーキンス)にとって科学的だというなら、それに同意しないことが科学的です。デザイン理論は一般真理を探究するという科学の伝統的な定義と矛盾しません[65]。
科学組織やその他の組織はデザイン理論に対する数多くの反論をあげて都合よく進化論に生命の起源の説明を独占させようとしてきました。ひとつの反論はデザイン理論が検証不可能で、予言不可能だとうものです。前述のように、デザイン推論は他の伝統的なすべて科学においてつかわれる検証テクニックによって検証できるかもしれません。よい例がSETIプログラムです。さらに、進化論は競合する理論と対比され、比較検討されねばならず、ID理論はその起源科学の部分を担います。
デザイン理論は予測をしないで、科学的でないと主張している者もいます。まず始めに注意すべきは、進化の定義そのものが予測不可能です[66]が、デザイン理論は実際に予測可能なことです。たとえば、ゲノムはある目的のためにデザインされており、ジャンクDNAと呼ばれる部分にも機能があると予言します。そして、この予言は最近実証されました[67]。
IDは生物学的システムが、偶然と法則によるもではなく、意志によるものだと仮定します。この予言は日々、生化学者が生化学機械の"リーバスエンジニアリング"をしようとするとき使います。すなわち、それらのアーキテクチャに組み込まれたデザインの決定事項をさがすことになるからです。William Harveyはデザイン理論を使って、心臓と静脈および動脈の構造を基に、血液がどう循環するかを発見しました。そのようなデザインに対する反論は、起源についての知識を高めるのではなく、議論からデザインを都合よく排除し、知的デザイナーの支持するいかなる科学的証拠も抑圧するためにつくられたつじつまの合わない弁解に過ぎません。
IDは宗教ですか? とんでもない。いかなる宗教テキストからでもなく、単に客観的データから得られた論理的な推論です。おそらく最も重要なことは、試験的仮説(方法論の自然主義のような)であって、信念と承認を必要とする主義ではありません。デザイン仮説はそれが当然のことと思われるのを必要としません。 どんな「宗教」(国教禁止条項目的のための)の主要な要件もそれが信念システムであるということです[68]。デザイン理論と進化は、理論あるいは仮説として、宗教に重要な問題を記述しますが、最高裁判所が、組み合わせた結果が特定のあるいはすべての宗教の教義と一致あるいは調和したとしても、材料の組み合わせだけでは宗教を構成しないと判断しました[69]。さらに デザイン推論は、特定の信仰システムを唱えようとはしておらず、知られている宗教の聖職者、倫理とモラルのセット、宗教テキストあるいは装飾を持っていません。
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原注
[58]「すべての見かけとは反対に、非常に特別な方法で配置されるにもかかわらず、自然の唯一の時計職人は物理という盲目の力だ。本当の時計職人には先見の明がある。心眼で将来の目標のもとで、彼は歯車とスプリングを設計し、その接続を計画する。ダーウィンが発見し、すべての生物の存在と見た目に目的ある形状の説明であると知っている、盲目にして無意識の自動プロセスたる自然淘汰には何の目的もない。」リチャード・ドーキンス「盲目の時計職人」, 5.
[59]「自然の選択の力が、長い時の流れの中で働けば、変化の量に限界はないはずだ。」ダーウィン:種の起源 114
「この世界に住む数えきれない種, 属, 科はみな世代を重ね、それぞれの綱や群の中で、共通の祖先から、世代を経て変化してきたと、その他の事実と議論がこれを支持しなくとも、この視点を躊躇なく採用する。」ダーウィン:種の起源 457
[60] [30]参照
[61] 国家科学教育センターのEugenie Scottによれば、「デザイン理論とは、『さて、やられ、それはわからない。だから、神の為せるわざにしよう』というものであり、いったん神の為せるわざにしてしまえば、それ以上、自然の原理について考えなくなるだろう。だから我々は停止装置(stopper)と呼ぶのだ。」
Nina Shapiro, “The New Creationists: Seattle’s Discovery Institute Leads a National Movement
Challenging Darwinism,” Seattle Weekly, April 19–25, 2001.
[62] Lenski et al., “Evolutionary Origin.”
[63] Demarcation criteria (i.e., characteristics that reliably distinguish real from pseudoscience) have been highly criticized by highly regarded philosophers of science. Larry Laudan,“Science at the Bar: Causes for Concern,” in Michael Ruse, ed., But Is It Science? (Buffalo, N.Y.: Prometheus Books, 1988), 351–355; Philip Quinn, “The Philosopher of Science as Expert Witness,” in ibid., 367–385; David K. DeWolf, Stephen C. Meyer, and Mark E. DeForest, “Teaching the Origins Controversy: Science or Religion or Speech,” Utah Law Review 39.1 (2000): 68–75.
[64] リチャード・ドーキンス「盲目の時計職人」, 6.
[65] 「科学は真実の探求と世界を理解するための努力です; それはバイアス、教義、天啓を拒絶しますが、道徳は拒絶しません。科学者の仕事は世界を観察し、現象を記録し、それを解析することです。」
Barbara Marinacci, “Linus Pauling: Scientist for the Ages,” quoting Linus Pauling, The Linus Pauling Institute website [http://lpi.oregonstate.edu/lpbio/lpbio2.html] (July 11, 2003).
科学は、一般真理の発見や一般法則の機能に関して体系化され定式化された知識を集め受け入れます。
知識は分類され、研究や生活あるいは真理の探究に使えるようにします。包括的であるか、深遠であるか、哲学的な知識であるかに。 特に知識は、科学的方法を使ってテストされ手に入ります。
Webster’s Third New International Dictionary of the English Language, unabridged (1993).
[66] National Association of Biology Teachers, [4]参照
[67] S. Hirotsune. et al., “An Expressed Pseudogene Regulates the Messenger-RNA Stability of Its Homologous Coding Gene,” Nature 423.6935 (May 1, 2003): 91–96.
[68] Alvarado v. City of San Jose, 94 F3d 1223, 1229 (9th Cir. 1996), where the court formulated the following definition of religion:
第1に宗教は深遠で評価不可能なものと関連した原理的で究極の質問に取り組みます。第2に宗教は、個々に独立した教育と対照的に信仰システムからなり、本質的に包括的です。第3に、宗教はしばしば、形式的で外から見てわから徴によって識別されます。
[69] Edwards v. Aguillard, 482 U.S. 578, 605 (1987); Alvarado v. City of San Jose, 94 F3d1223, 1232, and Fleischfresser v. Directors of School District 200, 15 F3rd 680, 689 (7th Cir. 1994).
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