2007/01/07

統一教会の教義を語り始める渡辺久義先生

韓国産カルトである統一教会(Unification Church)は、聖書を経典のひとつとしているらしいが、キリスト教とはみなされていない。このUnification Churchの信者にはインテリジェントデザイン理論家で、進化論破壊を誓って、Unification Churchの奨学金で大学院に進学したDr. Jonathan Wellsがいる。ただし、Jonathan Wellsは統一教会の教義宣伝をしているわけでもなく、Dembskiのようにインテリジェントデザイン文書を量産しているわけでもない。執筆作品も過去の創造論者のネタのコピペである。

==>忘却からの帰還:Jonathan Well第1章へのツッコミ by bhumburg

銃器からツボまで何でも売ってるカルト企業グループたる統一教会[はてな]にとって、教義などどうでもよいのかもしれない。一応、キリスト教のふりをしているので、反進化論なのだろう。日本の信者たちページをぐぐってみると...と陳腐and/orトンデモで、見るべきものもない。

そんな統一教会の下部組織の一つ勝共連合[はてな]の関連会社である世界日報[はてな]の月刊誌「世界思想」に連載記事を書いて、そらくは老後の小遣い銭を稼いでいると思われる渡辺久義先生。この渡辺久義先生が、ついに2007年1月号で、ネタをインテリジェントデザインから統一教会の教義に変更された:
聞いたことはあっても、どうせ韓国から出てくるようなものにロクなものはなかろう、特殊な教団の特殊な考え方に決まっている、と決め付けて見向きもしない。それどころか、「統一思想」などという名を口にすることさえ、我が国ではヤバイのである。[第49回/(2007年1月号)]
原産地が韓国でなくても破壊的カルトはヤバイんですけどね。

また、韓国はキリスト教の勢力(プロテスタントが18.6%、カトリック7.0%)が強く、それだけ創造論支持者も多くいるもようだが、韓国の創造論団体のページのコンテンツは、Answers in GenesisやInstitute for Creation Researchといった米国の有力な創造論団体と比べて、あまりにもショボイ。

==>忘却からの帰還:韓国の創造論団体KACR

「韓国から出てくるようなものにロクなものはない」かどうかは知らないが、少なくとも「韓国から出てくる創造論」はゴミだろう。渡辺久義先生にも、それくらいは見ておいてほしいものである。


とはいえ、渡辺久義先生は、どうも統一教会の教義には関心がなかったようだ:
この生命の二面を表わす概念が、統一思想のキーワードである「性相」と「形状」である。これはこれまでにも何度か軽く触れた。そのときは便宜上、これを我々の知っている最もそれに近い概念であるアリストテレスの「形相」と「質料」に置き換えて説明したかもしれない。当面はそう考えてもよい。しかし統一思想のこれらの概念の方が、はるかに強力な「説明力」(ID派のよく使う言葉)を持つのである。

[第49回/(2007年1月号)]
「アリストテレスの形相と質料に置き換えて説明したかもしれない」とは、また記憶も怪しい表現。もともと"アリストテレスの目的因からの説明"の唯一絶対新バージョンを語っただけ[第19回]だったのを、無理やり教義の話をしたことにしているように見える。

「渡辺久義バージョンたる聞きかじりなインテリジェントデザイン」にはツッコミを入れる楽しみもあるのだが、「渡辺久義バージョンの聞きかじりなカルトの教義」には興味もわかない。ということで、このあたりで、追跡終了のつもり。

タグ:渡辺久義
posted by Kumicit at 2007/01/07 00:01 | Comment(0) | TrackBack(0) | Hisayoshi | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006/11/24

フロントローディングなような、そうでないような渡辺久義先生

日本国内のほぼ唯一のインテリジェントデザイン宣伝者"渡辺久義"先生。しかし、実はインテリジェントデザインの主張がよくわかっていない。特に、デザインの持込がフロントローディング(初期値や自然法則や乱数の形で宇宙誕生時に持ち込まれている)か、介入(宇宙誕生後にデザインを持ち込む)なのか、区別がはっきりしない。

フロントローディングなら有神論的進化論と違わないし、科学の範疇としてはオッカムの剃刀の原則によりデザイナーの出番はなくなる。一方、介入であるなら、自然法則では説明できない奇跡である。すなわち、"God of the gaps"論として科学の隙間に神を見出す形となる。大きな違いだ(もっとも、インテリジェントデザイン理論家Dr. William A. Dembski自身もはっきりしないのだけどね)。

ということで、"奇跡"についての渡辺久義先生の記述を見てみよう。まずは、ファインチューニング系から:
因みに「火それ自体が驚くべき現象である」だけでない。酸素そのものが極めて危険なものであるのに、我々がそれのおかげで生きているということが奇跡的なのだという。
http://www.dcsociety.org/id/ningen_genri/014.html [2004/02]

で、ファインチューニングで押し通すかと思えば、介入なのかフロントローディングなのかよくわからない記述:
しかしその素材は、たまたまそこにあったというものではない。素材自体がデザインされたものである。宇宙はその素材を作るのに何十億年をかけて、まず素粒子そして水素から始め、炭素、窒素、酸素へと次第に重い元素を、爆発を繰り返す星々の内部で作り出し、それらを使って最後には、我々のような高等生物とそれらが住めるこの奇跡的な惑星を作っていったと考えざるをえないのである。
http://www.dcsociety.org/id/ningen_genri/019.html [2004/07]
ところが、翌月にはインテリジェントデザイン宇宙版である「Guillermo Gonzalez & Jay W. Richards: "Priviledged Planet"」の引用で、ファインチューニング論にもどる:
誰もが当たり前のことだと思っている、太陽と月の見かけの大きさがほぼ同じで、日蝕時に(天文学者にとって重要な)コロナが観測できるということも奇跡的なこと、つまり宇宙のどこにもそういう場所は存在しないのだという。また本誌で読者の方が指摘されたことがある(二〇〇三、七月号)、銀河系の中での一見辺鄙と見える我々の位置、これも宇宙観測のためにはここしかないという位置であるという。
http://dcsociety.org/id/ningen_genri/020.html [2004/08]
翌月も:
奇跡的な太陽系の配置
 しかも「系」をさらに大きくとって、太陽(系)と我々の銀河系の関係に目を移しても、やはり奇跡的としか言いようのない配置が見えてくるようである。
http://dcsociety.org/id/ningen_genri/021.html [2004/09]
で、フロントローディングに傾き:
果してぺノックは、「科学はただもっと謙虚な方法論的な意味で自然主義を固守するだけなのだ」と言ったその意味をこう説明している――「すなわち奇跡とか、他の自然の因果律の規則性を破るような超自然的な介入に訴えることを、自らに許さないということである。」
これはインテリジェント・デザインをそういうものと見ているということであり、いわばデザイン論の戯画化である。つまり、この物理的原因だけによって成り立っている自然界に、神が天から「介入」してきて物理法則を破って奇跡を起こさせてまた帰っていく、というふうにデザイン論を解釈しようとしているのである。デザイン論は決してそういうものではない。
http://dcsociety.org/id/ningen_genri/026.html [2005/02]
インテリジェントデザインは「自然法則からの逸脱という奇跡」ではないと言い出す。

そして、忘れた頃に再び「Guillermo Gonzalez & Jay W. Richards: "Priviledged Planet"」の引用で:
この本[特権的惑星]は単に、人間が住むのに適したこのような環境(地球)が存在することが奇跡的であることを論証するだけでない。副題に「宇宙での我々の場所がいかに発見のためにデザインされているか」というように、我々の生命を可能にする条件が、同時に宇宙観測を可能にする条件でもあること(本来、この二つは別のものであるにもかかわらず)、そして我々人間が宇宙進化のこの時この場所で、宇宙についての真理を悟るように、観測機器を作るための条件も、我々の頭脳そのものも、精密に合わせられていることを指摘する。
http://www.dcsociety.org/id/ningen_genri/036.html [2005/12]
そして続けて翌月も:
宇宙のファイン・チューニングの権威者と目されるヒュー・ロス(Hugh Ross)によれば、「神の奇跡の介入なしに」この地球が生まれる確率は、十の二百八十二乗分の一だと言う。唯物論科学者はこういった事実には目をつぶるか、あくまで偶然だと言い張るか、驚かないための工夫(「多宇宙仮説」など)をいろいろするか、いずれかであろう。「コペルニクス原理」の呪縛がいかに強いかがそこに現れる。
http://www.dcsociety.org/id/ningen_genri/037.html [2006/01]
Brandon Carterによる観測選択効果としての人間原理と、インテリジェントデザイン理論家たちが使う宗教バージョンの人間原理[named by 三浦俊彦]を、ファインチューニングでは区別できない。いずれも科学の範疇外でもある。また、宗教バージョンの主唱者のひとりらしい、古い地球の創造論サイトReasons to Believeの主宰者Hugh Rossを持ち出しているところもお笑いだが。

そして、ちょっと別の流れで:
しかし彼[ドーキンス]が宗教というときに見えているものは、奇跡や霊現象といった宗教の表面 だけであって、宗教の本質、ものの本質を見ようとする態度(能力とは言うまい)が不思議なほど彼には欠けている。
http://dcsociety.org/id/ningen_genri/041.html [2006/05]
と言った後で、統一教会信者Jonathan Wellsを引用する:
ウエルズの「不適者生存」から引用する――
その当時(一九五〇年代)それは進化論の劇的な確証であると思われた。生命は「奇跡」などでなく、いかなる外力も神の知性も必要でない。ガスを正しく組み合わせて電気を加えれば、それで生命は発生するのだ。
http://dcsociety.org/id/ningen_genri/044.html [2006/08]
これは、フロントローディングか介入かわからない表現。

さて、渡辺久義先生はオッカムの剃刀で削り取られてしまうフロントローディングを選ぶのか、それとも"God of the gaps"な介入を選ぶのか?

posted by Kumicit at 2006/11/24 00:01 | Comment(0) | TrackBack(0) | Hisayoshi | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006/11/06

渡辺久義バージョンの目的論は富樫人工世界と同じになる

渡辺久義先生の宗教バージョンな目的論

まずは渡辺久義先生によるアリストテレスの目的論の解説から:
アリストテレスが考えた自然界の生成に働く四つの原因とは、「形相因」「目的因」「質料因」「作用因」であるが、彼はこれを説明するのに大工が家を建てる例を使っている。「形相因」とは建てようとする家の設計図(紙に描かれていても頭の中にあるものでもよい)であり、「目的因」とはその家を建てる動機としての使用目的であり、「質料因」とは木材やコンクリートといった建築材料であり、「作用因」とは大工の労働力である。この四つの原因(causeであるが本当は要因であろう)がなければ、いかなるものも生じたり成長したりすることはないという。

つまり近代科学は、アリストテレスの四つの原因のうちの「質料因」と「作用因」だけを残して「形相因」と「目的因」を切り捨ててしまったのである。しかしアリストテレスにとっては、宇宙自然界には当然、目的があり、動機があり、「デザイン」があった。従って彼にとっては、大工の例は違和感のないごく自然なものであったと思われる。
...
アリストテレスの世界観は目的論的世界観と言われる。これに対して近代科学のそれは機械論的世界観と言われる。そして今、科学者たちは嫌でも目的論的観点を無視できないような状況に追い込まれていると言ってよいであろう。まず何より宇宙自然の本質は、機械作用でなく創造でなければならない。そして創造には目的がなければならない。目的も意味もない創造などというものはない。

[渡辺久義: 現実を解明する形而上学, 2004/7],強調はKumicitによる
「宇宙自然界には当然、目的があり、動機があり、デザインがあった」とアリストテレスが考えていたというの渡辺久義先生の主張らしい。変なつながりでアリストテレスが「宇宙自然の本質は、機械作用でなく創造でなければならない」と言ったように読めるが、もちろんそこは渡辺久義先生の主張であり、宗教バージョンな目的論。

だいたい「本質」なんて、自然法則で機械仕掛けの宇宙を記述する機械論が取り扱かえるものではないので、科学は「宇宙自然の本質は、機械作用でなく創造でなければならない」を肯定も否定もしない。

アリストテレスな目的論の流れで現在の物理を考えるなら:
この目的因をめぐってアリストテレス以来激しい論争が繰り返されてきたのである。たとえばケプラー、ニュートン、カントといった近代科学の創始者ですら、目的因の立場にたっていたのである。目的因が敗退したかに見えるのはごく最近のことである。

 現代物理学においては、あらゆる基礎方程式は変分原理というものから導かれる。これは簡単にいえば、物理法則はある関数( 作用とかラグランジュアンなど) の積分を極大または極小にするように決まるというのである。なんのことか分からない人のために変分原理の例をあげよう。光の伝播に関するフェルマーの原理というものがある。それによると、たとえば空気中から水の中のある点に光が進む時、光は直線上を進むのではなく、最短時間で行けるように屈折した道筋を進むのである。つまり光はあらかじめ行くべき点を知っており、最短時間になるように進む道を選んでいるかのように振る舞うのである。これなどは目的因と解釈することができる。その意味で現代物理を目的因的に再構築することも可能なのである。

[松田卓也:まじめな天文学者のまじめなET探し]
という方向になるはずだ。といっても、あくまでも、機械論で記述できている限界のすぐ外側を、"目的因的"に記述をするに過ぎないが。


渡辺久義先生の宗教バージョンな目的論は、富樫人工世界と同じ論理を使う

「目的がある」という宗教バージョンな目的論を唱えた渡辺久義先生は:
私は以前ある人から、花はすべて人間の目の高さに合わせて咲くようになっている、我々の目よりも低い花は上を向いて咲き、それより高い花はほぼ下を向いて咲く、という話を聞いてはっと目を開かれたことがある。考えてみればまさにその通りではないか。花はネズミの目やキリンの目に合わせて咲きはしない。「人間原理」などという言葉を聞くよりも前のことであったが、これも事例を積み重ねていくことによってますます強固なものになっていく「人間原理」的事実の一つである。デントンが指摘する通り、火が人間の体格に合わせた手ごろなサイズと付き易さ(ほどよい付きにくさ)になっているように、花も我々人間に合わせて咲くようになっていると考えざるをえない。

[渡辺久義: 火と数学を同列においてみるということ, 2004/2]
青木繁伸:植物園を見れば、:スズランとか、カキランとかクリスマス・ローズとか低いけど下向きの花があるけど、何か?

渡辺久義先生の間抜けなボケで、事実に基づかないネタを述べているが、それはよくあること。問題はその論拠によって主張された「花は人間のために咲いている」である。この主張は、富樫人工世界の論拠と同類である:
火と人の血と植物と空と海は因果律的にいって全く無関係であり、並列的な関係になってない。植物と火は何の縁もないし、人の血と空の間に何の繋がりもない、これは直感的にいって当然認められることであろう。この宇宙がわざわざ質感上の無条件なそれらしさに合わせて世界を流出させる義務はないから、空はどんな色(光の反射波長)でもよく、植物は何だっていいし、火が赤色でなければならないという要請はどこにもない。従ってもしこの宇宙が基底現実であるならば、それぞれがまるで他の存在を気遣うかのように的確な比で並び、都合よく熱い太陽や火が赤色系で、温かみのある人間の血が赤で、空と海が涼しげに青系で、植物が質感的に鬱陶しくないように緑に成るなどということは決して起こらない。当然質感者を無視してそれぞれが独自に光の波長を偶然的に設定するから、例えば空は不気味に赤黒く、海は黄色く、太陽は紫に、火は青に、植物は鬱陶しいピンクに、人間の血は気色悪く黄緑色に−という風になる。従って生まれた子供はいきなり泣き崩れることになる(雪は温感論に含まれないが、もし雪が白でない世界というものを想像すれば、どうなるかというと−雪が積もると非常にうるさく重々しい質感印象の世界になってしまう、従って雪は白でなければならない)。

[富樫:人工世界 (神の存在証明の続き)]
既に述べたように[対富樫人工世界(2) 人工世界を証明できない書かれざる前提]、富樫氏もボケまくりだが、それは今回のネタではない。ここで注目すべきは、「色彩は人間に合わせて調整されている」という渡辺久義先生と何ら違わない主張をしていること。

これは、富樫人工世界と渡辺久義バージョンのインテリジェントデザインが同じフレームワークで論を進めていることによって起きた一致である。

Simulation Argumentで、「"ここ"がシミュレーションではなく、基底的現実だ」ということは原理的に証明できない。それは、"ここ"が基底的現実と区別がつかないように創られたシミュレーションであるという主張を覆す方法がないから。しかし、「"ここ"がシミュレーションである」という主張は証明可能かというと、このSimulation Argumentの主唱者であるOxford UniversityのNick Bostromによれば:
9. Isn’t the simulation-hypothesis untestable?[The Simulation Argument FAQ]

There are clearly possible observations that would show that we are in a simulation. For example, the simulators could make a “window” pop up in front of you with the text “YOU ARE LIVING IN A COMPUTER SIMULATION. CLICK HERE FOR MORE INFORMATION.” Or they could uplift you into their level of reality.

我々がシミュレーション中であることを示す明らかにありうべき観測が存在する。たとえば、シミュレーションがあなたの目の前に"ウィンドウ"をポップアップさせて、「あなたはコンピュータ・シミュレーションの中で生きている。さらに情報がほしいときはここをクリック」という文字列の表示。あるいは彼らがあなたを、彼らのレベルの現実に引き上げる。
有神論についても同じ構図がある。

有神論の否定は原理的に不可能。"God of the3 gaps"を埋め尽くしたとしても、「そのような自然法則を創ったのは神である」という主張を覆す方法がないから。しかし、「神が存在する」ことを証明することもほとんど不可能。自然法則からの逸脱すなわち"God of the gaps"によって神を証明しようとしても、人間が自然法則について全知でない限り、それが奇跡なのか人間が自然法則を知らないだけなのか識別できない。そして、奇跡にたよれなくなると、自然法則の見事さの背後に神を置くしかなくなる。

そして、富樫人工世界と渡辺久義バージョンのインテリジェントデザインは花とか色彩とかのチューニングを論拠にする。主張を入れ替えて、「色彩は人間に合わせて調整されているからデザインだ」と「花は人間に合わせて咲いているから人工世界だ」とやっても何ら違和感もなく、論理的もちゃんと成立する。

それはすなわち、富樫氏と渡辺久義先生は同じ証拠で違う主張を証明しようとしていることを意味する。

posted by Kumicit at 2006/11/06 00:01 | Comment(6) | TrackBack(0) | Hisayoshi | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006/10/31

神と科学をつなぐ渡辺久義先生

たまには、渡辺久義先生による、統一教会の下部組織である世界日報の連載"人間原理シリーズ"も見ておこう。ということで今日は「デザイン理論は科学と神学をつなぐ」を見てみる。

表紙見返しの宣伝文をDembskiの書いた文のように紹介する渡辺久義先生

科学と神学をつなぐ

ウイリアム・デムスキーの『インテリジェント・デザイン――科学と神学をつなぐもの』(Intelligent Design: The Bridge Between Science & Theology)の冒頭にはこうある。
インテリジェント・デザインとは次の三つのものである。すなわち、知的要因(intelligent causes)の結果を研究する科学的な研究プログラム、ダーウィニズムとその自然主義的遺産に挑戦する知的運動、および神の行為を理解する一つの方法。インテリジェント・デザインは従って、科学と神学を横断するものである。
[強調はKumicitによる]
これは冒頭ではなく、表紙見返しである。もちろん文責はDr. William Dembskiではなく、出版社である。実際の表紙見返しには:
The intelligent design movement is three things: a scientific research program for investigating the effects of intelligent causes, an intellectual movement that challenges naturalistic evolutionary theories, and a way of understanding devine action. Although the fast-growing movement has gained considarable grassroots support, many scientists and theologians remain skeptical about its merits. Scientists worry that it is bad science (merely creationism in disguise) and theologians worry that it is bad theology (misundestanding divine action). In this book William Dembski addresses just such concerns and brilliantly argues that intelligent design provides a crucial link between science and theology.
...
インテリジェント・デザイン運動とは次の3つである。インテリジェントな原因の効果を研究する科学的研究プログラム、自然主義的進化論への挑戦、および神の行為を理解する一つの方法。急成長した運動は、かなりの草の根の支持を集めたが、多くの科学者と神学者たちはこれのメリットについて懐疑的なままである。科学者たちは偽装された創造科学に過ぎない悪い科学ではないかと疑い、神の行動を誤解する悪い神学ではないかと疑う。この本でWillam Dembskiは、そのような懸念に対処し、インテリジェントデザインが科学と神の間を重要なつながりを提示することをこの本でWilliam Dembskiは指摘する

[William Dembski: "Intelligent Design"のFront Flap]
とあって、渡辺久義先生は強調部分を落として訳をつけて、Dr. William Dembskiが書いたかのように紹介している。しかも、一般人相手にはそこそこ商売できているが、科学と神学の両分野で成功していないと自ら認めたような部分も削除して。


方法論的自然主義を否定する渡辺久義先生

方法論的自然主義とは、機械仕掛けの宇宙を自然法則で記述しようとした機械論の登場時点から存在している原則であり、今も科学の原則である。「自然法則で記述」する以上は、自然法則の外側は取り扱い対象外となる。超越的な神は、その存否を含めて取り扱い対象外である。すなわち、科学的には超越的な神の存在を肯定も否定もしない。

これに対して、インテリジェントデザインでは科学を再定義し、自然法則の外側に言及しようとする。それは、機械論の隙間に神を見出す"God of the gaps"論という形をとる。この立場を渡辺久義先生は記述する:
、「生命も含めたこの宇宙のすべては物理力・自然力によって説明できる。たとえ困難があってもそれで押し通せ。宇宙は自己充足的なものでなければならないのだから」という至上命令である。
 なぜそんなふうに断定し、自分で自分を縛るようなことをしなければならないのか、というのがデザイン論者のぶっつける疑問である。
これは、科学は、形而上学的自然主義すなわち神は存在しないという立場だと言って批判する創造論やインテリジェントデザインの基本パターン。

で、何故かファインチューニング論へ進む:
これが外からの知的な働き(すなわちデザイン)によるものと十分に推定され得るのは、「爆発」の当初から、将来、今あるような生命と生命環境を作り出すために必要な、恐るべき精度でファイン・チューニング(微調整)された物理的数値がいくつも重なっていて、そのすべてがクリアされなければ(すなわち、どの一つがわずかに狂っていても)今あるこの世界は作られていなかったという計測的事実による。ヒュー・ロスの『創造者と宇宙』(連載初回に紹介した)によれば、それは強い核力、弱い核力、重力、電磁力それぞれの常数、重力常数に対する電磁力常数の比、陽子に対する電子の質量比、宇宙の膨張速度、光速など三十五項目に及ぶ。
Brandon Carterによる観測選択効果としての人間原理と、インテリジェントデザイン理論家たちが使う宗教バージョンの人間原理[named by 三浦俊彦]を、ファインチューニングでは区別できない。そして、神がいても(宗教バージョン)でも、いなくても(Brandon Carterバージョン)結果は同じなので、神の存否とは無関係に、オッカムの剃刀の原則により、宗教バージョンは科学の外側に放り出されてしまう。

ついでだが、「ヒュー・ロス」とは古い地球の創造論の老舗サイトReasons to Believe主宰のDr. Hugh Rossのこと。

さらに、ここであっさり"Science Stopper"を宣言してしまう:
だからインテリジェント・デザイン運動は神から始まるのではない。自然界をもっと自由な立場で合理的に説明しようとすると、結果として神に行き着くということにすぎない。
「鞭毛はデザインだ」以上に前へ進むことがないインテリジェントデザイン、すなわち「神に行き着いたらゴール」ということ。

つまり、「それ以上は問うな=Science Stopper」


で、つなぐ先の神学とは

ファインチューニング論から宗教バージョンの人間原理へ至る、この渡辺久義先生のルートで、どんな神学にたどりつくだろうか。

Nick Bostrom: シミュレーション・アーギュメント

それとも

フィリップ・K. ディック: 世界をわが手に [Amazon]
エドモンド・ハミルトン: フェッセンデンの宇宙 [Amazon]

あるいは

涼宮ハルヒの憂鬱[wiki]

さて、渡辺久義先生の神学はこれらを超えるほど立派かな?

posted by Kumicit at 2006/10/31 00:01 | Comment(0) | TrackBack(0) | Hisayoshi | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006/10/01

人間原理を知らない渡辺久義先生

高らかに「人間原理」をかかげる渡辺久義先生。しかし、おそらく渡辺久義先生は「人間原理」を知らない。

観測選択効果であって、目的論でも有神論でもない人間原理

人間原理の主唱者のひとりであるJohn Leslieは、人間原理が観測選択効果を主張するものであって、目的論や有神論とは無関係であることを強調している:
Carter's weak principle reminds us of the obvious but oft neglected truth that our place and time must, granted that we are in fact there, be a place and time in which observers can exist: they are not, for example, fried immediately, as they would be shortly after the Big Bang.

Carter's strong principle similarly reminds us that our universe must -- as we do exist in it, don't we? -- be a universe whose nature is not observer-excluding: it is not, say, a universe which recollapses a fraction of a second after beginning its expansion so that intelligent life has insufficient time to evolve.

Carterの弱い人間原理は、我々が存在する場所と時間が、我々が実際そこにいることを認められて、観測者ーが存在できる場所と時間でなければならないという、明らかでありながら、たびたび無視される事実を思い起こさせる。もしそうでないなら、たとえばビッグバンの直後であれば、即死する。

Carterの強い人間原理は、同様に、我々の宇宙が、我々がその中に存在するように、観測者を除外しないという性質を持つ宇宙だということを思い起こさせる。そうでないなら、膨張が始まって1秒後に再崩壊する宇宙では、知的生命が進化するには十分な時間がない。

...

Corresponding the anthropic principle as Carter intended it to be understood, has nothing to do with teleology or theism. Not even Carter's strong principle says that God ensured that the universe's properties permitted or necessitated the evolution of intelligent life. Again Carter's anthropic principle in no way declares idealistically, that to be is the same as to be observed, either for philosophical or for quantum-physical reasons.

Nevertheless one must remember that the evidence of fine tuning could well be interpreted teleologically or theistically (or maybe even idealistically) instead of being explained in terms of many, very diverse universes and "anthropic" observational selection.

Carterが意図したように人間原理を理解するなら、それは目的論や有神論とは無関係だ。Carterの強い人間原理といえども、知的生命の進化を許容あるいは必然とする宇宙の性質を神が保証するとは言っていない。Carterの人間原理は観念論的に、哲学的あるいは量子物理的な理由でも、ありうるものと観測されるものが同じだとは決して言わない。

しかしながら、ファインチューニングの証拠は、多数の非常に多様な宇宙と人間原理の観測選択効果ではなく、目的論的あるいは有神論的にも解釈できるかもしれないことを銘記しよう。

John Leslie: The Anthropic Principle Today, Final Causality in Nature and Human Affairs, The Catholic University of America Press, 1997, reprinted in Modern Cosmology & Philosophy [Amazon] (pp.295-296)

人間原理の支持者である三浦俊彦は、この観測選択効果は、むしろ人間に宇宙を外から眺める客観的特権者ではないという形で、コペルニクス的な世界観を強化するものと論じる:
脱人間中心主義が極まると、逆の意味での人間中心主義が浸透してしまうことに注意しなければならない。客観的探求という虚構のもとで人間は、探求者としての人間自身を常に括弧に入れて、世界の外側に括り出すことになる。人間は宇宙を外から眺める客観的特権者となる。宇宙の中心から辺縁へずれてゆきやがて消滅した人間の消失点が、神の視点となってしまうのだ。

ディッケの提案は、観測者としての人間を再び宇宙の構造に組み込むことにより、逆に人間の非特権性を思い出させたものと言ってよい。人間は岩や川や太陽や銀河や他の事物と同様、自然法則に従う物質の一部である。その人間の存在が宇宙の定数どうしのあるバランスの上に成り立っているというのも、人間が宇宙内の一定条件下における自然現象である以上、当然のことであろう。

コペルニクス的世界観を逆転させて再び天動説的な人間中心主義に科学を引き戻すかに思われたディッケ説の外見は、それこそ見かけ上のことにすぎない。太陽が重力や電子の力の特定のバランスの上に成り立っているの同様、生命や人間もある条件が満たされたときにのみ発生する、という唯物的な世界観の延長に他ならないのだ。人間は自然の中で特別な傍観的位置にいるのではない、という形で私たちの存在を相対化し、コペルニクス的な近代科学的世界観をさらに確認しているのである。

三浦俊彦: 論理学入門, NHKブックス, pp 148-162, 2000 [Amazon](p.152)


Kumicit自身は人間原理に対して否定的である。それは人間原理の観測選択効果によって、いかなる反進化論な証拠も論も、進化のメカニズムが不明であっても、撃滅可能だからだ。インテリジェントデザイン理論のような「確率が小さいことを証拠とする"God of the gaps"論」だと、何を主張したところで、この人間原理の観測選択効果の前には無力である。自動的に迎撃されてしまう。



人間原理を知らない渡辺久義先生

統一教会の下部組織である勝共連合系の世界日報の『世界思想』に掲載されている渡辺久義先生の「人間原理の探求」連載の第1回「目的論的世界観と「人間原理」」で、見事に人間原理について無知ぶりを発揮されている。

渡辺久義先生の言う人間原理は、Tiplerバージョンのオメガポイント理論すなわち最終人間原理のようだ:
やはり太陽は我々のためにそこに置かれ、花々は我々人間のために咲くのではないだろうか。「人間原理」(Anthropic Principle)という天文学者や物理学者から提起された注目すべき原理は、人間がこの宇宙で特別 に配慮された、特別の意味をもつ存在だと考えることを滑稽な幻想だとするこれまでの考えを、完全に打ち砕くものであるように思われる。科学の名において宇宙の物理的中心からはずされた人間が、科学の名において今度は宇宙の意味的中心に据えられることになったのである。これを「コペルニクス的逆転回」と言わずして何と言おうか。物理学者のジョン・ホイーラーは、『人間宇宙論原理』(J. D. Barrow & F. J. Tipler: The Anthropic Cosmological Principle, 1986)に寄せた序文の中でこう言っている。
Tiplerの主張が、Brandon Carterに始まる人間原理とは別物であることをおそらく渡辺久義先生は知らないのだろう。

もっと嫌な話だが、失敗したSSCをめぐる予算獲得のため戦いの一環であって、Tipler自身が自著で書いたことをまったく信じていない可能性もあるのだ。

そして、人間原理がわかっていない渡辺久義先生は、ファインチューニングに神を見出す:
基本的な物理常数のほとんどがビッグバンの初めから、将来、人間と人間に適した生活環境を作り出すために、恐るべき精度でもって「微調整」(fine- tuning)されていたのだといういわゆる「人間原理」は、いまだにその受けるべき正当な注目を受けていないように思われる。先に述べたような三百年来の理由があって、そんなことがあっては困る人々がいまだに多いからである。しかしこれは当然、科学者だけの問題ではなく哲学者の問題であり、世界観の革命を意味する大発見というべきものである。すなわちそれは近代科学が一蹴した目的論的世界観が正しかったということを意味する。宇宙は最初から、人間を頭において計画的に作られたということである。
しかし、この手の論理を、自動的に粉砕してしまうのが、"強い人間原理"の"観測選択効果"なのだ。物理法則に反しないなら、いかなるファインチューニング論による神の証明も観測選択効果"の結果とされる。"God of the gaps"論は通用しない。


2つの勢力に騙される渡辺久義先生

人間原理と神について、見事に渡辺久義先生は騙されている。まず、第1の勢力は創造論者たちである。"古い地球の創造論"者で、"古い地球の創造論"の老舗サイトReasons to Believe主宰のHugh Rossを、渡辺久義先生が"物理学者"として引用して:
物理学者ヒュ―・ロスの「人間原理」についてのすぐれた啓蒙書である『創造者と宇宙――いかに今世紀最大の科学的発見が神をあきらかにしたか』(Hugh Ross: The Creator and the Cosmos: How the Greatest Scientific Discoveries of the Century Reveal God, 2001)の次のような言葉は、傾聴に値するであろう。
...
 しかしながら昨今起こっていることは、生命を支えるための宇宙の設計ということについて天文学者が論ずるようになったというだけではない。次のような言葉が使われているのである――いわく「誰かが自然を微調整した(fine-tuned)」「超知能」「いじった(monkeyed)」「人を圧倒する設計」「奇跡的」「神の手」「究極の目的」「神の心」「絶妙の秩序」「きわめて微妙なバランス」「著しく巧妙な」「超自然的作用(Agency)」「超自然的計画」「誂えて作った(tailor-made)」「至高の存在」「摂理的に考案された」――すべてこれらは明らかに一人の人間について使われる言葉である。この設計についての発見は、単に創造者が一人の人格であることを明確にしただけでなく、それがどんな人格であるかを示すいくらかの証拠をも提供してくれるのである。
Dr. Hugh Rossのこの一文は、いわゆる「アインシュタインは確固として創造主への信仰を保った」のような創造論サイドの宣伝である。

==> 忘却からの帰還: 創造論者が使ってはいけない「アインシュタインは確固として創造主への信仰を保った」

Ken Hamが主宰する"若い地球の創造論"サイトAnswers in Genesisは:
Physicists tend to use religious terminology because it graphically expresses the religious/philosophical nature of their thoughts and the sense of almost religious reverence they feel about their subject. Like the 'liberal' theologians, they use the language of orthodox Christianity, but in using the words they do not mean what we may think they mean.

彼らの考えの宗教的あるいは哲学的性質と、その主題について彼らが感じる宗教的敬意をわかりやすく表現できるので、物理学者は宗教用語を使用する傾向がある。彼らは、自由主義神学者のように、正統的なキリスト教の言葉を使う。しかし、それらの言葉を使うとき、我々の意味するもと考えるものを意味しない。

Don Batten: Physicists' God-talk
と指摘している。まさにこれだ。


渡辺久義先生を騙すもう一つの勢力は、予算獲得戦略を担う者たちである。たとえば、三浦俊彦[2002]は、Tiplerのオメガポイント理論を「サイエンスウォーズ」の一環だと指摘する。宇宙が一つしかなければ、オメガポイントへ到達する可能性はほとんどないとが、
宇宙が無数に存在した場合:
知性の永続の可能性が乏しいものであるかぎり、諸宇宙の中で、オメガ点におけるシミュレーションがなされる諸宇宙は極小の部分集合をなすだけだろう。しかし、宇宙を単位とした場合は極小でも、そのゆな宇宙に住む知的存在の数、すなわち自意識の数は極大でありうることに注意しよう。シミュレーションのない通常宇宙に住む自意識すべてを合わせた数よりも、シミュレーションが万物の終わりまで無限に繰り返される異例な宇宙に住む自意識の数のほうがはるかに多いだろうから。(p.61)
と論じたうえで、Tiplerの主張について
ティプラーが「すでに今ここがオメガ点内のシミュレーションなのだ」と言えなかったわけがこれでわかる。「なんだ、こんな情けない現実がもうすでに天国なのか」ということになってしまい、宗教者たちの支持を得られなくなってしまうだろう。ティプラーの「神」がユダヤ・キリスト教的神の概念とは全く相容れないことは明瞭なのだが、科学や哲学に慣れていない宗教者にはそれは見破れない。神学面を巧みに糊塗しつつ、宗教の最強の基盤である情緒、とりわけ不死と永遠の幸福への切望という情緒に訴えかけることで、科学テクノロジー信者ティプラーは、緊急避難的秘策を試みたわけだ。

三浦俊彦: 可能世界とシミュレーション・ゲーム -- オメガ点理論の人間原理的解釈, 大航海 No.42, 2002/4. [三浦俊彦: ゼロからの論証, pp.56-69][Amazon]
「科学や哲学に慣れていない宗教者にはそれは見破れない」という三浦俊彦[2002]の主張に、見事に渡辺久義先生は当てはまっていることになる。

三浦俊彦[2002]は、Tipler自身が自著"The Physics of Immortality"[Amazon, 1994]において次のように述べた部分を引用している:
In the United States, elected members of Congress al proclaim to be religious; many scientists believe that funding for science might suffer if the atheistic implications of modern science were widely understood.' Provine's opinion is confirmed by Steven Weinberg's 1987 congressional testimony asking for money to build the SSC, a $10 billion device to be constructed in Texas. (Funding has since been cut off.) A congressman asked Weinberg if the SSC would enable us to find God, and Weinberg declined to answer. (p.10)

米国では、議会に選出されたメンバーはみな、宗教を重んずることを先制する。多くの科学者は、現代科学の無神論的含意が公になってしまうと科学の資金獲得がうまくいかなくなると思っている。Provineの意見は1987年のSteven Weinbergのテキサスに建設する10億ドルの装置であるSSC建設の費用についての議会証言で確認できる。(予算はカットされた)一人の議員がWeinbergに、SSCは私たちが神を見出すのに貢献するか、と訪ねた。Weinbergは答えを拒んだ。

"If I had been there, I would have replied, '...if the Omega Point Theory is true (and my Higgs-shear effect is real) then yes, it would.'"(p.335)

もしその場にいれば、私は、「オメガポイント理論が正しく、(そして、ヒッグス粒子の効果が事実とわかれば)、答えはイエスです。そうです」と答えていただろう。
まさに予算獲得の問題でもあることを、Tipler自身が記述している。Tiplerはあっちの世界に行ってしまったのではなく、予算獲得のための嘘つきをしている可能性が高い。そうであるなら、渡辺久義先生はその嘘に、あっさりだまされていることになる。

少なくとも、渡辺久義先生は人間原理を語るにあたって、John Leslie[1997]くらい読んでからにすべきだろう。

posted by Kumicit at 2006/10/01 00:01 | Comment(3) | TrackBack(1) | Hisayoshi | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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