高らかに「人間原理」をかかげる渡辺久義先生。しかし、おそらく渡辺久義先生は「人間原理」を知らない。
観測選択効果であって、目的論でも有神論でもない人間原理人間原理の主唱者のひとりであるJohn Leslieは、人間原理が観測選択効果を主張するものであって、目的論や有神論とは無関係であることを強調している:
Carter's weak principle reminds us of the obvious but oft neglected truth that our place and time must, granted that we are in fact there, be a place and time in which observers can exist: they are not, for example, fried immediately, as they would be shortly after the Big Bang.
Carter's strong principle similarly reminds us that our universe must -- as we do exist in it, don't we? -- be a universe whose nature is not observer-excluding: it is not, say, a universe which recollapses a fraction of a second after beginning its expansion so that intelligent life has insufficient time to evolve.
Carterの弱い人間原理は、我々が存在する場所と時間が、我々が実際そこにいることを認められて、観測者ーが存在できる場所と時間でなければならないという、明らかでありながら、たびたび無視される事実を思い起こさせる。もしそうでないなら、たとえばビッグバンの直後であれば、即死する。
Carterの強い人間原理は、同様に、我々の宇宙が、我々がその中に存在するように、観測者を除外しないという性質を持つ宇宙だということを思い起こさせる。そうでないなら、膨張が始まって1秒後に再崩壊する宇宙では、知的生命が進化するには十分な時間がない。
...
Corresponding the anthropic principle as Carter intended it to be understood, has nothing to do with teleology or theism. Not even Carter's strong principle says that God ensured that the universe's properties permitted or necessitated the evolution of intelligent life. Again Carter's anthropic principle in no way declares idealistically, that to be is the same as to be observed, either for philosophical or for quantum-physical reasons.
Nevertheless one must remember that the evidence of fine tuning could well be interpreted teleologically or theistically (or maybe even idealistically) instead of being explained in terms of many, very diverse universes and "anthropic" observational selection.
Carterが意図したように人間原理を理解するなら、それは目的論や有神論とは無関係だ。Carterの強い人間原理といえども、知的生命の進化を許容あるいは必然とする宇宙の性質を神が保証するとは言っていない。Carterの人間原理は観念論的に、哲学的あるいは量子物理的な理由でも、ありうるものと観測されるものが同じだとは決して言わない。
しかしながら、ファインチューニングの証拠は、多数の非常に多様な宇宙と人間原理の観測選択効果ではなく、目的論的あるいは有神論的にも解釈できるかもしれないことを銘記しよう。
John Leslie: The Anthropic Principle Today, Final Causality in Nature and Human Affairs, The Catholic University of America Press, 1997, reprinted in Modern Cosmology & Philosophy [Amazon] (pp.295-296)
人間原理の支持者である三浦俊彦は、この観測選択効果は、むしろ人間に宇宙を外から眺める客観的特権者ではないという形で、コペルニクス的な世界観を強化するものと論じる:
脱人間中心主義が極まると、逆の意味での人間中心主義が浸透してしまうことに注意しなければならない。客観的探求という虚構のもとで人間は、探求者としての人間自身を常に括弧に入れて、世界の外側に括り出すことになる。人間は宇宙を外から眺める客観的特権者となる。宇宙の中心から辺縁へずれてゆきやがて消滅した人間の消失点が、神の視点となってしまうのだ。
ディッケの提案は、観測者としての人間を再び宇宙の構造に組み込むことにより、逆に人間の非特権性を思い出させたものと言ってよい。人間は岩や川や太陽や銀河や他の事物と同様、自然法則に従う物質の一部である。その人間の存在が宇宙の定数どうしのあるバランスの上に成り立っているというのも、人間が宇宙内の一定条件下における自然現象である以上、当然のことであろう。
コペルニクス的世界観を逆転させて再び天動説的な人間中心主義に科学を引き戻すかに思われたディッケ説の外見は、それこそ見かけ上のことにすぎない。太陽が重力や電子の力の特定のバランスの上に成り立っているの同様、生命や人間もある条件が満たされたときにのみ発生する、という唯物的な世界観の延長に他ならないのだ。人間は自然の中で特別な傍観的位置にいるのではない、という形で私たちの存在を相対化し、コペルニクス的な近代科学的世界観をさらに確認しているのである。
三浦俊彦: 論理学入門, NHKブックス, pp 148-162, 2000 [Amazon](p.152)
Kumicit自身は人間原理に対して否定的である。それは人間原理の観測選択効果によって、いかなる反進化論な証拠も論も、進化のメカニズムが不明であっても、撃滅可能だからだ。インテリジェントデザイン理論のような「確率が小さいことを証拠とする"God of the gaps"論」だと、何を主張したところで、この人間原理の観測選択効果の前には無力である。自動的に迎撃されてしまう。
人間原理を知らない渡辺久義先生統一教会の下部組織である勝共連合系の世界日報の『世界思想』に掲載されている渡辺久義先生の「人間原理の探求」連載の第1回「
目的論的世界観と「人間原理」」で、見事に人間原理について無知ぶりを発揮されている。
渡辺久義先生の言う人間原理は、Tiplerバージョンのオメガポイント理論すなわち最終人間原理のようだ:
やはり太陽は我々のためにそこに置かれ、花々は我々人間のために咲くのではないだろうか。「人間原理」(Anthropic Principle)という天文学者や物理学者から提起された注目すべき原理は、人間がこの宇宙で特別 に配慮された、特別の意味をもつ存在だと考えることを滑稽な幻想だとするこれまでの考えを、完全に打ち砕くものであるように思われる。科学の名において宇宙の物理的中心からはずされた人間が、科学の名において今度は宇宙の意味的中心に据えられることになったのである。これを「コペルニクス的逆転回」と言わずして何と言おうか。物理学者のジョン・ホイーラーは、『人間宇宙論原理』(J. D. Barrow & F. J. Tipler: The Anthropic Cosmological Principle, 1986)に寄せた序文の中でこう言っている。
Tiplerの主張が、Brandon Carterに始まる人間原理とは別物であることをおそらく渡辺久義先生は知らないのだろう。
もっと嫌な話だが、失敗したSSCをめぐる予算獲得のため戦いの一環であって、Tipler自身が自著で書いたことをまったく信じていない可能性もあるのだ。
そして、人間原理がわかっていない渡辺久義先生は、ファインチューニングに神を見出す:
基本的な物理常数のほとんどがビッグバンの初めから、将来、人間と人間に適した生活環境を作り出すために、恐るべき精度でもって「微調整」(fine- tuning)されていたのだといういわゆる「人間原理」は、いまだにその受けるべき正当な注目を受けていないように思われる。先に述べたような三百年来の理由があって、そんなことがあっては困る人々がいまだに多いからである。しかしこれは当然、科学者だけの問題ではなく哲学者の問題であり、世界観の革命を意味する大発見というべきものである。すなわちそれは近代科学が一蹴した目的論的世界観が正しかったということを意味する。宇宙は最初から、人間を頭において計画的に作られたということである。
しかし、この手の論理を、自動的に粉砕してしまうのが、"強い人間原理"の"観測選択効果"なのだ。物理法則に反しないなら、いかなるファインチューニング論による神の証明も観測選択効果"の結果とされる。"God of the gaps"論は通用しない。
2つの勢力に騙される渡辺久義先生人間原理と神について、見事に渡辺久義先生は騙されている。まず、第1の勢力は創造論者たちである。"古い地球の創造論"者で、"古い地球の創造論"の老舗サイト
Reasons to Believe主宰のHugh Rossを、渡辺久義先生が"物理学者"として引用して:
物理学者ヒュ―・ロスの「人間原理」についてのすぐれた啓蒙書である『創造者と宇宙――いかに今世紀最大の科学的発見が神をあきらかにしたか』(Hugh Ross: The Creator and the Cosmos: How the Greatest Scientific Discoveries of the Century Reveal God, 2001)の次のような言葉は、傾聴に値するであろう。
...
しかしながら昨今起こっていることは、生命を支えるための宇宙の設計ということについて天文学者が論ずるようになったというだけではない。次のような言葉が使われているのである――いわく「誰かが自然を微調整した(fine-tuned)」「超知能」「いじった(monkeyed)」「人を圧倒する設計」「奇跡的」「神の手」「究極の目的」「神の心」「絶妙の秩序」「きわめて微妙なバランス」「著しく巧妙な」「超自然的作用(Agency)」「超自然的計画」「誂えて作った(tailor-made)」「至高の存在」「摂理的に考案された」――すべてこれらは明らかに一人の人間について使われる言葉である。この設計についての発見は、単に創造者が一人の人格であることを明確にしただけでなく、それがどんな人格であるかを示すいくらかの証拠をも提供してくれるのである。
Dr. Hugh Rossのこの一文は、いわゆる「アインシュタインは確固として創造主への信仰を保った」のような創造論サイドの宣伝である。
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忘却からの帰還: 創造論者が使ってはいけない「アインシュタインは確固として創造主への信仰を保った」Ken Hamが主宰する"若い地球の創造論"サイト
Answers in Genesisは:
Physicists tend to use religious terminology because it graphically expresses the religious/philosophical nature of their thoughts and the sense of almost religious reverence they feel about their subject. Like the 'liberal' theologians, they use the language of orthodox Christianity, but in using the words they do not mean what we may think they mean.
彼らの考えの宗教的あるいは哲学的性質と、その主題について彼らが感じる宗教的敬意をわかりやすく表現できるので、物理学者は宗教用語を使用する傾向がある。彼らは、自由主義神学者のように、正統的なキリスト教の言葉を使う。しかし、それらの言葉を使うとき、我々の意味するもと考えるものを意味しない。
Don Batten: Physicists' God-talk
と指摘している。まさにこれだ。
渡辺久義先生を騙すもう一つの勢力は、予算獲得戦略を担う者たちである。たとえば、三浦俊彦[2002]は、Tiplerのオメガポイント理論を「サイエンスウォーズ」の一環だと指摘する。宇宙が一つしかなければ、オメガポイントへ到達する可能性はほとんどないとが、
宇宙が無数に存在した場合:
知性の永続の可能性が乏しいものであるかぎり、諸宇宙の中で、オメガ点におけるシミュレーションがなされる諸宇宙は極小の部分集合をなすだけだろう。しかし、宇宙を単位とした場合は極小でも、そのゆな宇宙に住む知的存在の数、すなわち自意識の数は極大でありうることに注意しよう。シミュレーションのない通常宇宙に住む自意識すべてを合わせた数よりも、シミュレーションが万物の終わりまで無限に繰り返される異例な宇宙に住む自意識の数のほうがはるかに多いだろうから。(p.61)
と論じたうえで、Tiplerの主張について
ティプラーが「すでに今ここがオメガ点内のシミュレーションなのだ」と言えなかったわけがこれでわかる。「なんだ、こんな情けない現実がもうすでに天国なのか」ということになってしまい、宗教者たちの支持を得られなくなってしまうだろう。ティプラーの「神」がユダヤ・キリスト教的神の概念とは全く相容れないことは明瞭なのだが、科学や哲学に慣れていない宗教者にはそれは見破れない。神学面を巧みに糊塗しつつ、宗教の最強の基盤である情緒、とりわけ不死と永遠の幸福への切望という情緒に訴えかけることで、科学テクノロジー信者ティプラーは、緊急避難的秘策を試みたわけだ。
三浦俊彦: 可能世界とシミュレーション・ゲーム -- オメガ点理論の人間原理的解釈, 大航海 No.42, 2002/4. [三浦俊彦: ゼロからの論証, pp.56-69][Amazon]
「科学や哲学に慣れていない宗教者にはそれは見破れない」という三浦俊彦[2002]の主張に、見事に渡辺久義先生は当てはまっていることになる。
三浦俊彦[2002]は、Tipler自身が自著"The Physics of Immortality"[
Amazon, 1994]において次のように述べた部分を引用している:
In the United States, elected members of Congress al proclaim to be religious; many scientists believe that funding for science might suffer if the atheistic implications of modern science were widely understood.' Provine's opinion is confirmed by Steven Weinberg's 1987 congressional testimony asking for money to build the SSC, a $10 billion device to be constructed in Texas. (Funding has since been cut off.) A congressman asked Weinberg if the SSC would enable us to find God, and Weinberg declined to answer. (p.10)
米国では、議会に選出されたメンバーはみな、宗教を重んずることを先制する。多くの科学者は、現代科学の無神論的含意が公になってしまうと科学の資金獲得がうまくいかなくなると思っている。Provineの意見は1987年のSteven Weinbergのテキサスに建設する10億ドルの装置であるSSC建設の費用についての議会証言で確認できる。(予算はカットされた)一人の議員がWeinbergに、SSCは私たちが神を見出すのに貢献するか、と訪ねた。Weinbergは答えを拒んだ。
"If I had been there, I would have replied, '...if the Omega Point Theory is true (and my Higgs-shear effect is real) then yes, it would.'"(p.335)
もしその場にいれば、私は、「オメガポイント理論が正しく、(そして、ヒッグス粒子の効果が事実とわかれば)、答えはイエスです。そうです」と答えていただろう。
まさに予算獲得の問題でもあることを、Tipler自身が記述している。Tiplerはあっちの世界に行ってしまったのではなく、予算獲得のための嘘つきをしている可能性が高い。そうであるなら、渡辺久義先生はその嘘に、あっさりだまされていることになる。
少なくとも、渡辺久義先生は人間原理を語るにあたって、John Leslie[1997]くらい読んでからにすべきだろう。
posted by Kumicit at 2006/10/01 00:01
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