2008/02/23

あほんだらの数学

過去にも何回か紹介したSaint Gasolineから「あほんだらの数学」




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タグ:id理論
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2008/02/11

自然主義の誤謬の派生品

Oliver Curryは、Humeの倫理自然主義(の進化論バージョン)は自然主義の誤謬には該当しないと論じた論文Curry[2006]で、自然主義の誤謬のお友達をリストアップしている。論文の本題はさておき、このリストがよくできているので、見ておくことにする。

で、Curryが挙げたのは以下の8つ;

  1. Moving from is to ought (Hume’s fallacy). ("である"から"べき"へ)
  2. Moving from facts to values. (事実から価値へ)
  3. Identifying good with its object (Moore’s fallacy).
  4. Claiming that good is a natural property. 
  5. Going ‘in the direction of evolution’.(進化の方向へ向かって進め)
  6. Assuming that what is natural is good. (自然なものは良いと仮定)
  7. Assuming that what currently exists ought to exist. (現に存在するものは、存在すべきと仮定)
  8. Substituting explanation for justification.


このなかでも面白いのが5〜7で:
In his critique of Spencer, Moore argued that: the direction of evolution is not necessarily good (5); and that the moral worth of something is not decided by its being natural (6). Perhaps as a spin-off of fallacy number five, some people have also claimed that it is a fallacy to argue that what currently exists (perhaps because it is ‘natural’) ought to exist (7).

Spencerに対する批判において、Mooreは次のように論じた。進化の方向は"必然的に良い"ということではない(5)。倫理的価値はそれが自然であることによって決定されない(6)。そして(5)の派生で、「現に存在しているものは(自然なものであるから)、存在すべきである」という詭弁があると論じる人もいる(7)。

Under this view, statements such as “evolution is a progressive force, and we ought to help it on its way – and prevent humankind from becoming ‘less evolved’ – by practicing various forms of eugenics”; “males are naturally more promiscuous than females, and therefore it is morally acceptable for them to be more promiscuous”; or “males have always been more promiscuous than females, therefore one ought not to change the natural order of things”, are taken to be examples of fallacious or invalid arguments.

この観点では、「進化は発展的な力なので、あらゆる優生学的な方法で、我々は進化の方向へ進むことを助けるべきであり、人類が進化しない方向に進むのを抑止すべきである」とか「男性は女性よりも自然では乱交なので、男性の乱交は倫理的に容認可能だ」とか「男性は女性よりも自然では乱交であり、自然の秩序を変えるべきでない」といったものが例として挙げられる。
ここで「進化の方向は"必然的に良い"ということではない」は「良いこともあれば悪いこともある」という意味ではなく、「倫理的価値は進化の方向によって決定されない」という意味である。

ちなみに、Oliver Curryは、論文の本題であるヒューム=ダーウィン的倫理論について、これらの誤謬にあたらないと論じている:
The question here is whether any of these objections constitute arguments against the Humean-Darwinian meta-ethical thesis that “moral values are the products of certain natural human passions”. And again, the answer is: no. First, according to the orthodox evolutionary theory on which the Humean-Darwinian thesis is based, evolution has no direction. And so the notions of ‘moving in the direction of evolution’ or of being 'more or
less evolved' have no content, and play no role in the thesis. Second, the Humean-Darwinian thesis argues that ‘all moral values are natural phenomena’, but it does not argue, and nor does it follow, that ‘all natural phenomena are moral’ or even ‘all natural values are moral’.

「倫理価値は自然な人間のパッションの産物である」というヒューム=ダーウィン的メタ倫理論が、これらの自然主義の誤謬に該当するかである。そして、答えはNOである。まず、ヒューム=ダーウィン的メタ倫理論が基礎を置く正統な進化理論では、進化に方向性はない。従って、「進化の方向へ進む」や「よし進化した・より進化していない」といった主張は存在しない。さらに、ヒューム=ダーウィン的メタ倫理論は「すべての倫理価値が自然現象だ」と論じるが、「すべての自然現象が倫理的だ」とか「すべての自然の価値は倫理的である」とは論じない。


それはさておき、これら(5)(6)(7)はわりと、ありがちな詭弁である。

たとえば、「適応的行動として獲得されたと思われる行動」が「適応的行動として獲得された」という理由で「善」だと論じる、あるいは「その行動が悪だから」という理由で「適応的行動として獲得されたはずがない」と論じることはよくある。

その典型例のひとつは強制交尾:
強制交尾は、昆虫から霊長類まで広く見られるオスの適応行動だ。人間の男性の攻撃的な性行動も、文化的に条件づけられた権力行使の歪みとしてではなく、動物一般の繁殖戦略と見なさねばなるまい。社会生物学は、そして著者はそう主張する。
 この種の言説は危険というか、性犯罪者の免罪に利用されはしないだろうか。なにしろ男のレイプ衝動は「自然な性質」だとのお墨付きを与えているのだから。
 著者は「否」と断言する。何かが「自然である」とは、「善である」という意味ではない。両者を混同する「自然主義の誤謬」から、フェミニズムなどの見当違いのイデオロギーが生ずるというのである。
 現代社会という環境では、独特の適応戦略が求められる。セクハラ男は原始時代の適者にすぎず、文明社会では敗者なのだ。進化論を正しく理解すれば、なるほど社会生物学は危険でもなんでもなかろう。

[三浦俊彦: (書評)ジョン・オルコック『社会生物学の勝利』(新曜社) 『読売新聞』2004年4月18日掲載]


創造論者の主張にも、自然主義の誤謬形式の主張が収録されている。

Claim CA008:
Evolutionary theory promotes the concepts of promiscuity and lust, pointing out that the quest to produce many offspring is a main goal of organisms under Darwinism.

ダーウィニズムのもとでは、子孫を多く作ることが生物の目的であると指摘して、
進化論は乱交と性欲のコンセプトを奨励する。

Source:
Morris, Henry M. 2000. Evil-ution. Back to Genesis 140 (Aug).: a-c. http://www.icr.org/index.php?module=articles&action=view&ID=877

Response:

  1. Description does not imply promotion. Mistaking "is" for "ought" is the naturalistic fallacy. The theory of evolution no more promotes promiscuity and lust than germ theory promotes getting infectious diseases.

    記述することは奨励を意味しない。「である」と「べき」を取り違えるのは自然主義の誤謬である。微生物学が伝染病を奨励しないように、進化論は乱交と性欲を奨励しない。

  2. Solving a problem works best if you first understand the source of the problem. Creationists, by denying sources of behavior, are less likely to deal with behavioral problems effectively.

    問題の解決をうまくいくようにするには、その原因を理解することである。行動の起源を否定する創造論者は、行動問題に効果的に対処できないだろう。


Further Reading:
Wright, Robert. 1994. The Moral Animal: The New Science of Evolutionary Psychology. New York: Pantheon.
とか、
Claim CA002:
Survival of the fittest implies that "might makes right" is a proper guide to behavior.
適者生存は「勝者の正義」が行動指針となる。

Source:
Keyes, Alan, 7 July 2001. Survival of the fittest? WorldNetDaily, http://www.worldnetdaily.com/news/article.asp?ARTICLE_ID=23533

Response:

  1. This claim exemplifies the naturalistic fallacy by arguing that the way things are implies how they ought to be. It is like saying that if someone's arm is broken, it should stay broken. But "is" does not imply "ought." Evolution is descriptive. It tells how things are, not how they should be.

    この主張は、「現にあること」が「いかにあるべきか」を意味すると論じる自然主義の誤謬の例である。それは、誰かが腕を折ったら、折るべきだというようなものである。しかし、「である」は「べき」を意味しない。進化論は記述である。それは、いかの物事が働いているかを語るが、いかにあるべきかを語らない。

  2. Humans, being social, improve their fitness through cooperation with other people. Even if survival of the fittest were taken as a basis for morals, it would imply treating other people well.

    人間は社会的であり、他の人間と協調することで適応性を増加させている。適者生存が倫理の基礎であるとしても、それは他の人々に良く対応することを意味するかもしれない。


Links:
Wilkins, John, 1997. Evolution and philosophy: Does evolution make might right? http://www.talkorigins.org/faqs/evolphil/social.html

Further Reading:
Hume, David, (1779) 1947. Dialogues Concerning Natural Religion, N.K. Smith, ed., Indianapolis: Bobbs-Merrill. http://www.anselm.edu/homepage/dbanach/dnr.htm
など。

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2008/02/09

今ある知識でデザインだと推論する誤り

「自然法則でも偶然でも説明できなくて意味ありげなものはデザインだ」というDembskiの説明フィルタは、デザインでないものをデザインだと判断するFalse Positiveはないのだとインテリジェントデザイン理論家Dr. William Dembskiは自慢げに主張し続けている:
I argue that the explantory filter is a reliable criterion for detecting design. Alternatively, I argue that the Explanatory Filter successfully avoids false positives. Thus whenever the Explanatory Filter attributes design, it does so correctly.

説明フィルタは信頼できるデザイン検出基準であると論じる。また一方、私はfalse positiveをうまく回避すると論じる。従って、説明フィルタがデザインだと判定すれば、それは正しい判定である。

[William A. Dembski: The Explanatory Filter]
もちろん、これまで「還元不可能に複雑である」すなわちデザインだと主張された、細菌の鞭毛とか細胞内のタンパク質輸送とか血液凝固とか免疫系は分解されており、false positiveであったことが示されている(もちろん、そんなことでは、false positiveが出ないという主張をDembskiは引っ込めないけどね)。

このfalse positiveが問題なのは、インテリジェントデザイン理論が"Nagative Argument"すなわち「進化論は間違っているからデザインだ」という形式で実装されているから。もちろん、この実装自体が、「誤った2分法=進化・創造以外に可能性がないことを示していないのに、他に可能性がないことこと前提とする論」という詭弁ではある。しかし、これが正しいとしても、デザインであることを証明するには「進化不可能であることを証明」しなければならない。

ところが、進化が不可能だと証明するのは、悪魔の証明になっていて、おそらく証明不可能。代替的措置としての説明フィルタが"false positive"な判定(進化経路があるものを進化不可能と判定する)をすることがあれば、代替措置にならない。そして、実際に、進化可能なものを進化不可能と判定してきた。従って、「説明フィルタでデザインと判定された」という主張は「その生物器官の出所が未解明」という情報価値すら持たない(デザインと判定されたが、進化経路は判明済みなものがあるから)。


このような「現時点の知識(あるいは本人の知識)だけで、超自然の原因があると最終結論を出す」失敗例は過去にもある。Panda's ThumbのPvMは、旧世紀初頭の遺伝についてのBatesonの例を挙げている:
The following design inference by Bateson shows that while the scientific knowledge at the time understandably may have caused him to make the suggestion inheritance somehow had to have a non-material cause (sounds familiar)?

以下のBatesonによるデザイン推論は、当時の科学知識では「遺伝が何らかの非唯物論的原因を持たねばならない」と提案させてしまったかもしれないことを示している。

In his book The Quest for Consciousness: A neurobiological approach, Christof Koch describes Bateson’s claim.

Christof Kochは自著"The Quest for Consciousness: A neurobiological approach"において、Batesonの主張を次のように解説した:
The central difficulty faced by researchers at the time was that they could not imagine the great specificity inherent in individual molecules. This is perhaps best expressed by William Bateson, one of England’s leading geneticists in the early part of the twentieth century. His 1916 review of The Mechanism of Mendelian Heredity, a book by the Nobel laureate Thomas Hunt Morgan and his collaborators, states:

当時の研究者が直面していた中心的な難点は、個々の分子に固有の特性を想像できなかったことである。これはおそらく、20世紀初頭の英国の指導的遺伝学者であるWilliam Batesonがもっともよく表現している。ノーベル賞受賞者Thomas Hunt Morganと共同研究者たちの本"The Mechanism of Mendelian Heredity"についての、1916年のレビューでBatesonは次のように書いた:
The properties of living things are in some way attached to a material basis, perhaps in some special degree to nuclear chromatin; and yet it is inconceivable that particles of chromatin or of any other substance, however complex, can possess those powers which must be assigned to our factors or gens. The supposition that particles of chromatin, indistinguishable from each other and indeed almost homogeneous under any known test, can by their material nature confer all the properties of life surpasses the range of even the most convinced materialism.

生物の特性は、ある種の方法で、おそらく核クロマチンに特別な程度で、物質的基盤に付与されている。どれほど複雑であれ、我々の因子あるいは遺伝子に割り当てられているはずの、これらの力を、クロマチン粒子あるいは他の物質が持つことができるというのは、とても考えられない。互いに区別のつかなず、どんな既知の実験でもほぼ一様なクロマチン粒子が、物質的特性によって、生物のすべての性質を定めることが可能だというのは、もっとも納得のいく唯物論の範囲を超えてしまっている。
What Bateson and others did not know at the time, given the technology available, was that chromatin (that is, the chromosomes) is only homogeneous statistically, being composed of roughly equal amounts of the four nucleic bases, and that the exact linear sequence of the nucleotides encodes the secrets of heredity. Geneticists underestimated the ability of these nucleotides to store prodigious amounts of information. They also underestimated the amazing specificity of protein molecules, which has resulted from the action of natural selection over a few billion years of evolution. These mistakes must not be repeated in the quest to understand the basis of consciousness.

当時、Batesonたちが知らなかったのは、クロマチン(すなわち染色体)が統計的に一様であり、ほぼ等量の4つの核酸で構成されていて、核酸のリニアシーケンスが遺伝の秘密をエンコードしていること。遺伝学者たちは核酸の膨大量の情報を保存する能力を過小評価していた。また、数十億年の進化に働いてきた自然選択の結果として生じた、タンパク質のおどろくべき性質も過小評価していた。これらの失敗を、意識の基礎の理解において繰り返してはならない。


[PvM: "Another (failed) test of the Design Inference" (2008/02/02) on Panda's Thumb]
ゲノムの知識が無に等しい時代では、いたしかたのないことではある。


まあ、なんというか「超自然としか考えられない(デザインだ)」は「わからない」の別表現であって、ほんとうに字義通り「超自然(デザインだ)」かどうかは「わからない」というところだろうけどね。

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2008/02/04

デザインされたゲノムシーケンスの検出

生物および生物器官にデザインを検出できる[How do we Detect Design?]というのがインテリジェントデザイン理論が主張するところだが、実際に検出しようとしたインテリジェントデザイン支持者はいない。具体的方法が提示されたこともない。

ということで、これをおちょくって、Panda's ThumbのIan Musgraveが、ゲノムシーケンスがデザインされたかどうかを判定するコンテストなエントリをポストした。
Determining where a genome has been produced or altered by an intelligent designer is a matter of some importance. Consider the claims that the HIV virus was engineered as a biowarfare weapon, or the concern that virulence genes from other organisms could be inserted into viruses and bacteria to “weaponise” them.
ゲノムのどの部分がインテリジェントデザイナーによって作られたり、置き換えられたり知るかを決定することは、ちょっと重要だ。HIVが生物兵器としてデザインされたという主張とか、ほかの生物の毒の遺伝子をウィルスや細菌に挿入して兵器化が可能になるといった懸念がある。
...
Thus we issue the “Intelligent Design Challenge”. Below the fold are 6 gene sequences. At least one of them has been produced by a human designer.
ということで、「インテリジェントデザイナーコンテスト」 以下の6つのゲノムシーケンスのうち、少なくともひとつは人間のデザイナーによって作られた。
...
To win, you have to:
勝利には

1) Identify which sequences have been produced by a human designer
どれが人間のデザイナーによるものか特定する
2) Describe how you identified the sequence as being designed
どうやって特定したか書く
3) Describe what the sequence does
そのシーケンスが何か書く

[Ian Musgrave: "Take the Intelligent Design Challenge!" (2008/01/31) on Panda's Thumb]
出題されると、すぐにBLASTを起動して答えを出してしまったTeleological[Comment #141757 on February 1, 2008 ]。3つのシーケンスが"Mycoplasma genitalium G37 strain of bacteria"と相同と出たので、あと3つの変換文字列に英単語を見出して人間のデザインと特定。


さて、インテリジェントデザイン理論的にどうなるかというと...

もちろん、まっとうな方法がインテリジェントデザイン理論にあるなら、その答えは「すべてデザイン」である。"Mycoplasma genitalium G37 strain of bacteria"をデザインしたのは"超自然のインテリジェントデザイナー"である。デザインを検出するのがインテリジェントデザインだが、それが超自然か人間かについて言及しないので、結果として出る答えは「すべてデザイン」。

もっとも、インテリジェントデザイン理論には実際のゲノムシーケンスをどうすればデザインを検出できるのという具体論はないけどね。


関連エントリ

Genetic-ID社のGMO検出をめぐるDembskiブログの自爆 (2006/05/14)


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2008/02/01

Jason Rosenhouse助教授の「役に立たないインテリジェントデザイン」

インテリジェントデザイン"理論"は"Negative Argument"な実装(「進化論では説明できないからデザインだ」)であるため、新たな科学的発見につながる予測をつくれない。たとえ、インテリジェントデザインが科学であるか否かにかかわらず全く研究の推進に役に立たない。

これをインテリジェントデザイン支持者O'Learyをネタに、James Madison UniversityのJason Rosenhouse助教授がうまい説明を書いている。ので、そのまま訳してみた:
Jason Rosenhouse: "O'Leary Proves that ID is Worthless to Scientists" (2008/01/20) on Evolution Blog
O'Learyはインテリジェントデザインが科学者の役に立たないことを証明する

インテリジェントデザイン支持者たちは、従来の進化理論に科学的に対抗するといわれる数多くの主張をしてきた。これらの主張は一様に間違っていて、それが科学者たちがインテリジェントデザインの主張を無視する理由のひとつになっている。

しかし、インテリジェントデザイン支持者たちは、また、科学者が唯物論の目隠しを取り去って、デザインの見方を取り入れれば大きな科学的発展につながると主張する。その主張を確かめる方法:何か発見しろ! 語るのではなく示せ! この格言はここに非常によくあてはまる。もし、デザインの見方が役に立つなら、従来の方法が見落としたものを発見することで示せ!

ときどき、インテリジェントデザイン支持者は、そのようなことしたと主張する。しかし、そのような主張はちょっと検証するだけで壊れてしまう。ということで、私はインテリジェントデザインハックでありDembskiの取り巻きであるDenyse O'Learyのこのポストを興味深く読んでみた。タイトルは「Nine Predictions, if Intelligent Design is True.(9つの予測 インテリジェントデザインが正しいなら)」

おおっとおお! いっぱい予測があるじゃないか。ところで、科学者が理論による予測について語るとき、研究を導くために使う何かについて話すもの。地球上の地域と岩石の年代を指定すれば、古生物学者はどのような生物が化石として見つからはずかについて、かなりの精度で語ってくれる。これの鮮やかな例を2006年のTiktaalikの発見に見ることができる。古生物学者は特定の特徴を持つ化石を探していた。そして、彼らは進化論的思考に基づき、どこをさがせば、そのような化石が見つかりやすいかについて考えがあった。これはひとつの例だ。他にも例を挙げることはむかしくない。
[訳注: Tiktaalikの発見については「これは確かにクールだ」参照]

インテリジェントデザインは同様のことができるだろうか? もちろんできない。できるなら、はるか昔に、生物学の支配的パラダイムとなっていただろう。しかし、そんなことではインテリジェントデザインは主張をやめない。O'Learyの努力のあとを見てみよう。

これは、O'Learyが誇りに思ったことで、Dembskiのブログにもクロスポストしている:
Complete series of transitional fossils will not usually be found because most proposed series have never existed. Eventually, researchers will give up on ideologically driven nonsense and address the history that IS there. They will focus on discovering the mechanisms that drive sudden bursts of creativity.

中間化石の完全なシリーズは見つからないだろう。というのはそのようなシリーズは存在しなからだ。最終的に、研究者たちはイデオロギーに導かれたナンセンスをあきらめて、そこにある歴史を指摘する。彼らは創造の突如の爆発を起こすメカニズムの発見に焦点を当てる。
もうひとつはこれ:
No account of human evolution will show a long slow emergence from unconsciousness to semi-consciousness to consciousness, let alone that consciousness is merely the random firing of neurons in the brain. However consciousness got started, it appeared rather suddenly and it permanently separates humans from our genetic kin, however you want to do the gene numbers and however much time researchers spend coaxing monkeys to stop relieving themselves on the keyboard and type something meaningful.

人間の進化の説明は、無意識から半意識そして意識への長期の漸進的変化を示せない。そして、意識は脳のニューロンのランダムな発火とされる。しかし、意識は始まった。そして意識は突如として出現し、遺伝的に近い種と人間を分かつものである。遺伝子の数を数え、サルにキーボードで用を足すのをやめさせて、意味のある何かを入力するように費やそうとも。
考えを得るだって? O'Learyの予測は、歩き回り、腕組みし、頭を振っているだけに見える。O'Learyの9つの予測を見ても、実際に科学者が研究に使えるようなものはない。進化論は遺伝が不可欠な重要な問題であることを示した。ダーウィン以前の幾世代の創造論者たちが見落としてきたことだ(メンデルについては聞いている。孤立した者が単純な実験をしたことは含めない)。進化論は古生物学を、味気ない記述のわびしい仕事から、今日あるような科学の不可欠な分野へと変えた。進化論は古生物学者がどう研究を進めるかの指針となり、古生物学者が発見したものによって進化論を強化してきた。同じことは生命科学のあらゆる分野に言える。とっても使える理論だ。

さて、ここでO'Leary登場。一世紀半にわたって明瞭に役に立ってきたものを破棄しろと言う。

何故か?

O'Learyが納得してないから。

いいだろう。で、かわりに科学者はどうすべきか?

何もない。

従来の研究では対応できないデザインの見方によって、どんな研究や実験が提案されるだろか?

何もない。

インテリジェントデザインによる予測について科学者が問うたとき、何を聞かれたのかO'Learyがわかっていない、というのが最も気前の良い説明だろう。私が触れたネガティブ予測に加えて、O'Learyはポジティブな予測もしている。O'Learyは中間化石について怒りまくった意見を書いた後で:
Positive prediction: Discovering the true mechanisms of bursts of natural creativity may be of immense value to us, especially if we need to undo some significant harm to our environment.

ポジティブ予測:特にもし我々の環境に対する明らかな害を元へ戻す必要があるなら、自然の創造性の爆発のメカニズムを発見することは非常に有益である。
おいおい、それは科学の意味での予測ではないだろ。もちろん、自然の創造性のメカニズムの発見は役立つとは思う。だからこそ生物学者はそのために相当な時間を忙しく過ごしている。

そいでもって、意識については?
Positive prediction: We will focus on what consciousness can do, especially in treatment of mental disorders. Yes, a drugged up zombie is better than a suicide, but only because the zombie isn't technically dead. Why stop there?

ポジティブ予測:特に精神病の治療において、我々は意識が可能なことに焦点をあてる。薬物投与されたゾンビの方が自殺よりよいが、それはゾンビが死んでいないという理由だけである。なぜそこで立ち止まるのか?
おっとこれは大きいね。薬物が彼らの病気を抑制するので、幾百万人の治療にあたれるのだが。O'Learyにとって、彼らは技術的に生きているだけの薬物投与されたゾンビである。これは、インテリジェントデザイン支持者にとってすら、味気なくアフォである。

精神病の治療に関して、「意識がすることができることに焦点をあてても」何の結果も得られなかったが、薬物は非常に効果的だった。なぜこれが? デザインの見方をとれば精神病の治療法が見つかるのか? O'Learyは何も語らない。

インテリジェントデザインは完全に科学的に将来性がない。ただ座って何もしない。これは科学者にとって間違うよりも悪い。間違った見方でも、何からの使える結果や興味ある結果につながることもある。それがたとえ、見方を変えないといけないという結果だったとしても。インテリジェントデザインにはそれすらない。

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