たまたま、
Dr. Tara C Smithのエントリで、とてもよい懐疑論の定義をしている
Brian Dunningを知った:
To quote Dr. Shermer: Skepticism is not a position; it's a process.
マイクル・シャーマーの言葉でいえば、「懐疑主義は立場ではなく、過程だ。」
懐疑論者や批判的思考者は物事を信じない人々だという誤解が広まっている。実際、懐疑的という言葉の普通の使われ方は、この誤解が広まっていることを示している。「彼はスプレッドシートの数字に懐疑的だった」は、彼はその数字を疑っているという意味だ。したがって、懐疑的であるには、物事に否定的で、それらを疑ったり、信じなかったりすることだ、と。
懐疑主義という言葉の真の意味は、疑うことや信じないことや否定的になることとは無関係だ。懐疑主義は有効性を判断するために論理を適用し、批判的思考を行う過程である。支持する結論を見出す過程であって、あらかじめ持っている結論を正当化することではない。
したがって「懐疑論者は幽霊を信じない」と言うのは正しくない。一部の人々はそうしているが。多くの懐疑論者は信仰心篤く、導き出される論理過程に満足している。懐疑論者は、自らの生活の違った面に対して、自分自身のやり方で、批判的思考を適用する。大なり小なり、誰もが懐疑論者だ。
懐疑主義は非常に強力でポジティブな影響を世界に与える、あるいは与えるべきだ。懐疑主義は広く批難されていることを単にデバンクする(偽りを暴く)ことではない。懐疑主義は、役に立たない迷信から人類と世界に有益だと証拠づけられた計画と考え方に、注意・影響・資金用途を振り向けることに関するものである。
科学的方法は懐疑主義の中心だ。科学的方法は、有効な検証から望ましく導かれた証拠を必要とする。逸話的経験や個人的証言は一般的に、科学的証拠の条件に合わないので、信頼できる懐疑論者からは受け入れられないことが多い。このことが、懐疑論者が否定的で人々を信じないと悪口を言われる理由となっている。しかし、懐疑論者は単に科学的方法に従っているだけなのだ。
驚異的な主張には、特にその主張が、ありそうにないことや、物理法則に反している場合は、驚異的な証拠が必要だ。懐疑主義は真理を探究するための不可欠で意味のある構成要素である。
そのBrian Dunningがニセ科学者とディベートすべきでない理由を今年8月のエントリで書いている:
[Brian Dunning: "Should Science Debate Pseudoscience?" (2009/08/18) on Skeptoid]
There's another unfortunate reality about debates, and that's the dirty little not-so-secret that everyone who attends a debate has typically already made up their mind, and has been invited to attend by one side or the other. They are huge proponents of their side, and neither debater has much hope of changing the minds of anyone in the room. Most debates probably have a handful of attendees who are open to actually learning something, but they are an extreme minority. If you've ever attended a debate of any kind, you know what I'm talking about.
そして、もうひとつディベートについての不幸な現実は、不快で些細で、秘密でも何でもないことだが、ディベート参加者たちは典型的には既に立場を固めていて、どちらかの側として招かれていることだ。彼らは自分側の強大な支持者であって、ディベーターたちは誰の考えも変えられると思っていない。大半のディベートではわずかの参加者は本当に何かを学ぼうとしているが、それは極少数派だ。ディベートか何かに参加したことがあれば、言っていることが分かるはずだ。
When you advertise a debate, maybe 1,000 people will attend. And let's say you do a smashing job and manage to convince that entire handful of convincable attendees that science is real. Great, you won over five people. But what you're forgetting is that for those 1,000 attendees, there are 5,000 people out there who heard about the debate (they saw the ads or flyers or whatever) who did not attend. What you unintentionally communicated to those 5,000 people is that your scientific discipline is academically comparable to the pseudoscientific version, and that both are equally valid. The fact that the debate exists at all struck a blow to the public's perception of the credibility of science that far outweighs any progress you may have made in the room.
キミがディベートを広報すれば、1000人くらいが参加するかもしれない。そして、キミは見事に敵を倒して、わずかな本当に学ぼうとしている参加者全員に科学が正しいと納得させたとしよう。すばらしい、キミは5人を獲得した。しかし、キミが忘れているのは1000人の参加者たち、そして参加していないが広報やフライヤーか何かを見てディベートのことを聞いた5000人だ。キミが意図せずして、この5000人に伝えたことは、キミの科学分野がニセ科学バージョンと学術的に比肩するものであり、両者は等しく有効だということだ。ディベートでキミがどれだけのことを成し遂げようとも、ディベートが行われたという事実が科学の信憑性に対する人々の認識に対する打撃となる。
[Brian Dunning: "Should Science Debate Pseudoscience?" (2009/08/18) on Skeptoid]
そして、そもそもディベートに完全勝利できるということすら、ありえない。
It has been argued that scientists have a huge advantage in debates because we have the facts on our side. Well, so we do, but that's not an advantage at all. Rather, it's a limitation. The audience members who are not scientists can rarely discriminate between facts and pseudofacts. The pseudoscientist has an unlimited supply of sources and claims and validations. He can say whatever he wants. If compelling rhetoric would benefit from any given argument, he can always make that argument. Pseudosciences have typically been designed around compelling rhetorical arguments. The facts of science, on the other hand, rarely happen to coincide with the best possible logic argument. Having the facts on your side is not an advantage, it's a limitation; and it's a limitation that's very dangerous to the cause of science should you throw it onto the debate floor.
事実は科学者の側にあるので、科学者は圧倒的に有利だと言われてきた。確かに、事実は科学者の側にあるが、それは何のアドバンテージにもならない。むしろ、制約になってしまう。科学者でない聴衆たちは、事実とニセ事実の区別をつけられことは、まずない。ニセ科学者たちはソースと主張と確認を無限に供給する。ニセ科学者は言いたいことを何でも言える。どんな論からでも、有無を言わさないレトリックが使えるなら、何だって言える。ニセ科学は有無を言わさないレトリックな議論としてデザインされているのが普通だ。
一方、科学の事実が、可能な最高の論理的議論と偶然に一致することはほとんどない。自分の側に事実があることはアドバンテージではなく、制約である。ディベートの場に科学の論理を投じるには、その制約はあまりにも危険だ。
[Brian Dunning: "Should Science Debate Pseudoscience?" (2009/08/18) on Skeptoid]
ディベートに勝利することに特化した創造論者
Duane Tolbert Gish[1921-]はBrian Dunningの説明するニセ科学側の典型例。さすがに88歳なので、もう現役ではないけれど、創造科学を理科の授業で教えることに対して違憲判決が確定する頃までは強力に活躍していたようだ。
インテリジェントデザイン運動では、創始者Phillip Johnsonが脳卒中の後遺症で議論や講演ができなくなったため、主としてDr. Stephen Meyerがこの役割を担っている(Dr. William Dembskiは
真摯な味方を誤爆したり、
SETIとのアナロジーを勢いで投げ捨てだりするなど、現場で自爆の危険性があるため、ディベート要員になっていないもよう)。
で、そのような戦闘要員とディベートして勝利しても、ニセ科学に通常科学と対等の立場を与えるだけという、Brian Dunningの主張はおそらく正しい。
これは、今は亡き、Stephen Jay Gouldの主張でもあり、何かと意見を戦わせていたRichard Dawkinsも同意していた。そのことについて、Richard Dawkinsは2006年にあらためて記述している:
==>
Richard Dawkins: "Why I Won't Debate Creationists" (2006/05/15) on
RichardDawkins.net
posted by Kumicit at 2009/10/26 00:03
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