聖書には神に選ばれし民による虐殺を称揚する記述が多数ある。たとえば...
民数記 21章 1-3節
ネゲブに住むカナン人、アラドの王は、イスラエルがアタリムの道を進んで来ると聞き、イスラエルと戦い、捕虜を引いて行った。イスラエルは主に誓いを立てて、「この民をわたしの手に渡してくださるならば、必ず彼らの町を絶滅させます」と言った。主はイスラエルの言葉を聞き入れ、カナン人を渡された。イスラエルは彼らとその町々を絶滅させ、そこの名をホルマ(絶滅)と呼んだ。
民数記 / 21章 33-35節
それから転じて、バシャンに至る道を上って行くと、バシャンの王オグはこれを迎え撃つために、全軍を率いてエドレイに来た。主はモーセに言われた。「彼を恐れてはならない。わたしは彼とその全軍、その国をあなたの手に渡した。あなたは、ヘシュボンの住民アモリ人の王シホンにしたように、彼にもせよ。」イスラエルは彼とその子らを含む全軍を一人残らず撃ち殺し、その国を占領した。
民数記 / 31章 6-18節
モーセは、部族ごとに千人ずつの兵を戦いに送り出し、祭司エルアザルの子ピネハスを、聖なる祭具と出陣に吹くラッパをその手に持たせて、彼らと共に送り出した。
彼らは、主がモーセに命じられたとおり、ミディアン人と戦い、男子を皆殺しにした。その死者のほかに、ミディアンの王たち、エビ、レケム、ツル、フル、レバという五人のミディアンの王を殺し、またベオルの子バラムをも剣にかけて殺した。イスラエルの人々はミディアンの女と子供を捕虜にし、家畜や財産、富のすべてを奪い取り、彼らの町々、村落や宿営地に火をつけて、ことごとく焼き払った。
彼らが人や家畜など、戦利品と分捕ったものをすべて集め、それらの捕虜、分捕ったもの、戦利品を従えて、ヨルダン川を挟んでエリコの対岸にあるモアブの平野に陣を張っていたモーセと祭司エルアザル、およびイスラエルの人々の共同体のもとに戻って来たので、モーセと祭司エルアザルおよび共同体の指導者全員は、宿営の外に出て来て彼らを迎えた。
モーセは、戦いを終えて帰還した軍の指揮官たち、千人隊長、百人隊長に向かって怒り、彼らにこう言った。「女たちを皆、生かしておいたのか。ペオルの事件は、この女たちがバラムに唆され、イスラエルの人々を主に背かせて引き起こしたもので、そのために、主の共同体に災いがくだったではないか。直ちに、子供たちのうち、男の子は皆、殺せ。男と寝て男を知っている女も皆、殺せ。女のうち、まだ男と寝ず、男を知らない娘は、あなたたちのために生かしておくがよい。
via Bloody Bible]
たとえ同族であっても神が殺せと言えば、この有様:
民数記 / 15章 32-36節 安息日の違反
イスラエルの人々が荒れ野にいたときのこと、ある男が安息日に薪を拾い集めているところを見つけられた。
見つけた人々は、彼をモーセとアロンおよび共同体全体のもとに連れて来たが、どうすべきか、示しが与えられていなかったので、留置しておいた。
主はモーセに言われた。「その男は必ず死刑に処せられる。共同体全体が宿営の外で彼を石で打ち殺さねばならない。」
共同体全体は、主がモーセに命じられたとおり、彼を宿営の外に連れ出して石で打ち殺したので、彼は死んだ。

[James Jacques Joseph Tissot(1836-1902): "The Sabbath Breaker Stoned" at The Jewish Museum, New York]
こういうのを見てくると、ユダヤ・キリスト・イスラム教によって教育されなければ、人間は「神」の名の下に残虐行為をすることがないと思うかもしれない。しかし、おそらく、それは誤りだ。
共感の輪(暴力が入り込まない道徳の輪)Steven Pinkerによれば、人間は共感を覚える範囲で他人を人間として扱えるが、その外側はそうではない。
共感の輪は伸縮自在
このシニカルな分析そのものが、現代の読者にはしっくるこないかもしれないが、それは私たちがほかの人たちを、場合によっては庭の雑草のように抹殺すべき対象となる環境の一部にすぎないと見なすことができないからである。私たちはサイコパスでもないかぎり、ほかの人たちに共感をおぼえるので、平気で障害物や獲物として扱うことなどできない。しかしそうした共感は、有史、先史を問わず人びとがしてきた残虐なふるまいの妨げにはならなかった。この矛盾は、人びとが認識する道徳の輪が、氏族や村や部族のメンバーだけを含む、すべての人類を含んでいない場合があることを思い出せば解消できるのではないだろうか[55]。その道徳の輪のなか入る人間は教官の対象になり、外側の人間は岩や川や一塊の食べ物と同様に扱われる。(pp.76-77)
...
カニバリズムは強い嫌悪感をもよおすため、人類学者でさえ、先史時代によくあったことを長いあいだ認めなかったほどである。そんなひどい行為をすることができる人間が本当にいるのだろうか、と考えるのは簡単だ。しかし動物の権利運動家は、肉を食べる人間に対して同様の軽蔑を感じている。肉を食べる人間は、避けることのできる死を何百万も生じさせているばかりか、やりかたもまるで無神経である。牛には麻酔なしで虚勢や焼印をほどこし、魚は口に針を刺してつりあげ、船倉に放置して窒息死させ、ロブスターは生きたままゆでる。私がここでしたいのは、菜食主義に賛成する道徳的な主張ではなく、人間の暴力性と残酷さに光をあてることである。歴史や民族誌は、人間がよそ者を、今日の私たちがロブスターを扱うようなやりかたで扱えることを示している。私たちがそのような行為を理解できないのは、動物の権利運動家が私たちの行為を理解できないのと同じことかもしれない。「拡大する輪(The Expanding Circle)」の著者であるピーター・シンガーが「動物の解放(Animal Liberation)」の著者であるのも偶然ではない。(pp.77-78)
...
大多数の兵士は戦場で武器を発射するふんぎりがつかないと思い込んでいる知識人がたくさんいる。20世紀中に何千万という兵士が撃たれているのだから、そんな話は信じられない(ストッパードの「ジャパニーズ」にでてきた、ゼノンのパラドクスによれば矢は的に近づけないのだから、聖セバスチャンは恐怖のために死んだにちがいないと言う教授のことを思いだす)。この思い込みの出所をさかのぼると、第2次世界大戦に参加した歩兵についてのたった一つの疑わしい研究にいきつことがわかっている。対面聞きとりによる追跡調査に対して、男たちは武器を発射したかどうかと聞かれたことさえないし、まして発射しなかったと言ったおぼえなどないと答えた[61]。戦場にいる兵士や民族虐殺の暴徒を対象にした近年の調査によれば、彼らはしばしば嬉々として、ときには彼らが「楽しい」あるいは「恍惚」と表現した状態で人を殺している[62]。
グラヴァーが紹介した逸話は人は、暴力が入り込まない道徳の輪の内側に知らない人間を入れることができるという希望を強める。しかし同時に、デフォルトとしては知らない人間を締めだすようになっているらしいということも、あらためて感じさせる。(pp.80-81)
[55]
Singer P.: "The expanding circle: Ethics and sociobiology", New York Farrar Straus & Giroux, 1981.
[61]
Bourke J: "An intimate history of killing: Face-to-face killing in 20th century warfare", New York, Basic Books, 1999. (pp.63-64)
Graves DE: "Naked trouths for the asking: Twebtieth-century military historians and the battlefield narrative" in ed Charters DA, Milner M and Wilson JB: "Military history and the military profdession", Westport, Conn, Greenwood Publishing Group, 1992.
Spiller RJ: "S. L. A. Marshall and the ratio of fire", RUSI Journal 133, 1988.
[62]
Bourke J: "An intimate history of killing: Face-to-face killing in 20th century warfare", New York, Basic Books, 1999.
Glover J:"Humanity: A moral history of the twentieth century", Kibdibm Jonathan Cape, 1999.
Horowitz DL: "The deadly ethic riot", Berkeley, University of California Press, 2001
[スティーブン・ピンカー(著) 山下篤子(訳): 人間の本性を考える〜心は「空白の石板」か, NHKブックス,
(下) pp.76-81 (Steven Pinker: "The Blank Slate", 2002)]
「たった一つの疑わしい研究」に寄り道を...ところで、スティーブン・ピンカーの言う「第2次世界大戦に参加した歩兵についてのたった一つの疑わしい研究」とは、S.L.A.Marshallの研究である。おそらく、その原文よりも、「戦争における人殺しの心理学」の引用の方が知られているかもしれない:
第2次世界大戦中、米陸軍准将S.L.A.マーシャルは、いわゆる平均的な兵士たちに戦闘中の行動について質問した。その結果、まったく予想もしなかった意外な事実が判明した。敵との遭遇戦に際して、火線に並ぶ兵士100人のうち、平均してわずか15人から20人しか「自分の武器を使っていなかった」のえだる。しかも、その割合は、「戦闘が一日じゅう続こうが、二日三日と続こうが」つねに一定だった。
マーシャルは第2次世界大戦中、太平洋戦域の米国陸軍所属の歴史学者であり、のちにはヨーロッパ作戦戦域でアメリカ政府所属の歴史学者として活躍した人である。彼の下には歴史学者のチームがついていて、面接調査に基づいて研究を行っていた。ヨーロッパおよび太平洋地域で、ドイツまたは日本軍との接近戦に参加した400個以上の歩兵中隊を対象に、戦闘の直後に何千何万という兵士への個別および集団の面接調査が行われたのである。その結果はつねに同じだった。第2次世界大戦中の戦闘では、アメリカのライフル銃兵はわずか15パーセントから20パーセントしか敵に向かって発砲していない。発砲しようとしない兵士たちは逃げも隠れもしていない(多くの場合、占有を救出する、武器弾薬を運ぶ、伝令を務めるといった、発砲するよりも危険の大きい仕事を進んで行っている)。(pp.43-44)
[デーヴ・グロスマン(著) 安原和見(訳): "戦争における「人殺し」の心理学, 1998 (ちくま学芸文庫版 2004, (David A. Grossman: "On Killing", 1995)]
David A. Grossmanは自身の経験や過去の戦史などをから、S.L.A.Marshallの発砲率を信頼している。しかし、Spiller RJは、S.L.A.Marshallの調査を疑わしいものとしている:
In Men Against Fire Marshall claims to have interviewed "approximately" 400 infantry rifle companies in the Pacific and in Europe, but that number tended to change over the years. In 1952, the number had somehow grown to 603 companies; five years later his sample had declined to "something over 500" companies. Those infantry companies—whatever their actual number—were his laboratories, the infantrymen his test subjects, and at the focal point of his research was the ratio of fire. "Why the subject of fire ratios under combat conditions has not been long and searchingly explored, I don't know," Marshall wrote. "I suspect that it is because in earlier wars there had never existed the opportunity for systematic collection of data."
"Men Against Fire"で、太平洋と欧州の"約"400の歩兵中隊を対面調査したと Marshallは主張しているが、その数は年とともに変化している。1952年には、その数は603中隊に増えた。その5年後にはサンプル数は減少して500超になっている。本当の数が幾つであれ、これらの歩兵中隊がMarshallの研究室であり、歩兵は彼の試料であり、研究の焦点は発砲率だった。Marshallは「戦闘状況における発砲率の問題が研究されて来なかった理由がわからない。これまでの戦争には系統的にデータを収集する機会がなかったからではないかと考えている」と書いている。
Opportunity aplenty existed in Europe: more than 1200 rifle companies did their work between June 1944 and V-E day, 10 months later. But Marshall required by his own standard two and sometimes three days with a company to examine one day's combat. By the most generous calculation, Marshall would have finished "approximately" 400 interviews sometime in October or November 1946, or at about the time he was writing Men Against Fire.
欧州には多くの機会があった。1200以上の歩兵中隊が駐留していて、1944年6月から10か月のV-E dayまで作戦行動にあった。しかし、Marshallは自らの基準である2日、時には3日にわたって歩兵中隊と生活し、1日の戦闘を調査した。気前よく言ったとしても、Marshallは約400個中隊の面談は、1946年の10月か11月あたりまで、もしくは"Men Against Fire"の執筆まで、かかったはずだ。
This calculation assumes, however, that of all the questions Marshall might ask the soldiers of a rifle company during his interviews, he would unfailingly want to know who had fired his weapon and who had not. Such a question, posed interview after interview, would have signalled that Marshall was on a particular line of inquiry, and that regardless of the other information Marshall might discover, he was devoted to investigating this facet of combat performance. John Westover, usually in attendance during Marshall's sessions with the troops, does not recall Marshall's ever asking this question. Nor does Westover recall Marshall ever talking about ratios of weapons usage in their many private conversations. Marshall's own personal correspondence leaves no hint that he was ever collecting statistics. His surviving field notebooks show no signs of statistical compilations that would have been necessary to deduce a ratio as precise as Marshall reported later in Men Against Fire. The "systematic collection of data" that made Marshall's ratio of fire so authoritative appears to have been an invention.
しかし、この計算は、面談で歩兵中隊の兵士にMarshallが問うた質問は、誰が自身の武器を使ったかを間違いなく知ろうとしていたことを仮定している。面談を繰り返して行われた質問は、彼が特定の問題に関心を持っていて、Marshallが発見した他の情報にかかわらず、彼は先頭のパフォーマンスのこの側面の調査のみに集中していたことを示している。通常、Marshallの面談に立ち会っていたJohn Westoverは、Marshallがそのような質問をしたことを、覚えていない。さらに、Westoverは、多くの個人的な会話で、これまでに武器使用の比率について話しているMarshallを覚えていない。Marshall自身の私信には、そのような統計を集めていた痕跡がみられない。残されたMarshallのフィールドノートには、"Men Against Fire"に書かれたような正確な比率を算出するために必要な統計処理の痕跡も見られない。Marshallの発砲率の信頼性を高めた「系統的なデータ収集」はでっちあげだったようである。
[quoted by From The Royal United Services Institute for Defence Stduies -- S.L.A.Marshall's Raio of Fire]
話を戻して...それはさておき、話を「暴力が入り込まない道徳の輪」にもどそう。
Singerによれば、人間の利他性の及ぶ範囲(暴力が入り込まない道徳の輪)は、生物学的な種としてのホモサピエンスではないようだ。Singer自身の道徳の輪は、ホモサピエンスよりも外側まで広がっていて、動物の権利の主張につながっている。しかし、一般には、おおよそ、ホモサピエンス全体あたりに、たまたま重なっている。そして、Steven Pinkerの指摘するように、その輪は拡大することもあれば、縮小することもある。
さて、ここで、この前の想定「
神の似姿で神によって創造された人間という命題によって、人間の尊厳が保証される?(2008/09/12)」を持ち出そう:
GDE世界
この宇宙とはつながりがない、次のようなGDE世界がある:- この宇宙と物理法則などは同一である
- 超越的な神(God)が存在する
- 超越的な神(God)は6000年前にGED世界(GDE地球とGDE太陽とその他のGDE宇宙)を創造した。
- God以外に、世界を創造するほどの力はないが、そこそこの超越的な力を持つDevilが存在する。
さらにGDE聖書が存在して:- GDE聖書の執筆者はGodのインスピレーションによって執筆した。記述内容の正確性はGodの保証つき
- GDE聖書には、DNAにあるGod署名とDevil署名の識別方法が記載されている。
- GDE聖書は、人間をGodが創造したAdamとEveの子孫のみだと定義されている。
- GDE聖書は、人間について、生命の尊厳や愛などを規定している。
- GDE聖書は、Devilによって作られた人間のようなものが存在していると記述している。
- GDE聖書は、Devilによって作られた人間のようなものを滅ぼすべき対象として規定している
- GDE聖書は、善悪判断の基準であると規定している
- GDE世界の人間たちはGodを信仰し、GDE聖書を真実であると信じている。
この想定のGodに創造された人間たちが、我々と同じであれば、サクッとDevilによって創造された"人間"を殺せるだろう。たとえ、ゲノム的に同一だったとしても。「暴力が入り込まない道徳の輪」が"Godに創造された人間たち"の範囲に完全に重なり、その内側はそれなりに利他性が発揮されるだろう。
Richard Dawkinsは「連続性」によって「神の似姿」を...Richard Dawkinsが繰り返し記述するネタのひとつに「人間から人間でないものへの連続性」がある。それは「神の似姿で創造された人間という人間を特別視するキリスト教の基本的なポジション」と対置される考え方である:
Human means special, unique, sacred, of infinite worth, to be venerated as the possessor of "human dignity." Animal means to be treated kindly but put to human use, painlessly destroyed when usefulness is past, killed for sport, or as a pest. A rogue lion that kills people will be shot, not in revenge, not as a punishment, not as a deterrent to other lions, not to satisfy the relatives of the victim, but simply to get it out of the way: not punishment, but pest control. A rogue human who kills people will be given a fair trial, and if sentenced will probably not be killed. If he is killed, it will be with grisly ceremony, after appeals, and in the face of massive, principled objection. Of all the justifications offered for capital punishment, one that will never be heard is pest control. It has no place in penal theory. Humans, to the absolutist mind, are forever divided from "animals."
人間は、特別で、唯一の、聖なる、無限の価値を持つ、人間の尊厳の所有者として崇拝されるものを意味する。動物は、親切に扱われるが、人間のために使われ、役に立たなくなると無痛で殺され、スポーツのために殺され、あるいはペストとして扱われることを意味する。人間を殺す危険なライオンは、復讐のためでもなく、犠牲者の親族を安心させるためでもなく、他のライオンへの抑止力のためでもなく、罰としてでもなく、単に人間に近寄らせないために射撃される。人間を殺す危険な人間は、公正な裁判を受け、判決を宣告されても、おそらく殺されることはないだろう。彼が死刑になれば、アピールの後に恐ろしい式典が行われ、巨大で理にかなった異議に直面することになるだろう。死刑を正当化する理由として、決して主張されることがないものは、ペストコントロールである。そんなものは刑法理論上、存在しない。人間は絶対的な心によって、動物と決定的に分たれる。
A real, live Lucy would drive a coach and horses through this double standard. Of course we already know that we are cousins of chimpanzees. But the intermediates are all conveniently dead, so it is easy to forget. If we succeed in cloning a Lucy and a series of graded, mutually fertile intermediates linking us to chimpanzees, what would the pro-"lifers" do then, poor things?
本当に生きているルーシーは、このようなダブルスタンダードを正す力を持つだろう。もちろん、我々はチンパンジーが従兄弟であることを知っている。しかし、中間種が都合よく全て死滅しているので、そのことを忘れることは容易だ。我々が、ルーシーや、我々とチンパンジーの中間の段階的な種をクローンで作れれば、Pro-liferたちは何ができるだろうか?
[Richard Dawkins: "The word made flesh" (2007/12/27) on Guardian]
Dawkinsの机上想定「連続的なクローンたち」によって、「神の似姿」とそうでないものの境界線は、科学的にも、見た目でも引けなくなるだろう。
でも、少なくとも福音主義キリスト教は「神の似姿で神によって創造された人間という命題によって、人間の尊厳を保証している」ようなので、「神によって創造された人間」という線引きはなくならない。科学や見た目での線引きができなくなれば、むしろ「神によって創造された人間」という線引きだけが残る。
そして、「神の似姿で神に創造された人間」に「ルーシーや、我々とチンパンジーの中間の段階的な種」は該当しない。そうすれば、「神の似姿で神に創造された人間」を信じる人々は、サクッと「ルーシーや、我々とチンパンジーの中間の段階的な種」と始末できるようになる。しかも、それによって、「暴力が入り込まない道徳の輪」の内側にいる人間に対する利他性を損なうことはおそらくない。
そして、インテリジェントデザイン支持者Richard Weikartは...Richard Weikartは2004年3月の記事「
Does Darwinism Devalue Human Life?」で、前記のRichard Dawkinsの記事についても、Quote Miningを使った攻撃を仕掛けている。
でも、「神の似姿で神に創造された人間」に「ルーシーや、我々とチンパンジーの中間の段階的な種」は該当しないなら、ルーシーや、我々とチンパンジーの中間の段階的な種」のクローンができたとしても、人間の尊厳の保証に関して、何の問題もない。それらの種と人間の境界はゆらぐことなどないはずだ。
それとも、Richard Weikartは「神の似姿で神に創造された人間」という命題は、ルーシーや、我々とチンパンジーの中間の段階的な種」によって崩れ落ちるとでも考えているのだろうか。
posted by Kumicit at 2008/10/01 00:51
|
Comment(0)
|
TrackBack(0)
|
Skeptic
|

|