2006/11/04

生物学まわりの目的論についての調べものメモ

まずは、Stanford Encyclopedia of Philosophyの「Teleological Notions in Biology(生物学における目的論の概念)」から:
生物学における目的論の概念

"機能"とか"デザイン"といった目的論用語がしばしば生物科学に登場する。目的論主張の例には以下のようなものがある:

  • 捕食者に見つけられたことを伝えるためのアンテロープ[wiki:レイヨウ]のストッティング機能
  • 急上昇できるようにデザインされたワシの翼

目的論の概念は、生物学が超自然の創造主による意図的デザインの証拠を提示するというダーウィン以前の見方に一般的に伴われるものである。大半の生物学者が創造論者の見方を否定した後も、次のような用語がどうかについて、生物学における目的論の役割についての懸念に対する様々な素地が残った:

  1. 生気論(特別な生命力を事実と仮定する)
  2. 遡行因果律(backward causation)を必要とする(将来の結果で現在の特徴を説明する)
  3. 機械論的説明と両立しない(1と2により)
  4. 心理主義(何もないところで心の作用のせいにする)
  5. 経験的に検証不可能(1〜4による)


ダーウィン進化論が生物学から目的論を除く手段を提供するのか、そして科学における目的論の概念の役割の自然主義的説明を与えるのかについて意見は分かれる。多くの現代の生物学者と生物哲学者は、目的論の概念が生物学の説明の特徴的かつ除去できない特性であるが、上記の懸念を避けるような、目的論の役割の自然主義的説明を与えることは可能であると信じている。用語の問題は、ときとして、広く認められた区別を不明瞭にすることがある。

Teleomentalism (目的論的心理主義)
目的論的心理主義者は、心理学的意図や到達点や目的の目的論を、生物学における目的論理解のための主要なモデルとみなす。創造論を除けば、もっとも一般的な目的論的心理主義者の見方は、生物学における目的論的主張はメタファーに過ぎないというものである。すなわち、心理学的目的論との多少のゆるやかな比較の基に生物学現象を描写・説明することである。生物学における目的論がメタファーであると考える者たちは、目的論を除去可能とみなす。すなわち、目的論への言及を避けても、生物科学は本質的に何ら変わらないのだと信じる。

Teleonaturalism (目的論的自然主義)
目的論的心理主義を否定する者たちは、心理学的エージェントの意図や到達点や目的に言及しない、生物学における目的論的主張が自然主義的に真である条件をさがそうとする。目的論的自然主義者のなかには、他の科学の分野に見られるような描写と説明の形に、目的論的表現を修正しようとする者もいる。そのような見方のひとつは、サイバネティックに目的論の概念を定めて、生物学的システムがサイバネティックスのシステムである限り、生物学の目的論が適切であると主張する。また、もっと広く認められたアプローチでは、複雑なシステムの能力を様々な部品の能力に分解するものとして、生物学における機能的主張を扱う。

また別の目的論的自然主義は生物学の目的論的見方をユニークで除去不能とみなす。そのような見方のひとつは、生物学における目的論的主張が、生物あるいは種にとって良い物といった、生物学的エンティティに提供される自然の価値に基づいているとみなす。規範的な概念を避けた異なるアプローチでは、自然選択淘汰と進化論について、はっきりと生物学的目的論を定める。

一部の理論家たちは、生物学が機能についての2つの概念を取り入れるという多元的な考えを支持した。すなわち、ひとつは特徴の存在を説明するもので、もうひとつは、いかにそれらの特徴が生物の複雑な能力に寄与しているかを説明するものである。また、他の理論家たちは、生物の生物学的適応度という説明の目標とみなすこことで、機能についての見かけ上は異なっている概念を統合できると論じた。しかしながら、生物哲学者の主流の見方は、自然選択の説明が、生物学における目的論の概念の主たる用途を最もよく説明するというものである。


Natural Selection Analyses of Function(機能の自然選択の分析)

自然選択に言及する生物学機能の説明は、典型的には次の形をとる。すなわち、その機能の特徴は、自然選択のメカニズムによって、所与の集団におけるその特徴の存在を原因として説明する。この見方の3つの構成要素は次のように分離すると都合が良い:

  1. 生物学における機能的主張は、所与の集団での、ある特徴の存在の説明を目的とする。
  2. 自然選択のメカニズムによって、生物学的機能は原因として、特徴の存在と関係する。
  3. 生物学における機能的主張は、自然選択に完全に基づいていて、デザインや意図や目的と言った概念の心理学的用途の派生物ではない。

この説明の変種のほとんどは、最初の2点にある:

  1. ある理論家たちは、新しい表現形の特徴の初期の広がりと、その集団の特徴の維持を区別しようという立場をとる。
  2. またある理論家たちは、それらの特徴の効果がその特徴を持つ生物の選択に過去に寄与したという意味でのみ、その特徴の機能を分析するという、因果関係あるいはbackward-lookingなアプローチを採る。また他の理論家たちは生物の集団における特徴の現在もしくは将来の存在に寄与する傾向を創る効果という意味でのみ、その特徴の機能を分析するという、傾向性(dispositional)あるいはforward-lookingなアプローチを採る。



Function and Design (機能とデザイン)

生物学の目的論についての論争で、自然のデザインの概念について、あまり注意を払ってこなかった。この原則を受け入れたかのように、機能とデザインについての主張の間を行き来するのは一般的である:
  • もしXが特徴Tの生物学的機能であるときのみ、特徴Tは自然にデザインされている。

この形でデザインと機能の概念を崩壊させることには、生物学的機能の概念をうまく自然主義化できれば、自然のデザインの概念も同様であるという優位点がある。

しかしながら、デザインの生物学的概念は有用性以上のものを意味するようだ。雌ガメは砂に巣を掘るために足びれを使う。これは確かに、その集団においてその特徴が維持されることの説明になっている。従って、原因の説明において、砂を掘るのは足びれの機能である。それでもなお、この目的のために足びれがデザインされたというのは間違いだ。これは、機能とデザインを別々に分析すべきだということを示唆する。これを方法の一つは次のようなものだ:
  • Xをするように自然にデザインされた特徴Tは次のことを意味する:
    1. XはTの生物学的機能であって
    2. Tは、先祖バージョンのTよりも、Xに対して最適あるいはより適応したTに働く自然選択によって、解剖学的もしくは行動的構造が変化した仮定の結果である。

この分析について、ワシの翼が急上昇するようにデザインされたと言うことは、第1に、急上昇する能力が他の飛行方法に対して、ワシの先祖の一部が他よりも高い繁殖能力を持っていた理由を説明し、第2に、ワシの翼が先祖バージョンの翼よりも急上昇することに適応していると主張することである。第2の部分は、化石記録と照合されるかもしれない歴史の主張である。


Adaptation, Exaptation and Co-opted Use (適応・外適応・コオプション)

適応の概念は生物学者の間で論争対象となっている。というのは、すべての可能性世界でこれが最良であるという楽天的(Panglossian)確信を示唆するからだ。しかしながら、現在の生物の特徴が先祖の対応する特徴よりも何らかの効果を作るのに優っているといった比較についての判断は、楽天的(Panglossian)仮説を必要としない。これは、ある機能について、AがBよりも、より最適であるか、より適応していると主張することは、Aがその機能について最適であるとか、良いといったことさえ意味しないからだ。

Gould & Vrba (1982) は、砂を掘ることがカメの足びれの機能だということは否定し、代わりに外適応という呼ぶだろう。彼らが"機能"という言葉を使うことを奨めるのは、自然選択が何らかの用途のためにその特徴を形成したときに限るだろう。しかし、この推奨は、ものごとを解明するというよりも、普通の生物学での用法を変更しようとするものだ。これは、デザインや機能の概念をごちゃまえにするので、機能あるいはデザインの変形の選択なのか、生物の特徴がそのために変形されないで取り込まれた外適応なのかを識別する方法が必要となる。

カメの足びれが卵を砂に埋めるために特に変形されたものでないとしても、そのことは、足びれを持つカメが、持たないかめに対して選択された理由を説明することには使える。これを機能と呼ぶか、外適応と呼ぶかは擁護問題であって、新語についての好みで決まるものだ。

ちょっとこれはまじめすぎる説明。

The Skeptic's Dictionary(日本語版)のnaturalism(自然主義)の説明がわりとわかりやすい:
性衝動

目的論的な見地では、性衝動は種の再生産のためにつくられたものである。セックスでよろこびを得られることは、再生産という目的を実行する誘因となる。もしセックスがたいへん苦痛をともなうものなら、種を構成する動物はセックスを避けるだろうし、そうすればその種は絶滅してしまうだろう。カトリックの目的論者には、性的動機づけの中で正しいのは、再生産のためのセックスだけである、と唱える者もいる。再生産というセックスの持つ目的を失わせることは、神の定めた目的に反することであり、背徳的だとしているのである。したがって、家族計画やホモセクシャルは、不自然であるがゆえに、道徳的に間違っていることになるのである。

機械論的見地では、性的欲求に目的は存在しない。動物は再生産をおこなうよう動機づけられているわけではない。むしろ、性的衝動が強い動物ほど再生産を活発におこない、したがってより多く繁殖するのである。性的衝動の弱い種は、生存の可能性が低くなる。こうした見地からは、セックスの目的が失われることはありえない。なぜなら、セックスには一般に目的がないからである。(もちろん、特定の相手とセックスをしたいという欲求には目的性がある。対象の性別にかかわらず特定の相手とセックスをしたいというのこそが、ここで見られる目的なのである。)ある特定の目的を満たすようにつくられているわけではないため、道徳的な善し悪しは、それが自然かどうかでは判断できない。有益性のように、それ以外の倫理的原則をあてはめるべきである。いずれにしても、自然主義はすべて自然であるがゆえに善いものである,とは仮定しないのである。

Skepdicが示す目的論的見地の例は、「性衝動は再生産という目的を持つ」という古典バージョンから「その目的でデザインしたは神」という宗教バージョンを経て、「再生産目的以外のセックスは不自然なので不道徳」という"Appeal to Nature"バージョンに至るもの。うまい例である。

自然科学が排除したのは古典バージョンの目的論であり、自然科学は宗教バージョンを肯定も否定もしない。そして"Appeal to Nature"バージョンはただの詭弁。ただし、「神の定めた目的に反することであり」」は宗教バージョンとして有効。

posted by Kumicit at 2006/11/04 00:01 | Comment(0) | TrackBack(0) | ID Introduction | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006/10/20

訓示だったような気がするのだが...

「利己的遺伝子」って学説・理論の類だったかなあ...
訓示だったような気がするのだが...

ということで調べものメモ:

Gene-centered view of evolution(遺伝子中心の見方)へ

生物の利他的行動の説明として、かつてGroup Selection(群進化)という考え方があった。が、G.C. Williamsなどがこれを批判し、遺伝子中心主義の見方につながった:
In evolutionary biology, group selection refers to the idea that alleles can become fixed or spread in a population because of the benefits they bestow on groups, regardless of the fitness of individuals within that group.

Group selection was used as a popular explanation for adaptations, especially by V.C. Wynne-Edwards. However, critiques, particularly by George C. Williams in his 1966 book Adaptation and Natural Selection, John Maynard Smith (1964) and C.M. Perrins (1964) cast serious doubt on group selection as a major mechanism of evolution, and led to a more gene-centric view of evolution.

群の中での個体の適応度に関わらず、群にとって有利な形質であれば群の生存率を高めるので、対立遺伝子が定着し、群れに広まるという考えを、進化生物学では群進化と呼ぶ。

群進化は、特にV.C. Wynne-Edwardsが適応の一般的説明として使われた。しかし、George C. Williams[1966/1972]やJohn Maynard Smith[1964]やC.M. Perrins[1964]のような批判者たちは、進化の主たるメカニズムとしての群選択に重大な疑問を投げかけ、遺伝子中心[Gene-centered view of evolution]という見方につながった。

Williams, G.C.: "Adaptation and Natural Selection: A Critique of Some Current Evolutionary Thought", Princetown UP. ,1966/1972.
Maynard Smith, J. Group selection and kin selection Nature 201:1145-1147, 1964
そのひとつがKin Selection[血縁選択]である:
Kin selection refers to changes in gene frequency across generations that are driven at least in part by interactions between related individuals, and this forms much of the conceptual basis of the theory of social evolution. Indeed some cases of evolution by natural selection can only be understood by considering how biological relatives influence the fitness of each other. Under natural selection, a gene encoding a trait that enhances the fitness of each individual carrying it should increase in frequency in the population; and conversely, a gene that lowers the individual fitness of its carriers should be eliminated. However, a gene that prompts behaviour which enhances the fitness of relatives but lowers that of the individual displaying the behavior (i.e. kin selection), may nonetheless increase in frequency, because relatives often carry the same genes. The enhanced fitness of relatives can at times more than compensate for the fitness loss incurred by the individuals displaying the behaviour.

世代間の遺伝子頻度の変化は、少なくとも部分的には血縁関係にある個体の相互作用に影響されるというのが血縁選択の考え方である。そして、これは社会進化の理論の概念的基礎を形成する。実際、自然選択による進化の事例の一部は、生物学的血縁関係が相互の適応度に影響していると考えないと説明できない。自然選択のもとでは、適応度を上げる特徴をコードした遺伝子は、その集団の中で頻度が増加するはずである。逆に言えば、適応度を下げる遺伝子は除去されるはずである。しかし、血縁関係にある個体の適応度を上げるが、自らの適応度を下げるような行動をコードしている遺伝子の頻度は増加するかもしれない。これは、血縁関係にある個体がおおよそ同じ遺伝子を持っているからである。血縁関係の適応度の増加は、その個体の挙動によって自らの適応度を下げたことを十分に補償する場合がありうる。

Hamilton, W.D. (1964). The genetical evolution of social behaviour I and II. — Journal of Theoretical Biology 7: 1-16 and 17-52. pubmed I, pubmed II
なお、これの初出はHamilton[1964]だが、Kin Selection(血縁選択)という用語は、 John Maynard Smith[wiki]による命名。

で、遺伝子が選択の単位であるという考え方そのものは、Colin Pittendrigh[1958]や、 William Hamilton[1963,1964]で提示され、George C. Williams[1966/1972]やRichard Dawkinsの"Selfish Gene"などで発展したもの[wiki:Gene centered view of evolution]。

Pittendrigh, C. (1958) Adaptation, natural selection, and behavior. In A. Roe and G. G. Simpson, eds., Behavior and Evolution, New Haven: Yale University Press, pp 390-416.
Hamilton, W. D. (1963) The evolution of altruistic behavior. The American Naturalist 97 (896): 354-356.
Hamilton, W. D. (1964) The genetical evolution of social behaviour. Journal of Theoretical Biology 7: 1-52.

George C. Williams[1966/1972]によれば:
The essence of the genetical theory of natural selection is a statistical bias in the relative rates of survival of alternatives (genes, individuals, etc.). The effectiveness of such bias in producing adaptation is contingent on the maintenance of certain quantitative relationships among the operative factors. One necessary condition is that the selected entity must have a high degree of permanence and a low rate of endogenous change, relative to the degree of bias (differences in selection coefficients). (Williams, 1966, p.22-23)



Dawkins: "Selfish Gene"

Richard Dawkinsの本"Selfish Gene"は、peer-reviewedな学術論文ではなく、科学解説書だし、前書きも:
This book should be read almost as though it wewe science fiction. It is designed to appeal to the imagination. But it is not science fiction: it is a science.
この本はSFのように読んでもらいたい。イマジネーションに訴えるように書いている。しかしこれはSFではない。科学である。[Preface to 1976 edition]

そして、"Gene-centered view"という考え方がG. C. Williams[1966]に大きく影響されたものであり、それは遺伝子が発見される前になされた「生殖質の連続性」と「獲得形質は継承されない」というWeismannの主張に基づくものと記している:
Before that I must argue for my belief that the best way to look at evolution is in terms of selection occurring at the lowerst level of all. In this belief I am heavily influenced by G. C. Williams's great book "Adaptation and Natural Selection"[1966]. The central idea I shall make use of was foreshadowed by A. Weismann in pre-gene days at the turn of the century -- his doctrine of the 'continuity of the germ-plasm'.[Why are people?]

索引を見ても、"Selfish Gene"に最頻出な人物はKin SelectionやGene-Centered ViewなWilliam Hamiltonである。

ちなみに1976年の"Selfish Gene"の出版以前に、Dawkinsによるselfish geneなpeer-reviewedな文献も見あたらず、出版後もそれらしいのは:
 Darwkins, R.: "In defence of selfish genes", Philosophy, 36, 336-73, 1979.
くらいであり、しかも、これは生物学の研究成果...というわけではなさそう。

実のところは、"Selfish Gene"は進化論の論点を訓示的に述べたもの:
ドーキンスの「利己的遺伝子」という概念における「利己的」という語は、文字どおりとってもらおうというものではない。遺伝子が利己的にふるまうことができないのは当然のことだ。利己的というのは道徳的な特性であり、それはおそらく人間だけが所有するものだろう。ドーキンスもこのことは誰よりもよく知っている。彼が言いたいことは、アナロジーによるものだ。遺伝子はそれが利己的であるかのように、遺伝子は自分の利益だけを気にしているかのようにふるまっている(もちろん数学的な意味で)ということである。実は、もちろん、遺伝子が何かするわけではない。遺伝子は単なる無力なDNAによる小片で、その唯一の機能的能力は、自らの複製を作るということだけである。しかし、ダーウィン的自然選択の過程は、遺伝子が次の世代の自分を複製できる効率が能動的な選択に見えるように、遺伝子に作用する。ドーキンスは、我々が行動(あるいは他の何でも)の進化について問うときには、遺伝子の側から見なければならないということを指摘しているだけである。この論点は訓示的なもので、進化論研究においては、与えられた遺伝子の次の世代に現れる複製の数という観点から説明されなければならないということを意識させるものだ。
[Robin Dumber:「科学がきらわれる理由」(訳本 1997,原書 1995) p213 鏡の国の科学 メタファーの問題]


posted by Kumicit at 2006/10/20 08:03 | Comment(0) | TrackBack(0) | ID Introduction | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006/08/14

数学は科学を素人の手の及ばないところに持っていく

数学が科学に必須の成分となったことで、科学は素人に手の出せるものではなくなった。これはニュートンによって物理に始まり、1970年代には生態学や動物行動学にまで及んだという:
たとえばアリストテレスの著作は、それなりの水準の教育があれば誰でも読んで理解できるものだった。コペルニクスが1543年に『天体の回転について』を出版したときには、部外者でも、さしたる困難もなくその論旨をたどることができた。1632年にガリレオが『天文対話』を出したときでさえ、物理学は、そこに含まれている数学に通じていなくても、教育を受けていれば、部外者でも理解できる範囲内だった。しかしそのわずか50年後にニュートンの『プリンキピア・マテマティカ』が出たときには、事態は突如としてまったく別の方向に向かった。ある日突然、科学は鏡をくぐりぬけて、専門家にしか理解できないものになったのである。
 何が起きたかと言えば、数学が科学の必須の成分になっていたということである。議論の展開は、微積分や、生まれつつあった確率論などの、新しい数学的な技法に通じている読者だけが理解できるような新しい水準に引き上げられていた。物理学は専門家でなければ見通せないものになった。
 対照的に生物学は、なお少なくとも二世紀の間、素人にも手が出せるものだった。ダーウィンの本のような専門書が広く読まれたのである。しかし、1700年以後に出された物理の教科書で、出版社のベストセラー図書に入ったものはない。ところが、今では同じことが生物学にも起こりつつある。生物学で鏡をくぐりぬけた最初のものは遺伝学であり、これは1930年に完全に数理化された。今日では、進化遺伝学の教科書は、多くの生物学者にとってさえ、あまりに数理的で理解できなくなっている。生物学の中でも化学指向の強い分野(生理学、細胞学など)も、その後まもなく、基礎化学の利用が重要になるにつれて、同じ運命をたどるようになった。
 生物学の中でも、まだ素人に手が出せる領域は、生態学や動物行動学のような行動にかかわる分野である。しかしこれさえも1970年代には数理化されるようになった。1970年代半ばまでは、動物の行動について、世間の人々が誰でも納得できるような一般向けの記事を書くことは、まだ可能だった。そこで、扱われるのは、ごく身近でおなじみの行動だった---春になるとなわばりをめぐって争い、明け方いっせいにさえずり、ひなに餌をやる鳥などである。生物学者が集団遺伝学や経済学で用いられる数理的道具を行動の研究に使えないかと試すようになった1970年代に、事態は密かに、しかし劇的に変化した。

ロビン・ダンバー (松浦俊輔 訳) 「科学がきらわれる理由」pp.205-206, 1997


確かに、ニュートンやケプラーたちの成果は、数式なしには成り立たなくなっていた。

「惑星は太陽をひとつの焦点とする楕円軌道を運動する」というケプラー第1法則[wiki:ケプラーの法則]を知らない人はあまりいないだろう。しかし、これを万有引力の法則から導出する方法を覚えている人は多くないかもしれない。ちなみに、Kumicitは大学1年のときの力学の教科書[喜多ほか:基礎物理コース 力学]を引っ張り出して、紙と鉛筆で式を追って、しばし記憶の回復を待たねばならなかった。

たかだか楕円軌道ごときでも、この有様。
とともに重要なことは、万有引力の法則から楕円軌道を導く過程を、数式なしに説明することは不可能に近いことだ。少なくとも、Kumicitには数式なしに説明できない。たとえ説明できたとしても、次の一歩、たとえば多体問題の説明は数式なしには無理だろう。

そして進化論ももちろん数学まみれ。

にもかかわらず、経済学者Krugman[1996]によれば
So there is a close affinity in method and indeed of intellectual style between economics and evolution. But there is another interesting parallel: both economics and evolution are model-oriented, algebra-heavy subjects that are the subject of intense interest from people who cannot stand algebra.

従って、経済学と進化論には、方法論においても、知的スタイルにおいても、非常によく似ている。しかし、さらに面白い類似点がある。それは、経済学も進化論もモデル指向で、数学が重要な分野でありながら、数学ができない人々に大いに関心を持たれることだ。


進化論対創造論の戦いはまさに、Krugmanの言うとおりである。


メモ:楕円軌道もしくは双曲線軌道の式
posted by Kumicit at 2006/08/14 00:01 | Comment(3) | TrackBack(0) | ID Introduction | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006/07/19

反証可能性メモ

理論が科学である条件として証明可能・反証可能というものがある。

ちなみに、インテリジェントデザインだと「自然法則でも偶然でも説明できなくて意味ありげなものはデザイン」なので、「自然法則でも偶然でも説明できなくて意味ありげなものは、???のせい」と勝負がつかない。従って、肯定も否定もできず、証明不可能かつ反証不可能になる。(また、隙間が埋まっても、他に隙間がある限り、インテリジェントデザインは否定されない。)

"進化論"を反証する方法としてTalkOriginsの挙げる反証可能性は:

  • a static fossil record;
    静的化石の記録

  • true chimeras, that is, organisms that combined parts from several different and diverse lineages (such as mermaids and centaurs) and which are not explained by lateral gene transfer, which transfers relatively small amounts of DNA between lineages, or symbiosis, where two whole organisms come together;

    人魚やケンタウルスなどのような、複数の異なる分かれた血統から部品を組み合わせた生物たる真のキメラで、それが血統間で少しの量の遺伝子の水平移動や、共生によって説明できないもの。

  • a mechanism that would prevent mutations from accumulating;
    突然変異の累積を阻止するメカニズム

  • observations of organisms being created.
    生物が創造されるところの観測

また、EvoWikiの挙げる反証可能性は:

  • Several methods of determining phylogenies (ie: Cladistics) are capable of contradicting the existence of evolutionary trees. They could provide counter-evidence for common descent, but they don't.
    系統発生を決定するいくつかの方法(分岐学)は、進化の木の存在を否定できる。それらは共通祖先の反証を与えうるが、今のところ反証していない

  • The genetic code could conceivably be different between different groups of organisms. If this happened frequently, it would cause severe problems for the theory of common descent. Instead, only minor differences in the genetic code are found, and they tend to occur in ways that strengthen the evolutionary tree.
    遺伝コードは、異なる生物群の間で、異なるかもしれない。これがしばしば起きるなら、共通祖先について大きな問題になりうる。実際には、遺伝コードには小さな差異のみが見つかり、進化系統樹を強化する方向にある。

  • If there were no significant differences in the fauna at different times, or different geographical locations which have been separated for a very long time from other locations (e.g. Australia), this would be a clear falsification.
    異なる時間あるいは、オーストラリアなど長時間にわたって他の地域から分離された異なる地理的な場所において、動物相に顕著な違いがなければ、明らかな反証となる。


ちなみに、創造論者が「進化論も反証不能」と主張する論拠はPopper: "Unended Quest: An Intellectual Autobiography Glasgow: Fontana/Collins"である。しかし、それは論拠にならないことがわかっている:

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posted by Kumicit at 2006/07/19 00:01 | Comment(0) | TrackBack(0) | ID Introduction | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006/04/19

ダーウィニズムさえ利用した宗教 メモ

ダーウィニズムさえ利用した宗教 メモ J.H.ブロック「科学と宗教」[Amazon]

科学と宗教(キリスト教)の絡みつきは、そうそう単純なものではないようだ。

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posted by Kumicit at 2006/04/19 00:06 | Comment(0) | TrackBack(0) | ID Introduction | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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