現象が自然であれ、人間によるものであれ、人間の本性は、その現象の背後に意味を求める。自然災害のような、いわゆる神の仕業も、リスクアセスメントと危機対応計画によって、被害を防止あるいは緩和できた可能性がある。政治的責任の非難ゲーム(blame game)は、報道機関や議会や捜査機関やパブリックフォーラムやソーシャルメディアなどを巻き込むパブリックプロセスである。現代メディアの勃興は、救援・非難・説明責任についての国民の要求に対処する、政治的圧力を燃え上がらせるようになった。非難は危機を乗り越えるのに必要な機能だが、防御的なネガティブな組織的反応や、責任回避や、非難ゲームは、政府や機関の評判を落とし、効果的危機管理の妨げとなる。
被災者たちや一般大衆は、危機の影響のもとで、答えを探す。非難のアサインメントは災害に意味を与える。自然災害あるいは環境ハザードに脆弱な地域の住民は、安全性と収益性を均衡させているわけではなく、技術的発展は、より大きな便益と破滅的失敗のリスクをセットで提供する。危機の状況に置かれたことで、もっともよく生じる疑問は、危機の性質(何が起きて、どのように起きたのか)と、危機の理由(なぜ起きたのか、防止できたのか)である。
危機が予防可能だと考えられる場合、次の論理的疑問は、誰が危機の予防の失敗の責任者なのかである。これらの疑問に答え、非難をアサインメントることが、災害に意味を与える。自然災害や作物の不作や感染症パンデミックや飢餓などの危機に対する、歴史的説明は宗教を基礎とすることが多かった。非難は、魔法や呪術や魔力への告発や、人間の過ちに対する神の怒り(天罰)の形をとり、悔悛や信仰強化を求める。
現代では、自然災害についての非難は、災害を防止・予知・緩和できなかった人的要因に向けられる。たとえば、非難をアサインメントようとする者たちは、住民が脆弱な地域に住んでいた理由や、政治家や住民が科学的警告に注意を払わなかった理由を問う。化学物質や原油漏れとか、橋梁やビルの崩壊とか、原子力事故などの技術的災害では、操作ミスに関心が集まる。
危機が予防あるいは緩和できたと判断され、必要な対策方法が予めわかっていながら、対策がとられておらず、それが不作為であるとき、現代における非難のアサインメントが特に起きる。非難の必要性は、危機おいて死者が出ている場合にも高まる。スケープゴーティングにより、選ばれた個人やグループや組織に対して、不当なレベルの非難がなされる。スケープゴーティングの心理的動機は、自分の責任あるいは罪を最小化の必要性と、コントロール感の維持の必要性のためである。スケープゴートは政治的都合でも選ばれる。
マスメディアの時代では、非難の政治力学の中で、情報の流れが重油な問題として出現する。メディアを忌避することは、より困難で、効果が小さい。FacebookやYouTubeやTwitterなどのソーシャルメディアや電子メディアの勃興は、危機報告のスピードと範囲を増大させた。被害と苦闘する被災者の鮮やかな映像は、救援・非難・説明責任についての国民の要求に対処する、政治的圧力を増大させる。センセーショナリズムと誤報と、高視聴率に必要な視聴者の興味を惹く、非難ゲームのような対立を煽る記事へのバイアスによって、報道記事は、パブリック非難ゲームを燃え上がらせる。ポジティブな面では、政府や組織はメディアを使って、危機事前対策や、政治的非難ゲームのネガティブな面に対応できる問題解決行動などの情報を広報できる。
非難の政治的利用とその影響
政府の支出の増加あるいは減少や、規模、規制あるいは災害救援の役割や、自助努力の増大や、政府援助依存の削減などの政治課題推進のために、まずい危機管理に対する非難を使う。過剰な計画や官僚機構や必要書類が、不十分で遅い政府の危機対応の原因だと非難される。選挙の年と、災害宣言や救援資金の配分との統計的相関は、危機管理の政治性の一つの例である。
危機あるいは失敗した危機管理への非難は、歴史修正主義や事実歪曲などを含む、普遍的な政治の道具である。政治家とその有権者たちは、経済成長や雇用創出や予算削減や赤字削減など、直近の課題に集中する傾向がある。危機対策計画と緩和策は無視されたり、後回しにされたりする。課題あるいは過小な計画や、政府機関の間の調整不足や、資金不足や、資金配分の誤りや、政治的意思の欠如や、政治指導力の不足や、イノベーションの不足などが、危機対策準備を阻害する。
政府には市民を内部及び外部の脅威から守る義務があるという普遍的な心情が、政治的非難の背後に、もう一つの重要な面である。政府援助への依存度の高まりは、一般市民たちの危機への準備の怠りにつながることを、多くの観察者たちが見てきた。援助がないか、到着が遅いと、政府機関あるいは政府高官への非難が高まる。ボランティアや宗教や企業団体のような非政府組織(NGO)は、官僚機構の制約が小さく、援助受益者の書類作成が不要あるいは簡単に済むので、多くの場合、より迅速に危機援助と復旧支援を行える。NGOは、しかし、非難の政治力学の影響と、その危機管理への影響を受けないわけではない。
ハリケーンカトリナとそのメキシコ湾岸地域とニューオーリンズへの損害に対する、米国政府の対応は、非難の政治力学の代表例である。米国に負える災害救援の現代政治化は、20世紀後半に始まった。フランクリン・ルーズベルト政権のニューディール政策のもとにあった1930年代の大恐慌の時代に、一般市民は連邦政府に援助を求めるようになった。かつては、災害援助は地方公共団体や州政府や民間団体が行っていた。ドワイト・アイゼンハワー政権は、連邦政府の援助を受けられる被災地域大統領指定を最初に実施した。連邦政府の援助プロセスは、さらに、ジミー・カーター政権のもとでの、1979年のFEMA(連邦危機管理庁)の設立で、組織化と政治家が進んだ。
ハリケーンカトリナ通過後の被災状況のもと、広範囲に広がる略奪や暴力やレイプのセンセーショナルな報道が、軍および治安要員は、危険地帯とされる領域の迂回あるいは注意深く立ち入らなければならなくなり、救援や援助を遅らせることになった。後に、これらの報道の大半が間違っていることが明らかになった。州政府及び地方公共団体との調整がなされず、情報不足や不正確な情報のために、そして援助のための過剰な書類作成のために、FEMAの対応は遅滞した。
うまくいかない危機管理と非難ゲームを燃え上がらせた政治的問題が、国際援助コミュニティでも働く。多くの発展途上国や破綻国家では、効果的な危機管理を行うための、十分なリソースやインフラストラクチャーを欠いており、国民は脆弱な居住環境にある。国際的危機援助の政治的動機には、国際危機の、潜在的な国家安全保障と国際友好の維持への影響がある。先進国と危機援助機関は、対処と遅れを非難され、財政危機にある政府からは援助物資輸送を望まれず、問題が圧倒的なものになるまで、民族浄化や飢饉のような危機を無視し、特に長期復旧のための緩和や計画や不適得な資金援助よりも、危機そのものの対応に集中する。
非難の殺到のネガティブな帰結
非難の殺到と、その殺到に対処しようとする組織的反応が、組織と被災者の両方にネガティブな影響を及ぼすことが多い。政府及び組織の危機管理戦略は、非難を悪化させる傾向がある。非難の政治力学で重要な役割を果たす、危機への逆効果な組織的対応は、世界のあらゆる種類の組織で見られる。組織は危機の状況で防御的メンタリティを採用することが多いが、それは報道機関の注視と国民からの非難を避け、非難の矛先をどこか別のところへ向けたいという欲求を高める。防御的スタンスは、危機における組織の役割を誠実に分析するよりも、正当化の認識を強化してしまい、国民からは組織的責任の回避を行い、被災者に対して無頓着であるように見られてしまう。
多くの組織は報道機関との接触を避けようとし、組織内部で危機状況を操作しようとするが、そのようなアプローチは、意図しないネガティブな結果を招きかねない。誤報や不作為は、偶発的でも意図的でも、報道機関及びソーシャルメディア内に、ネガティブな広報を創り出す。非難ゲームは、危機の途中及び危機後の組織的広報における、仮定や、意図せざる誤報や、過大に楽観的あるいは悲観的な声明や、全くの嘘などによって、燃え上がる。
特定のスケープゴートに集中する非難は、危機的状況につながったイベントの連鎖の複雑さを無視している。非難ゲームは、必要な危機救援や復旧作業から注意を遠ざけることになり、それはタイムリーな対応が必要な危機直後において、特に有害である。最終的に、非難のアサインメントによって、危機の原因の正確な特定と対策に使われるべきリソースが別のことに使われ、危機に対する組織的ソリューションと危機の影響緩和と将来の同様の危機防止から、組織とメディアと国民の関心をそらすことになる。
非難の政治力学は、政府の危機管理オペレーション、特に公的セクター内のオペレーションに強く影響を与える。政府機関は、オープンで徹底した調査と、関連団体と要因の特定と、対策アクションを通して、非難アセスメントに能動的に対応して、国民の期待を管理しなければならない。非難の後の信頼の回復を急ぐ中で、多くの政府や組織は、ムダあるいは詐欺的な利用を抑止する適切なプロセスの確立することなく、危機援助資金のばらまきを急ぐ傾向がある。長期的には、非難の回避や防御は、組織の国民的評判を落とすことにつながる。
事態を悪化させる行動傾向について熟知している組織は、そのような行動について警戒を怠らず、したがって、いわゆる非難ゲームの拡大を最小化できる。非難ゲームのネガティブな影響を緩和する要素には多くのものがある。オープンかつ誠実に危機とその影響と、いかなる個人あるいは組織の責任を認めることと、緩和行動により、スケープゴーティングや非難アサインメントを求める国民の欲求を軽減できる。直近の救済と復旧へ集中することは、国民的及び政治的信用を維持することに資するが、いずれ長期的な危機後のアセスメントプロセスで事実が明らかされてしまう。非難プロセスと懲罰的手段におり、政府や組織は危機から通常オペレーションに復帰し、国民の信頼を取り戻す。スケープゴートにされた個人は配置転換されたり、解雇されたりして、正しい役割からはずされることが多い。実際には責任がないか、あったとしても部分的なものだと信じている組織や、将来の訴訟の弱点となるような過失責任を認める声明を出すのを避けたい組織であっても、そのような予防的手段は役に立つ。危機状況における政治的及び感情的性質を熟知していることで、非難したいという人間の傾向のネガティブな影響を削減できるだろう。
[Marcella Bush Trevino (Barry University): "Politics of Blame" in K. Bradley Penuel, Matt Statler, Ryan Hagen:"Encyclopedia of Crisis Management" (2013)]
2016/04/24
メモ「危機的状況化での非難の政治力学」
「危機管理辞典」から「危機的状況化での非難の政治力学」の項目。
2016/04/21
メモ「災害後の人々の行動」
Sasha Rudenstine and Sandro Galea (2011)は、災害における人々の行動をモデル化するにあたり、「脆弱性」と「対処能力」という言葉を定義した。
でも、「報復行動」はなかなか止められないかも。
Several disciplines have come to agree that the initial hazard, whether it be natural, technological, or human-made, is not an isolated predictor of the events or outcomes to follow. Rather, preexisting characteristics of the affected region intersect with the hazard to shape the magnitude of the consequences of the hazard. These preexisting characteristics can produce adverse consequences but can also mitigate the consequences of hazards. We use here the term “vulnerabilities” for the former, and “capacities” for the latter.これを用いて、5段階の行動推移をモデル化した。
それが自然災害であれ、技術的災害であれ、人為的災害であれ、最初の災害が、それに続くイベントや影響の、孤立した予測因子ではないことに、いくつかの学術分野が同意するようになった。むしろ、災害の影響を受けた地域に、災害前から存在する特性が、災害と交絡して、災害の影響の大きさを形成している。これらの、災害前から存在する特性が、悪影響を生み出す可能性があるとともに、災害の影響を緩和する可能性もある。我々は「脆弱性」を前者に、「対処能力」を後者に使う。
[Sasha Rudenstine and Sandro Galea:"The Causes and Behavioral Consequences of Disasters: Models informed by the the global experience 1950-2005 (2011), p.17]
第1段階は、グループ避難行動で特徴づけられる。この時点では、災害の影響を直接受けたコンパクトグループが、中心となる。最初の反応と行動は、災害との接触によって動機づけられ、恐怖と不安、情報の探索と広報行動、グループ避難に向けての行動で特徴づけられる。これらのうち、第4段階の外在化では、「責任者」への非難が行われるという。
第2段階では、全住民の避難と利他主義が出現する。この時期では、コンパクトグループのメンバーは、直近の安全が確保され、直接的被災者の救出と支援を行うために、災害の影響を直接受けなかった人々と共同してあたるようになる。この段階は、コンパクトグループの初期のグループ避難行動から、災害の間接的影響しか受けていない全住民の関与へと、状況が変化する。この全住民の関与は、コンパクトグループと一般住民のギャップを埋めて、災害及び、コミュニティ全体への災害の影響推移についての情報広報に寄与する。全住民避難行動が現れているものの、まだ情報探索行動が続いている。
第3段階では、災害の内在化が始まる。コンパクトグループのメンバーも、一般住民のメンバーも、災害を内在化し始め、災害後の環境に適応し始める。何が起きて、なぜ起きたのかを理解しようとして、災害の物語が紡がれる。災害前には「通常の」行動だと考えられてきたことが、災害後のコンテキストでは適切ではないかもしれない。これが、日常の行動を変えることへつながる。災害の生存者たちは、自分たちが経験した事態は、誰のせいなのか、あるいは何のせいなのか、自問するかもしれない。
第4段階は、外在化の始まりである。外在化とは、内在化プロセスで特定された感情や脆弱性に対処しようとすることである。この段階では、補償や救済を求めるようになり、災害の加害者と認識した者に対するアクションがとられる。さらに、この段階では、一般住民も内在化プロセスで特定された脆弱性に対処し始める。
最後の第5段階は、再正常化と適応が行われる。これは、緩慢で長く続くプロセスで、災害後の変化したコンテキストに適応した規範を特定し、それに従って行動する。この時点で、グループ適応が起きる。新たな行動モードが公正となり、外部行動が規範化される。
[Sasha Rudenstine and Sandro Galea:"The Causes and Behavioral Consequences of Disasters: Models informed by the the global experience 1950-2005 (2011), pp.61-62]
Capacities and vulnerabilities determined during internalizing (stage three) become the basis for targeted action, or externalizing, in this stage. The externalizing process has two substages (1) seeking redress and (2) addressing vulnerabilities and building capacities. Post-disaster actions in this stage may vary by perceptions regarding who and what was responsible for the disaster. These in turn depend in large part on the nature of the hazard and its consequences. For example, attempts at seeking redress may be more diffuse after a natural hazard compared with a technological disaster or an act of mass violence where a central “perpetrator” is readily identified. Formal investigations and trials may be used by populations to identify and formalize redress, as well as penalize the agents of the disaster on a domestic and international scale. In disasters brought on by infectious disease outbreak, quarantine against the agent of the hazard (the visibly sick) may well be the central defense mechanism adopted by the population.この「加害者」の特定は、誤爆なこともある。また、実際に責任があっても、今後の同様の災害・事故の抑制のために、免責して、知っている情報をすべて提供させる必要がある場合もある。
Seeking redress and assignation of blame emerge from the vulnerabilities identified during internalizing in general, and more specifically, from the culpability of individuals or structures that are identified during stage three. Identified “perpetrators” can be individuals, groups, or even structural features, as in the case of natural disasters. Retributive actions may be geared toward either the proximal or fundamental cause of the disaster, or both. When structural features become the primary agent considered culpable for a disaster, blame is often attributed to those charged with minimizing vulnerability, such as the engineers of a burst dam. In other cases blame may be assigned to those charged with preventing or alleviating damage, such as those responsible for controlling disease during an infections disease outbreak.
内在化(第3段階)で特定された「対処能力」と「脆弱性」は、この段階での、対処となる行動あるいは外部化の基礎となる。外部化プロセスは2つの段階 (1) 救済を求める (2) 脆弱性への対応と対処能力の構築から構成される。この段階での災害後の行動は、災害が誰あるいは何のせいなのかの認識によって違ってくる。これらはおおよそ、災害の性質とその影響に依存する。たとえば、技術的な災害や大規模暴力のような「加害者」を容易に特定できる場合に比べ、自然災害では、救済を求める行動が広がる。救済方法の策定とともに、災害の責任者に対する国内規模あるいは世界規模の懲罰のために、正式な捜査と裁判が、住民によって使われるだろう。感染症のアウトブレイクによる災害では、災害の関与者(見た目に病気)の隔離が、住民によって採用される中心的防御手段となるだろう。
内在化で特定された脆弱性全般、特に第3段階で特定された過失責任者や構造に対して、救済を求め、非難を行うことが始まる。自然災害の場合、特定された「加害者」は個人だったり、グループだったり、構造特性だったりする。報復行為の対象は、根本的な災害原因だったり、近接的な原因だったり、両方だったりする。構造特性が災害の第一義的な要因となると、バーストダムの技術者のように、脆弱性を最小化する責任を負う者たちに非難が向けられる。感染症アウトブレイクにおける感染防止の責任者たちなど、災害を防止あるいは責任を負う者に非難が向けられることもある。
[[Sasha Rudenstine and Sandro Galea:"The Causes and Behavioral Consequences of Disasters: Models informed by the the global experience 1950-2005 (2011), p.107]
でも、「報復行動」はなかなか止められないかも。
2016/03/29
130年の歴史を誇る都市伝説「ブアメードの血」Update 2016/03
2009/07/11から、ときどき追いかけてきた「ブアメードの血」
前回(2014/04/11)から、2年ほどたったので、少し調べなおしてみると...
この他にも...
一方、1887年に、Lancetを引用することなく、同じ話に尾ひれを付けた記事が登場している。
既に、この時点でナポレオン3世と「フランスの医師」が付け加えられている。また、"some years ago"とは言うものの、実際にはナポレオン3世死後17年後の記事であり、「直近の出来事」ではないという記述をしている。直近だと納得感がないのかもしれない。
Lancetの1886年の記事はフランスでも紹介されている。同じ1886年には、出典をLancetと明記しつつ、「前世紀に英国で有罪判決を受けた」ことにした記事が出ている。
このフランス語の記事が、Camille FlammarionのL'inconnu - The unknown (1900)(英語版)のもととなっているようである。
1922年のThe Toledo News-Beeの記事では、英国の医科大学で起きたことになっていた。
Flammarion系列か分岐したのかどうかわからないが、Archives of Neurology and Psychiatryという学術誌に、同様のネタを「インドの医療系雑誌に掲載されていたネタ」して記載している記事があった。
雑誌掲載の年代すら記載されず、場所も時代もわからない記事だが、これを信じたのが、1921年生まれで、除細動器の開発者であり、1985年にノーベル平和賞を受賞した核戦争防止国際医師会議の提唱者である、Bernard Lownである。彼は、1996年に出版した「The Lost Art of Healing」の中で...
この記述は、その後、幾つかの本で引用されている。たとえば...
一方、別のストーリーも今世紀に生き残っている。
フランスで「英国」の出来事にされた記事を基にしたと思われる、FlammarionのThe Unkown英語版が、日本で翻訳出版されたのが1924年。
これから派生したと思われるのが笠巻勝利の記述で、「ブアメード」という名が初めて登場している。
以上の長い旅路をリストアップすると...
前回(2014/04/11)から、2年ほどたったので、少し調べなおしてみると...
- 初出は変わらず、1886年の英国Lancetの記事(執筆者不詳、実験の場所・時代不詳)
- フランス語圏への伝播は、Lancet記事の引用で、1886年。このとき「英国・前世紀」が加えられた。これがFlammarion(1900)英語版に引用されたと思われる。
- 誌名不詳・年代不詳のインドの医療系定期刊行物に記載されていたとするインド系列の存在。これが1936年に始まり、除細動器開発者であるLownの1996年の著作で引用されて広まっている。
- 「ブアメード」という名は、笠巻勝利(1998)以前に見当たらない。
はじまり
[The Lancet Vol 127 No 3277 Jun 19, 1886, p.1175 "CAN IMAGINATION KILL?"]これと同一の記事が他の雑誌にも、1886年に掲載されている。
The writer of the article in our contemporary, we think wrongly, brings forward two remarkable instances of what may be regarded as practical jokes with melancholy terminations. In the case of the convict delivered up to the scientist for the purpose of a psychological experiment (the man was strapped to a table and blindfolded, ostensibly to he bled to death; a syphon containing water was placed near his head, and the fluid was allowed to trickle audibly into a vessel below it, at the same time that a trifling , scratch with a needle was inflicted on the culprit'a neck ; it is said that death occurred at the end of six minutes), fear must have played no inconsiderable share in the fatal result, and we do not knew whether all the vital organs were in sound condition, though they were presumably so.
現代に生きる、この記事の筆者は、我々が誤って考える、実用的なジョークとみなされる、2つの悲しい結末を提示しよう。心理学実験の目的のために科学者のもとへ連れてこられた囚人(台に縛り付けられ、目隠しをされ、表向きは出血死させられることにんっていた。彼の頭の近くに水の入ったサイフォンが配置され、水が音を立てて、下の容器に落ちるようになっていた。同時に、囚人の首に針で些細な傷がつけられた。そして囚人は、6分が経過すると死亡すると告げられた。)致命的な結末において恐怖が少なからぬ役割を果たしたはずだ。囚人のすべての臓器が健全な状態だったかわからないが、おそらくそうだっただろう。
- The Legal News, Volume 9 (1886)
- Maryland Medical Journal, Volume 15 (1886)
- Public Opinion, Volume 1(1886)
- Chicago Tribune (1886/08/21)
- Scientific American (1886/07)
この他にも...
[Columbus Medical Journal: A Magazine of Medicine and Surgery, Volume 7, p.214 (1889)]
自殺が想像によるものだという理論を支持するものとして、英国誌は2つの例を参照している。うち一つは医学系文筆家には、よく知られているものである。ひとつめの例は、実験目的で医学関係者の手に委ねられた死刑囚。彼は目隠しされ、出血死させられると信じ込まされた。彼は静脈に傷をつけられたと思い、傷口から出血するのを感じ、それが下の容器に落ちる音を聴いた。彼は瀉血によるものであるかのように、死亡した。
[Items of Interest, Volume 8, p.361 (1886)]
これを見ると、Lancetに掲載された、憂鬱な結末を迎えた実用的なジョークとみなせるかもしれない2つの例を思い出す。ひとりの死刑囚が心理学実験のために、科学者のところへ連れてこられた。男は台(table)に固定され、目隠しをされ、出血死させられると思い込まされた。水を入れたサイフォンが彼の頭部の側に置かれ、下に置かれた容器に音を立てて水が落ちるようになっていた。同時に、死刑囚の首には、わずかに傷をつけられた。6分後に彼は死亡したと言われる。...
一方、1887年に、Lancetを引用することなく、同じ話に尾ひれを付けた記事が登場している。
[Chambers's Journal, Volume 64 By William Chambers, Robert Chambers (1887)]
数年前、フランス皇帝ナポレオン3世は、あるフランスの医師に死刑囚に対する実験を許可した。死刑囚は医師のところへ連れてこられ、台(table)に固定され、目隠しをされ、出血死させられると思い込まされた。うなだれた頭部の近くに水の容器が置かれ、サイフォンによって、音を立てて下の床に落ちるようになっていた。と同時に、死刑囚の首に鍼で些細な傷がつけられた。完全な静寂が保たれ、6分後に男は死亡した。
既に、この時点でナポレオン3世と「フランスの医師」が付け加えられている。また、"some years ago"とは言うものの、実際にはナポレオン3世死後17年後の記事であり、「直近の出来事」ではないという記述をしている。直近だと納得感がないのかもしれない。
フランス語圏へ
Lancetの1886年の記事はフランスでも紹介されている。同じ1886年には、出典をLancetと明記しつつ、「前世紀に英国で有罪判決を受けた」ことにした記事が出ている。
The Lancet rapproche de ce cas tout récent deux exemples de cruelle mystification, ou la mort survint également sous le coup d'une profonde terreur.この第2パラグラフは、その後、数回、フランス語の雑誌に登場している。
The Lancetは、深い恐怖の影響のもとでの、残酷な神秘あるいは死亡の、最新の例を2つ挙げている。
Le premier est le cas classique d'un condamné anglais du siècle dernier, livré à des médecins pour servir à une expérience psychologique, dont la mort fut le résultat. Ce malheureux avait été solidement attaché à une table avec de fortes courroies; on lui avait bandé les yeux, puis on lui avait annoncé qu'il allait être saigné au cou et qu'on laisserait couler son sang jusqu'à épuisement complet; après quoi, une piqûre insignifiante fut pratiquée à son épiderme avec la pointe d'une aiguille, et un siphon déposé près de sa tête, de manière à faire couler sur son cou un filet d'eau qui tombait sans interruption avec un bruit léger, dans un bassin placé à terre. Au bout de six minutes, le supplicié, convaincu qu'il avait dû perdre au moins sept à huit pintes de sang, mourut de peur.
第一は前世紀に英国で有罪判決を受け、心理学実験のために医師たちのもとへ送られて死亡した古典的な例である。実験の被験者は丈夫なベルトで台に縛り付けられ、目隠しされて、血液を首から最後の一滴まで流出させると告げられた。そのあと、男の皮膚に針が刺され、目立たない音を立てられた。そして、男の首をつたって水が流れ、床に落ちて目立った音を立てるように、パイプが配置された。6分後に、少なくとも7〜8パイントの血液を失ったと信じた死刑囚は、恐怖で死亡した。
[Annales médico psychologiques (1886)]
- Rochas A.: L'état de crédulité, Revue scientifique, 1887
- Albert de Rochas d'Aiglun:"Les états superficiels de l'hypnose", 1893
- Petites annales de Provence (1894)
このフランス語の記事が、Camille FlammarionのL'inconnu - The unknown (1900)(英語版)のもととなっているようである。
[CAMILLE FLAMMARION: "THE UNKNOWN", NEW YORK AND LONDON, HARPER & BROTHERS PUBLISHERS, 1900, p.338]ただし、Flammarionはフランス語版では「1750年のコペンハーゲン」での出来事と書いている。
An idea, an impression, a mental commotion, while entirely internal, can produce in another direction physiological effects more or less intense, and is even capable of causing death. Examples are not wanting of persons dying suddenly in consequence of emotion. The power which imagination is capable of exercising over life itself has long been established. The experiment performed in the last century in England on a man condemned to death, who was made the subject of a study of this kind by medical men, is well known. The subject of the experiment was fastened securely to a table with strong straps, his eyes were bandaged, and he was then told that he was to be bled from the neck until every drop of his blood had been drained. After this an insignificant puncture was made in his skin with the point of a needle, and a siphon arranged near his head in such a manner as to allow a continuous stream of water to flow over his neck and fall with a slight sound into a basin placed on the floor. At the end of six minutes the condemned man, believing that he had lost at least seven or eight quarts of blood, died of terror.
ひとつの考え、ひとつの印象、そしてひとつの精神的動揺が、内的ではあっても、別の方向の生理現象を大なり小なり引き起こし、ときには死に至らしめることもある。感情の帰結として突然死した人々の例には事欠かない。生命さえも奪ってしまう想像の力の存在は確立された事実である。前世紀に英国で、医師たちによる、この種の研究の被験者となった死刑囚に対して行われた実験はよく知られている。実験の被験者は丈夫なベルトで台に縛り付けられ、包帯で目隠しされて、血液を首から最後の一滴まで流出させると告げられた。そのあと、男の皮膚に針が刺され、目立たない音を立てられた。そして、男の首をつたって水が流れ、床に落ちて目立った音を立てるように、サイフォンが配置された。6分後に、少なくとも7〜8クォートの血液を失ったと信じた死刑囚は、恐怖で死亡した。
Une idée, tout intérieure, une impression, une commotion mentale peut, à l’inverse, produire des effets physiologiques plus ou moins intenses, et même amener la mort. Il ne manque pas d’exemples de personnes mortes subitement à la suite d’une émotion. La preuve est donnée depuis longtemps des effets de la puissance de l’imagination sur la vie elle-même. Personne n’a oublié l’expérience faite à Copenhague en 1750 sur un condamné, livré à des médecins pour une étude de ce genre, et qui fut observé jusqu’à la mort inclusivement. Ce malheureux avait été solidement attaché à une table avec de fortes courroies ; on lui avait bandé les yeux ; puis on lui avait annoncé qu’il allait être saigné au cou et qu’on laisserait couler son sang jusqu’à l’épuisement complet ; après quoi une piqûre insignifiante fut pratiquée à son épiderme avec la pointe d’une aiguille, et un siphon déposé près de sa tête, de manière à faire couler sur son cou un filet d’eau qui tombait sans interruption avec un bruit léger, dans un bassin placé à terre. Le supplicié convaincu qu’il avait dû perdre 7 à 8 litres de sang, mourut de peur.
ひとつの考え、ひとつの印象、そしてひとつの精神的動揺が、内的ではあっても、別の方向の生理現象を大なり小なり引き起こし、ときには死に至らしめることもある。感情の帰結として突然死した人々の例には事欠かない。生命さえも奪ってしまう想像の力の存在は証明された事実である。1750年にコペンハーゲンで行われた、この種の研究のために医師たちのもとに送られ、死ぬまで観察された死刑囚に対する実験は誰も忘れていないだろう。実験の被験者は丈夫なベルトで台に縛り付けられ、目隠しされて、血液を首から最後の一滴まで流出させると告げられた。そのあと、男の皮膚に針が刺され、目立たない音を立てられた。そして、男の首をつたって水が流れ、床に落ちて目立った音を立てるように、パイプが配置された。6分後に、少なくとも7〜8リットルの血液を失ったと信じた死刑囚は、恐怖で死亡した。
[Camille Flammarion: "Línconnu" quoted in Blog União Fraterna Bezerra de Menezes]
英語圏での変容と、"インド"系列
1922年のThe Toledo News-Beeの記事では、英国の医科大学で起きたことになっていた。
1926年に「数年前にフランスの医師」が行った実験として、現Tampa Bay Times(当時St. Petersburg Times)が紹介している。
英国の医科大学で、患者が話したり動いたりできず、感覚もなくなるように麻酔薬を投与された。眼には包帯が巻かれた。外科医は尖ったツララで、彼の心臓近くの皮膚をなぞった。そして、動脈を切断したと叫んだ。暖かい水が彼の横を滴り落ちた。患者は、出血死すると信じて、手術台の上で死亡した。想像が彼を殺した。
[The Toledo News-Bee - Oct 25, 1922 "All in the mind" by Toledoan]
さらに、1930年3月に幾つかの米国の新聞に登場した。
数年前、著名なフランスの医師が、死刑判決を受けた囚人に対して、想像の効果を検証する実験を許可された。男は目隠しをされ、台に縛り付けられ、動脈を開き、死ぬまで出血させると告げられた、彼の頭の近くには水を入れたボウルが置かれ、管を通して水が流れ出て、床の洗面器に落ちるようになっていた。準備が整うと、医師は囚人の首を針で少し傷つけた。コックが開けられて、水がポタポタポタと落ちていった。5分が経過し、コックが閉じられた。男は台の上から降ろされた。男は死んでいた。
[St. Petersburg Times - Feb 21, 1926 (Currently Tampa Bay Times)]
[Arthur Brisbane: "THIS WEEK" Appleton review Vol. 1, no. 11 (March 28, 1930), also on Cass City Chronicle (March 27, 1930), and Rochester Evening Journal - Mar 18, 1930]
What people think decides what they are. Prosperity is to a considerable extent a matter of psychology.
Once a man was fastened in a chair, his feet put in warm water, and as a practical joke he was shown a razor of which the blunt end was drawn across the soles of his bare feet. He was told, "You will bleed to death painlessly in this warm water." He didn't lose a drop of blood, but he died.
Don't let prosperity die in that fashion, killed by imagination.
人は自分で考えることで、自分を規定してしまう。幸運は相当程度に心理学の問題である。
ある男が椅子に縛り付けられ、足を温水の中につけられて、それらしいジョークのために彼は剃刀を見せられ、彼の裸足の裏全体をなぞられた。彼は「おまえは、痛みもなく、この温水の中に出血して死ぬだろう」と告げられた。彼は一滴の血を失うことなく死亡した。
想像で死ぬという形で、幸運を死なせてはならない。
Flammarion系列か分岐したのかどうかわからないが、Archives of Neurology and Psychiatryという学術誌に、同様のネタを「インドの医療系雑誌に掲載されていたネタ」して記載している記事があった。
Emotions as the Cause of Rapid and Sudden Death. Dr. N. S. Yawger.想定出血ポイントが首ではなく四肢先端になっているが、それ以外はFlammarionの記述と違っていないので、インドの医療定期刊行物は存在せず、Flammarionのネタをそれっぽく語っただけという疑いもある。
Years ago, a medical periodical in India published an article entitled 'Killed by the Imagination'. In substance it stated: A celebrated physician, author of a work on the effects of the imagination, was permitted to try an astonishing experiment on a criminal who had been condemned to death. The prisoner, an assassin of distinguished rank, was advised that, in order that his family might be spared the further disgrace of a public hanging, permission had been obtained to bleed him to death within the prison walls. After being told 'Your dissolution will be gradual and free from pain', he willingly acquiesced to the plan. Full preparations having been made, he was blindfolded, led to a room and strapped onto a table near each corner of which was a vessel containing water, so contrived that it could drip gently into basins. The skin overlying the blood vessels of the four extremeties was then scratched, and the contents of the vessels were released. Hearing the flow of water, the prisoner believed that his blood was escaping; by degrees he became weaker and weaker, which, seemingly, was confirmed by the conversation of the physicians carried on in lower and lower tones. Finally, the silence was absolute except for the sound of the dripping water, and that too died out gradually. 'Although possessed of a strong constitution (the prisoner) fainted and died, without the loss of a drop of blood.'
数年前、インドの医療定期刊行物に「想像力による殺人」と題する記事が掲載された。その記事には次のように書かれていた: 想像力の効果についての研究の執筆者である著名な医師が、死刑判決を受けた犯罪者を対象とした驚くべき実験を許可された。高ランクの暗殺者である囚人は、彼の公開処刑によって彼の家族が屈辱を受けることを避けるために、刑務所の壁の中で出血死をする許可が与えられたと告げられた。「死は徐々にやってきて、痛みは感じないだろう」と告げられると、彼は喜んで計画に従った。完全な準備がなされ、彼は目隠しをされ、部屋に連れてこられ、台の上に固定された。台の四隅には水の入った容器があり、ゆっくりと水が床へと滴るようになっていた。四肢の先端の血管を覆う皮膚が傷つけられ、容器の水がリリースされた。水の流れる音を聞いて、囚人は自分の血が流れ出ていると信じた。医師たちの会話の声が次第に低くなるのを聞いて、彼は自分が弱っていくのを確認できた。そして最後には、水の滴る音以外は静寂となり、彼は徐々に死亡した。「囚人は健康体だったが、一滴の血液も失うことなく、気絶して死亡した。」
[PHILADELPHIA NEUROLOGICAL SOCIETY: Stated Meeting, Nov. 22, 1935. F. C. Grant, M.D., President, in the Chair, Arch Neurol Psychiatry. 1936;36(4):869-890. (1999K) (via Gary Bruno Schmid & Bernardo N. De Luca)]
雑誌掲載の年代すら記載されず、場所も時代もわからない記事だが、これを信じたのが、1921年生まれで、除細動器の開発者であり、1985年にノーベル平和賞を受賞した核戦争防止国際医師会議の提唱者である、Bernard Lownである。彼は、1996年に出版した「The Lost Art of Healing」の中で...
My interest in the psychological was constantly rearoused by clinical observation and by studying the encyclopedic literature. A report in an Indian medical periodical, "Killed by the Imagination"* left and indelible impression early in my carrier.これにより、インドの医師ということになった。
臨床観察や百科事典的記述の研究により、私の心理学への興味が、くりかえし、かきたてられる。インドの医療系定期刊行物に掲載された「Killed by Imagination"は、消せない印象を私のキャリアに残した。
A Hindu physician was authorized by prison authorities to conduct an astonishing experiment on a criminal condemned to death by hanging. The doctor pesuaded the prisoner to permit himself to be exsanguinated -- bled to death -- assuring him that death, though gradual, would be painless. The convict, on agreeing, was strapped to a bed and blindfolded. Vessels filled with water were hung at each of the four bedposts and set up to drip into basins on the floor. The skin on his four exremities was scratched, and the water began to drip into the containers, initially fast, then progressively slowing. By degrees the prisoner grew weaker, a condition reinforced by the physician's intoning a lower and lower voice. Finally the silence was absolute as the dripping of water ceased. Although the prisoner was healthy young man, at the completion of the experiment, when the water flow stopped, he appeared to have fainted. On examination, however, he was found to be dead despite not having lost not a drop of blood.
あるインドの医師が、驚くべき実験を絞首刑を宣告された犯罪者に対して行う許可を、刑務所当局から得た。医師は受刑者を説得して、放血すなわち出血死をすることを許諾させた。それは緩慢だが痛みのない確実に死に至る方法である。受刑者は同意のもとで、ベッドに固定され、目隠しされた。ベッドの4つの支柱に、水の入った容器が取り付けられ、床の洗面器に流れ落ちるようにセットされた。彼の四肢の皮膚が引っ掻かれ、水が洗面器に流れ落ち始めた。最初は急速に、そして次第に緩慢に。受刑者が弱る度合いに従い、医師が声のトーンを低くすることで、状況が強化された。水の流れが止まると、静寂が訪れた。実験されたとき、受刑者は健康な若者だったが、水の流れが止まると、意識を失った。検査の結果、彼は一滴の血も失うことなく、死亡していた。
Over the centuries, a wealth of similar anecdotes has been amassed. The medical profession has long known that nervous activity influences every part of the body. Nearly 350 years ago, William Harvey, discoverer of the circulation of the blood, stated: "Every affection of the mind that is attended with either pain or pleasure, hope or fear is the cause of an agitation whose influence extends to the heart."
幾世紀にもわたり、同様の逸話が多く積み上げられてきた。医療従事者は長きにわたり、神経活動が身体のあらゆる場所に影響することを知っていた。350年ほど前、血液循環の発見者であるWilliam Harveyは「心のあらゆる影響は、苦しみであれ楽しみであり、希望であれ恐怖であれ、興奮を引きこ起こし、その影響は心臓にも及ぶ」と書いている。
*N.S. Yagwer, "Emotions as a Cause of Rapid and Sudden Death", Archives of Neurology and Psychiatry, 36 (1936), 875.
[Bernard Lown:"The Lost Art of Healing"(1996/09/30), pp.31-32]
この記述は、その後、幾つかの本で引用されている。たとえば...
In 1936, in India, recounts Nobel Laureate Bernard Lown in "The Lost Art of Healing," an astonishing experiment was conducted on a prisoner condemned to die by hanging. He was given the choice instead of being "exsanguinated," or having his blood let out, because this would be gradual and relatively painless. The victim agreed, was strapped to the bed and blindfolded.年代不明だったのが、1936年の話になった。この話は、さらに引用されて広まっている。
Unbeknownst to him, water containers were attached to the four bedposts and drip buckets set up below. Then after light scratches were made on his four extremities, the fake drip brigade began: First rapidly, then slowly, always loudly. "As the dripping of water stopped, the healthy young man's heart stopped also. He was dead, having lost not a drop of blood."
ノーベル賞受賞者Bernard Lownは自著"The Lost Art of Healing"で、「1936年にインドで、絞首刑判決を受けた受刑者に対して、驚くべき実験が行われた」ことを語っている。受刑者は、「放血」すなわち、出血による死を選択する権利を与えられた。それは比較的、緩慢かつ痛みの小さい死に方であったからだ。受刑者は同意し、ベッドに固定されて、目隠しされた。
彼が知らないうちに、水の入った容器が、ベッドの4つの支柱に取り付けられ、その下にバケツが置かれた。そして、彼の四肢に小さな傷がつけられ、フェイクな水滴が流れ始めた。最初は急速に、そして次第に緩慢に、常に音を立てて。「水の滴りが止まると、健康な若者の心臓も停止した。彼は一滴の血液も失うことなく死亡した。」
[Bill Sones & Rich Sones Ph.D.: "Strange but true: Loud drips can scare you to death" (2004/01/05)]
一方、別のストーリーも今世紀に生き残っている。
Another dramatic example of the power of expectancy involves an inmate who was in prison and sentenced to be executed, He was offered a chance to participate in a research project and told that if he lived through it his sentence would be reduce to life in prison. The prisoner consented and the experiment was conducted. They wanted to find out how much blood a person could lose and still live.
The researchers placed the prisoner in a darkened operating room and made a very slight incision. Very little blood was lost through the incision. But they arranged for sound effects to simulate the dropping of blood which the prisoner believed was his own blood. The next morning, the researchers came into the operating room and found the prisoner had died, He died of his belief that he was bleeding to death. By the way, this study was conducted in the early 20th century and certainly wouldn't be sanctioned under our new AMA guidelines.
期待の力のドラマティックな別の例は、死刑宣告され、刑務所に収容されている受刑者の例である。その受刑者は、研究プロジェクトに参加して、もし生存できれば無期懲役に減刑されると告げられた。受刑者は実験への参加を承諾し、実験が行われた。彼らは、人間からどれだけ血液が失われても、生きていけるか、調べようとしていた。
研究者たちは、その受刑者を暗い手術室において、とても些細な傷をつけた。その傷から、些細な量の血が流れた。しかし、研究者たちは、音響効果を用意し、受刑者には自分の血が流れ続けているのだと信じ込ませた。翌朝、研究者たちが手術室に入ると、受刑者は死亡していた。受刑者は、自分が出血して死亡するのだという信念によって死亡していた。ところで、この研究は20世紀初頭に行われたもので、我々の新たな米国医師会基準のもとでは、認可されることのない研究である。
[Berge Minasian: "The Power of Choice: Living the Life You Always Wanted and Absolutely Deserve" (2010)]
そして、日本へ
フランスで「英国」の出来事にされた記事を基にしたと思われる、FlammarionのThe Unkown英語版が、日本で翻訳出版されたのが1924年。
[フラマリオン 著 ; 大沼十太郎 訳: "未知の世界へ" 東京 : アルス, 大正13 (1924), P.277]これを読んだと思われる谷口雅春は、1932年に、少し改変した紹介をする。
觀念、印象、精神錯亂は全く内的であるが、而も他の方面に對して、多少激烈なる心理的結果を與へ、時には死さへも惹起せしむる事がある。感情の結果、急に死んだ人の例が澤山ある。妄想の力が生命にも影響を與へ得るものだと云ふ事は、久しい前から確かめられて居た。茲に、先世紀、英國で死刑囚に行った有名な實験がある。醫者は此死刑囚をテーブルに緊かり縛り付け、目隠しをした。そして彼に向かって、首から乾く迄血を出すと告げた。それから、針の先で、分かるか分からない程に皮膚を刺した。傍らには如何にも彼の首から血が出て居る様な音を聴かしめる様に、皿の中に水の滴りを落として置いた。暫くして六分の後、其の宣告された者は、最早少なくとも六、七升の血を失つたと思ひ詰めて驚いて死んで了つた。
[谷口雅春: "生命の實相 : 生長の家聖典" 住吉村 (兵庫県) : 生長の家出版部, 昭和7 (1932), P.233]その後、1962年に少し表現を変えて...
或る時死刑囚を實験に供しました。先づ其の男に目隠しをしました身體を厳重に椅子に縛りつけ、さて『これから汝の頸部から一滴ずつ血液を滴らして徐々に汝の全身の血を搾り取つて了ふぞ』と宣告しました。斯く云う宣告をして 恐怖の暗示を與えた後、實験者は囚人の頸部に針の先端をもつて微細な傷をつけ、恰も局所から血が滴つてゐるかのやうに、彼の頸部に水を傳はらせて、床の上に一滴づつ音を立てて落ちるような仕掛をしておいたのであります。六分間程経過して、『サァおまえは全身の血液の三分の二を失つて了つた』と暗示しますと死刑囚はそれを信じて恐怖の余り絶命して了つたのであります。(フラマリオン:"未知の世界")
[谷口雅春: "生命の實相 : 頭注版. 第2巻 (實相篇 下)" 東京 : 日本教文社, 1962.6, P.20]
ある時 死刑囚を実験につかいました。まず其の男に目隠しをしまして、身体を厳重に椅子に縛りつけ、さて『これからなんじの頸部から一滴ずつ血液をしたたらしてじょじょになんじの全身の血を搾り取ってしまうぞ』と宣告しました。こういう宣告をして 恐怖の暗示を与えた後、実験者は囚人の頸部に針の先をもって微細な傷をつけ、あたかも局所から血がしたたっているかのように、彼の頸部に水を伝わらせて、床の上に一滴ずつ音を立てて落ちるようなしかけをしておいたのであります。六分間ほど経過して、『サァおまえは全身の血液の三分の二を失ってしまった』と暗示しますと死刑囚はそれを信じて恐怖のあまり絶命してしまったのであります。(フラマリオン:"未知の世界")
これから派生したと思われるのが笠巻勝利の記述で、「ブアメード」という名が初めて登場している。
[笠巻勝利: "眼からウロコが落ちる本"(1999/09) (PHP文庫), pp.46-47]この「ブアメード」という名を信じたが、その出典を示さずに、少し改変したのが長谷川淳史。
1883年、オランダにおいてブアメードという国事犯を使って一つの実験が行なわれた。表面上、一人の人間からどれだけ血液をとったら人間は死ぬものかというものである。医師団はブアメードをベッドの上にしばりつけておいて、その周りで話し合いをする。「三分の一の血液を失ったら人間は死ぬでしょう」という結論に達した。医師団は、「これから実験をはじめます」といって、ブアメードの足の親ユビにメスを入れた。用意してある容器に血液がポタポタとしたたり落ちはじめた。数時間が過ぎた。医師団は「どれぐらいになりましたか?」「まもなく三分の一になります」と会話する。それを聞いたブアメードは静かに息を引きとったという。実は、医師団は心理実験をしていたのであった。ブアメードの足にメスを入れるといって痛みだけを与えたのである。ブアメードはメスで切られるといわれれば、それこそ、ちょっとした痛さでも、メスで足を切られたと思うだろう。容器に用意しておいた水滴をたらしていたのであった
[長谷川淳史: "腰痛は<怒り>である", 2000]一方、Flammarionとは別の流れで書かれたと思わる、日本語記事がある。
ヨーロッパのある国にブアメードという名の死刑囚がいました。彼はある医師から、「人間の全血液量は体重の10パーセントが定説になっているが、それを証明する実験をしたいので協力してほしい」と持ちかけられます。申し出を受け入れた彼は目隠しをされ、ベットに横たわり、血液を抜き取るため足の全指先を小さく切開されました。足元には容器が用意され、血液が滴り落ちる音が実験室内に響き渡ります。やがて、実験開始から5時間、総出血量が体重の10パーセントを越えた、と医師が大喜びしたとき、哀れこの死刑囚はすでに死亡していました。
ところがこの実験、実は血液など抜き取っていなかったのです。彼にはただの水滴の音を聞かせ、体内の血液が失われていると思い込ませただけだったのです。彼は暗示をかけられ、その事により命をおとしたのです。
[広告屋のネタ帳 1998. 07.25 いつも通り第9号]最初にある「冷凍室と作業員」も100年以上にわたって世界を旅しているネタ。出典は不明である。
アメリカの電機メーカーで作業中にある作業員が冷凍室に閉じこめられてしまった。同僚に助けを呼んでも、誰にも聞いてもらえず一晩閉じこめられ、翌日同僚が気づいたときには、彼は凍死していた。しかし、驚いたことにその冷凍室には電源が入っていなかったのである。彼は冷凍室に閉じこめられ、凍死してしまうという自己暗示によって実際に死んでしまったのである。
すると、アメリカ人というのは実験をしたくなっちゃって、囚人を使って実験を行った。死刑囚に対して、人間は血がどのくらいなくなったら死ぬのかを実験したいということをいって、死刑囚の血を抜くふりをした。あくまでふりで実際には血はほとんど抜いていない。死刑囚の見えないところでバケツに水をぽたぽたと垂らし、医師が「そろそろ危ない状態に陥ります」なんてことを言う。すると、死刑囚はしばらくして本当に死んでしまったというのだ。
ブアメードの130年の旅路
以上の長い旅路をリストアップすると...
出典 | 人名 | 場所 | 年代 | 針の場所 | 固定場所 | 流出したと信じた量 |
---|---|---|---|---|---|---|
Lancet (1886) | - | - | - | 首 | 台(table) | - (6分後) |
Items of Interest (1886) | - | - | - | 首 | 台(table) | - (6分後) |
Chambers's Journal (1887) | - | - | - | - | - | - |
Chambers's Journal, Volume 64 By William Chambers, Robert Chambers (1887) | - | フランス(の医師) | 数年前(ナポレオン3世の許可) | 首 | 台(table) | - (6分後) |
Columbus Medical Journal (1889) | - | - | - | - | - | - |
Annales médico psychologiques (1886) | - | 英国 | 前世紀 | 首 | 台 | 7-8パイント |
Rochas 1887 | - | 英国 | 前世紀 | 首 | 台 | 7-8パイント |
Flammarion (1900)[F] | - | コペンハーゲン | 1750 | 首 | 台(table) | 7-8リットル |
Flammarion (1900)[E] | - | 英国 | 前世紀 | 首 | 台(table) | 7-8クォート |
フラマリオン 著 ; 大沼十太郎 訳(1924) | - | 英國 | 先世紀 | 首 | テーブル | 六、七升 |
Toledo News Bee (1922) | - | 英国の医科大学 | - | 心臓近くの皮膚 | 手術台 | - |
St. Petersburg Times (1926) | - | フランス(の医師) | 数年前 | 動脈 | 台(table) | - (5分) |
Arthur Brisbane (1930) | - | - | - | 裸足の裏全体 | 椅子 | - |
谷口雅春 (1932) | - | - | 或る時 | 頸部 | 椅子 | 全身の血液の三分の二 |
PHILADELPHIA NEUROLOGICAL SOCIETY (1935) | - | インド(の医学誌) | - | 四肢の先端 | 台(table) | - |
谷口雅春 (1962) | - | - | あるとき | 頸椎 | 椅子 | 全身の血液の三分の二 |
広告屋のネタ帳 (1998) | - | アメリカ | - | - | - | - |
笠巻勝利 (1999) | ブアメード | オランダ | 1883 | 足の親指 | ベッド | 全身の1/3 |
長谷川淳史(2000) | ブアメード | ヨーロッパのある国 | 第2次大戦前 | 足の全指 | ベッド | 全身の10% |
Lowel(1996) | - | インド(の医師) | - | 四肢の先端 | ベッド | - |
Sones&Sones(2004) | - | インド | 1936 | 四肢の先端 | ベッド | - |
Minasian(2010) | - | - | 20世紀初頭 | - | - | (翌朝) |
2016/03/19
メモ「ループする貧困」
貧困状態にあると、発揮できる認知能力が低下することを示す実験がある。
The poor often behave in less capable ways, which can further perpetuate poverty. We hypothesize that poverty directly impedes cognitive function and present two studies that test this hypothesis. First, we experimentally induced thoughts about finances and found that this reduces cognitive performance among poor but not in well-off participants. Second, we examined the cognitive function of farmers over the planting cycle. We found that the same farmer shows diminished cognitive performance before harvest, when poor, as compared with after harvest, when rich. This cannot be explained by differences in time available, nutrition, or work effort. Nor can it be explained with stress: Although farmers do show more stress before harvest, that does not account for diminished cognitive performance. Instead, it appears that poverty itself reduces cognitive capacity. We suggest that this is because poverty-related concerns consume mental resources, leaving less for other tasks. These data provide a previously unexamined perspective and help explain a spectrum of behaviors among the poor. We discuss some implications for poverty policy.これは、一時的な現象だが、成長過程で家庭が貧困である場合、恒久的な影響が出ることがある。たとえば、貧困は子供の教育機会を限定する。
[Anandi Mani, Sendhil Mullainathan, Eldar Shafir, Jiaying Zhao:"Poverty Impedes Cognitive Function", Science 30 Aug 2013: Vol. 341, Issue 6149, pp. 976-980]
In a series of experiments, the researchers found that pressing financial concerns had an immediate impact on the ability of low-income individuals to perform on common cognitive and logic tests. On average, a person preoccupied with money problems exhibited a drop in cognitive function similar to a 13-point dip in IQ, or the loss of an entire night's sleep.
一連の実験で、研究者たちは、金銭的懸念が差し迫ると、低収入な人々の、一般的認知及び論理テストを実行する能力に直接影響が及ぶことを発見した。平均的には、事前に金銭問題に心奪われると、IQで13、他の人々より認知機能が低下する。
[Poor concentration: Poverty reduces brainpower needed for navigating other areas of life (2013/08/29) on Princeton]
Poverty limits opportunities for parents to teach their children.そして、貧困は、自分に何ができるかについてのビジョンが限定される。
Like any other kind of thinking, self-control can be taught. Children do better at self-control (and in school) when their parents teach them to solve problems independently and to participate in decisions. But that kind of involved parenting takes time, and financially poor parents are often “time poor” too. Family factors, such as nurturance and stimulation, that are limited by time poverty are directly linked to mental development. Furthermore, it makes sense that people living in poor, dangerous neighborhoods don’t give their children as much autonomy as people living in less dangerous neighborhoods. As a result, poor working parents are prevented from−not incapable−of teaching self-control to their children.
他の思考と同様に、自制心も教えることができる。親が子供に、問題を自分で解くことを教え、判断に参加することを教えれば、子供たちは、自制できるようになり、学校でもうまくやれるようになる。愛情を込めた養育や刺激など、貧しい生活に制約を受ける家族要因が、精神の発達に直接影響する。さらに、貧困で危険な近隣に住む人々は、安全な地域に住む人々ほどには、子供に自主性を与えられない。けっけとして、貧しく両親が働く家庭では、子供たちが自制心を学ぶことは困難である。
[Elliot T Berkman Ph.D.:"5 Reasons Why Poverty Reduces Self-Control" (2015/09/05) on PsychologyToday]
Poverty restricts people’s vision of what is possible.貧困家庭で育つことで、貧困から脱出する意思や能力が育たないという、ループが形成されているもよう。
The Little Engine Who Could thought she could climb up the hill before she actually did. She had what psychologists call “self-efficacy,” the belief in her own abilities. An important source of self-efficacy is watching similar others accomplish goals. Poverty doesn’t occur in isolation, so children growing up in poor neighborhoods are short on models of people who escape poverty and long on models of people who do not. A child born in the bottom fifth of the income distribution has less than a one-in-ten chance of moving to the top fifth, and even the brightest poor children are still less likely to complete college than average wealthy children. Based on observing those around them, children in poverty have little reason to have high self-efficacy about self-control.
リトルエンジンは、実際に丘に登る前に、それができると考えていた。これは心理学者の言う「自己効力感」で、自分の能力への信条である。自己効力感の重要な源泉は、自分と似た誰かがゴールを達成するのを見ることである。貧困は単独では発生しないので、子供たちは貧困な近隣の中で育つ。そこでは、貧困から脱出する者は少なく、多くは貧困のままである。収入が下位1/5の家庭に生まれた子供が、上位1/5に移行する確率は1/10以下であり、賢くても貧しいい子供は、平均的な収入の家庭の子供よりも、大学を卒業する確率は小さい。自分の周囲の観察から、貧しい家庭の子供たちは、自制心について、高い自己効力感を持つ理由はほとんどない。
[Elliot T Berkman Ph.D.:"5 Reasons Why Poverty Reduces Self-Control" (2015/09/05) on PsychologyToday]
2016/03/14
物理科学における発展をあっというまにパクって...
「ニセ医療は、物理科学における発展をあっというまにパクって、生物学的効果の話に悪用する。100年前はラジウム。ラジウムと同じくらい古い「量子」は今もニセ医療屋「量子ヒーラー」たちに悪用されている。
もちろん「E=MC^2」もホメオパスのアフォネタに使われる。そして直近は「重力波」。
このようなクソのようなアフォネタが垂れ流され続けるのは、それが銭儲けに役立つからに他ならない。「我々」の間では、笑いものになったが、「彼ら」の間ではそうではないからだ。
そして、それらと並んで、ニセ医療屋やニセ科学屋が好むネタに、ゲーデルの不完全性定理がある。もちろん、彼らの不完全性定理もポエティックあるいはスピルチュアルなメタファーで、元々の意味など欠片も残っていない。
もちろん「E=MC^2」もホメオパスのアフォネタに使われる。そして直近は「重力波」。
このようなクソのようなアフォネタが垂れ流され続けるのは、それが銭儲けに役立つからに他ならない。「我々」の間では、笑いものになったが、「彼ら」の間ではそうではないからだ。
そして、それらと並んで、ニセ医療屋やニセ科学屋が好むネタに、ゲーデルの不完全性定理がある。もちろん、彼らの不完全性定理もポエティックあるいはスピルチュアルなメタファーで、元々の意味など欠片も残っていない。
Some people get tempted to use Gödel's theorem as an escape hatch for their own pet theories that they consider "true but unprovable". Math cannot prove everything, therefore logical discussion of God is futile, so there! However, Gödel's theorem has a precise mathematical formulation, and so do the mathematical concepts of logical truth and provability; to even consider the truth or provability of a statement, it first needs to be formalized in the language of mathematical logic. "God", as an idea grounded in our imprecise maps of the real world, is clearly not a well-defined logical formula whose truth or falsehood is even meaningful to consider as a consequence of purely mathematical theories. This argument falls into not even wrong territory.数学者David Joyceは、エグゼクティブサマリーを読んで誤解する人々が多いという点を指摘しつつ...
「正しいが証明不可能」と考えるお気に入りの理論のための脱出口として、ゲーデルの定理を使いたがる人々がいる。数学はすべてを証明できるわけではなく、したがって神の論理的議論は意味がない。さあ、どやあ! しかし、ゲーデルの定理は正確な数学的形式を持っており、論理的正しさと証明可能性についての数学概念を持っている。ステートメントの正しさや証明可能性を論じるだけでも、まず数学論理の記述で、定式化しなければならない。リアルワールドの不正確なマップ上に位置する考えである「神」は、純数学理論の帰結として考えるために、真偽が有意味になるように、明確に定義された論理定式でないことは明らかだ。この種の論は、「間違ってすらいない」論でしかない。
[Rationalwiki: Gödel's incompleteness theorems"]
People are romantics. They desire the unknown and the unknowable. They seek mysteries. The incompleteness theorems say something like "there's something that's true but we can't know it." The theorems justify their desire for mystery, and they latch on to them. Nonetheless, the incompleteness theorems don't apply outside of formal mathematics.
人はロマンティックだ。人は未知や知りえないことを求める。人は謎を求める。不完全性定理は「正しいが、知りえないことがある」というような感じのことを言っている。定理は、謎への欲求を正当化する。人はそれにしがみつく。しかし、不完全性定理は、数学定式化の外側には適用できない。
[David Joyce: Answer #1Why are Gödel's incompleteness theorems so misunderstood and abused?]