2016/02/29

謝らない謝罪: 遺憾とregret

「遺憾だと思う」「遺憾の意を示す」といった表現は、発言者自身に対して使えば「謝らない謝罪」になり、他者に対して使えば「弱い批判」となる。昭和日本の政治用語っぽいが、英語では"regret"という単語に相当し、英語圏でも「謝らない謝罪」と表現として使われている。たとえば、米国の例で...
On the Sunday, May 19 edition of CNN's Reliable Sources, host Howard Kurtz read a statement from Jonathan Karl, chief White House Correspondent for ABC News in response to his reporting on altered emails related to the Sunday talk show talking points following the attacks on the U.S. diplomatic mission in Benghazi, Libya in September 2012. Karl now expresses regret about his original reporting on May 10th on the Benghazi emails. The statement reads:
Clearly, I regret the email was quoted incorrectly and I regret that it’s become a distraction from the story, which still entirely stands. I should have been clearer about the attribution. We updated our story immediately.

不正確にメールを引用されたことを遺憾に思う。全体的にはまったく正しい公表記事から、逸脱したものだったことをstrong>遺憾に思う。我々は出典を明示すべきだった。ただちに、我々は公表記事を修正した。

-Jonathan Karl, ABC News Chief White House Correspondent
[ABC News' Jonathan Karl addresses criticism on reporting of the Benghazi talking points controversy (2013/05/19)]
何を言っているのわからない英語だが、DailyKosなどが報道しているように、「Nopology」の例である。

英国でも2014年にこんな「遺憾の意の表明」が報道されている。
Lord Rennard personally accepts the full report of Alistair Webster QC as given to him on March 7th in its entirety.

He would therefore like to apologise sincerely for any such intrusion and assure them that this would have been inadvertent.

He hereby expresses his regret for any harm or embarrassment caused to them or anything which made them feel uncomfortable.

Lord Rennard wishes to make it absolutely clear that it was never his intention to cause distress or concern to them by anything that he ever said or did.

Rennard卿は、Alistair Webster勅選法廷弁護士から3月7日に受け取った報告書全体について個人的に記載内容を認めた。

したがって、彼はそのような侵害行為について彼らに真摯に謝罪し、それが確かに故意ではなかったと彼らに納得してもらうことを希望している。

これによって、彼は、彼らに生じたいかなる被害や困難や、彼らを不快にさせたことすべてについて、遺憾の意を表明した

Rennard卿は、自分の言動で、彼らに苦痛や懸念を生じさせる意図がなかったことを、明確にすることを求めている。

[quoted in Lord Rennard Says Sorry To 'Harassment' Women (2014/05/29) on skynews]
典型的な「謝らない謝罪」である。
posted by Kumicit at 2016/02/29 05:16 | Comment(0) | TrackBack(0) | Others | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016/02/28

被害者叩きをすることで、加害者を免責し、被害者から救援を求める意志すら奪い去る

ぼくらは「世界が安全で、良き人に良きことが訪れ、悪い人は悪いことに見舞われるという」公正世界を築くために行動するのではなく、被害者を叩くことで、世界が公正世界であるという信念を守ろうとする、どうしようもないやつらであるらしい。

そして、被害者叩きをすることで、加害者を免責し、被害者から救援を求める意志すら奪い去る。
被害者叩きと虐待関係

センターの主たる目標の一つは、被害者が、安全とリソースとサポートにアクセスするのを阻害している障壁をとりのぞき、アクセスしやすくすることです。被害者叩きは、これらの障壁の一つであり、被害者を大きな危険にさらすことになります。


なぜ危険なのか?

被害者叩きは、被害者を過小評価し、被害者が進んで虐待を訴えるのを難しくします。被害者がもし、あなたや社会が虐待の被害者を叩いていると知れば、進んで被害を訴えることが安全なこと、あるいは安心できることだとは思えなくなるでしょう。

被害者叩きは、虐待加害者が言い続けてきたこと「被害者の落ち度で虐待が起きているのだ」を強めることになります。虐待は被害者の落ち度によるものではなく、虐待の解決は被害者の責任ではありません。それは虐待加害者のせいです。被害者叩きをすることで、虐待者たちが責任を回避しつつ、虐待関係や性的暴行を続けることを可能としてしまうのです。


なぜ被害者叩きをするのか?

被害者叩きを止めるのに、まず、なぜ人々が被害者叩きをするのか、理解することが役立つでしょう。被害者叩きの理由の一つは、不幸な出来事から距離をとることで、自分にはそのようなことは起きないのだという間違った気分を得られることです。被害者を叩くことで、被害者は自分たちとは違うのだと見ることできます。人々は「自分は、その被害者のような人間ではない。自分はそんな行為はしていないから、自分にはそのようなことは起きるはずがない」と考えて、自分自身を安心させる。そのような被害者叩きが役に立つ反応ではないことを、人々に理解してもらう必要があります。


被害者叩きとはどんなものか?

よくある被害者叩き文:

  • 「彼女が彼を怒らせた」
  • 「両者に問題があった」
  • 「彼女は彼と結婚すべきではなかった」
  • 「彼女は酔っていた」


被害者叩きの例: 「彼女が彼を怒らせて、虐待を招いた。二人とも改める必要がある。」

現実: この文は、被害者も虐待加害者と等しく瀬金があることを仮定しています。しかし、実際には、虐待は加害者が意図的に行った選択です。虐待加害者はパートナーの行動に対するリアクションについて、虐待以外に選択肢があります; 歩み去る・少し会話する・なぜその行動に苛立つのか丁寧に説明する・別れる・など。さらに、虐待は、加害者が被害者を痛めつける独立した行動ではありません。むしろ、パートナーをに対してどんなことでもできるという虐待加害者の権力感情です。友人や家族が、虐待に中立の立場をとり、「二人とも改める必要がある」と言うなら、それは、虐待加害者を免責し、虐待加害者と共謀して、被害者がサポートを受けにくくしています。

被害者叩きの言語表現
被害者叩きの最大の要因の一つは、物の言い方です。虐待や性的暴力にまつわる言語表現によって、ただちに、加害者から被害者へと注目点をずらすことにります。以下は、Julia Penelopeが作り、Jackson Katzがよく用いる例で、言語表現が被害者叩きとなることの例示です:

  • ジョンがメアリーを殴った: 能動態で書かれ、誰が暴力をふるったか明白です。
  • メアリーがジョンに殴られた: 受動態に変わり、メアリーが先に出てきます。
  • メアリーが殴られた: ジョンが文から完全に消え去ります。
  • メアリーは虐待されている女性である: 虐待されている女性であることが、メアリーのアイデンティティの一部となっていて、ジョンはこの文には存在しません。

以上のように、注目の対象がジョンからメアリーへと完全にシフトし、話を聞いた人々に、加害者の行動ではなく、被害者の行動に注目するように誘導している。


...

["AVOIDING VICTIM BLAMING" on Center for Relationship Abuse Awareness]

タグ:被害者叩き
posted by Kumicit at 2016/02/28 14:50 | Comment(0) | TrackBack(0) | Others | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016/02/27

メモ「消えた"accessible"を追って」

”人類は地球の地表を流れる真水の半分以上を、主に農業に用いている。地表面の水が利用できなくなれば人類は地下水に依存するが、これには化石水が含まれる。化石水は使ってしまうと回復しない。” http://sciencebook.blog110.fc2.com/blog-entry-950.html
『環境人類学を学ぶ人のために』P・タウンゼンド
[@endBooks]

「人類は地表を流れる真水の半分以上を主に農業に使っている」というのは、世界全体の定量的記述としては正しくない。世界の川の流量は約40兆トン/年、人が使う水は約4兆トン/年、うち灌漑用水は約3兆トン/年である。著者は何か違うことを述べたかったのかもしれないが。 @endBooks
[@masda_ko_1]
のつづき...

原文では"accessible"が入っている。
Humans have taken over more than half of the world's resources for their own use, leading some ecologists to speak of domination of Earth's ecosystems. Humans use more than half of the world's accessible surface fresh water, much of it in agriculture.

[Patricia K. Townsend: "Environmental Anthropology" (2008), p.93]
これの出典は、おそらくVitousek et al (1997)あたり:
Human alteration of Earth is substantial and growing. Between one-third and one-half of the land surface has been transformed by human action; the carbon dioxide concentration in the atmosphere has increased by nearly 30 percent since the beginning of the Industrial Revolution; more atmospheric nitrogen is fixed by humanity than by all natural terrestrial sources combined; more than half of all accessible surface fresh water is put to use by humanity; and about one-quarter of the bird species on Earth have been driven to extinction. By these and other standards, it is clear that we live on a human-dominated planet.

[Peter M. Vitousek, Harold A. Mooney, Jane Lubchenco, Jerry M. Melillo: "Human Domination of Earth's Ecosystems", SCIENCE, Volume 277, Number 5325, Issue of 25 Jul 1997, pp. 494-499. (COPY)]
Abstractだと、これだけだが、本文だと"more than half of the runoff water that is fresh and reasonably accessible"という記述:
Water. Water is essential to all life. Its movement by gravity, and through evaporation and condensation, contributes to driving Earth's biogeochemical cycles and to controlling its climate. Very little of the water on Earth is directly usable by humans; most is either saline or frozen. Globally, humanity now uses more than half of the runoff water that is fresh and reasonably accessible, with about 70% of this use in agriculture (20) (Fig. 2).

20: S. L. Postel, G. C. Daily, P. R. Ehrlich, Science 271, 785 (1996)

[Peter M. Vitousek, Harold A. Mooney, Jane Lubchenco, Jerry M. Melillo: "Human Domination of Earth's Ecosystems", SCIENCE, Volume 277, Number 5325, Issue of 25 Jul 1997, pp. 494-499. (COPY)]
この出典であるPostel et al.(1996)は:
PostelEtAl1996Fig2.PNG
[Sandra L. Postel, Gretchen C. Daily, Paul R. Ehrlich: "Human Appropriation of Renewable Fresh Water", Science, New Series, Vol. 271, No. 5250 (Feb. 9, 1996), pp. 785-788]
遠隔地の河川や洪水を除外した分の半分が利用されているという推定。
posted by Kumicit at 2016/02/27 17:12 | Comment(0) | TrackBack(0) | Others | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016/02/04

メモ「謝らない謝罪(Non-apology apology)」

「謝らない謝罪」とは文字通り、「謝らない」けど「謝罪を表明」するもので、特に「謝ったら死ぬ病」の患者が謝らざるを得ない状況になったときに使うレトリックである。
Non-apology apology (謝らない謝罪)

"non-apology apology"あるいはnonpologyとは、期待された悔恨を表明しない形式の謝罪である。これは政治及び広報において、よく使われている。これの発言者は、行動・発言・悪行について反省するのではなく、被害を受けた人が謝罪を要求している・抗議をしている・何らかの報復の脅威となっていることを残念に思っている。

"non-apology apology"の例は、ある発言によって気分を害した人に対して、「私は、あなたがそう感じていることを申し訳なく思う(I'm sorry that you feel that way)」と言うことである。この謝罪は、何か問題があったことを認めていない。さらに、「最初の発言で気分を害したことは、その人が非常に怒りっぽいか、非合理的である」と、ほのめかしていると、とらえられるかもしれない。別形式の"non-apology"の形式は、傷ついたり侮辱されたりした人へ直接には謝罪せず、「気分を害したかもしれない誰か(to anyone who might have been offended)」に対する、ジェネリックな謝罪を行うことである。

「"sorry"を使っているが、不正行為の責任を表明していない」謝罪発言は、後悔の意味ある表明かもしれないが、誤りを認めずに、許しを求めるときにも使える。


「謝らない謝罪」の一つの形式は「間違いが起きた(Mistakes were made)」である。
Mistakes were made (間違いが起きた)

「間違いが起きた(Mistakes were made)」は発言者が「事態がまずく、あるいは不適切に対処された」を認めつつ、誰が間違を犯したかを特定しないことで、「直接に責任を認めたり、責任追及されたりすること」を避けようとするものである。間違いを犯した人への直接の言及を避けて、「間違い(mistakes)」を抽象的な意味で、認める。回避度を弱めた表現は「私は間違いを犯した(I made mistakes)」や「John Doe made mistakes」である。これの発言者は、個人的責任を認めず、誰かの責任も追及しない。「間違い(mistakes)」という単語は、意図があることを意味しない。


もう一つの、よくつかわれる「謝らない謝罪」の方法は「もし〜なら、謝罪する(if apology)」である。
The "if apology"

"The Art of the Apology"の著者で、弁護士であり、企業倫理の専門家であるLauren Bloomは、「もし〜なら、謝罪する(if apology)」を政治家お気に入りの表現として言及し、「誰かの気分を害したとしたら、謝罪する (I apologize if I offended anyone)」という表現例を挙げている。
...
この種の謝罪は、「もし私の発言で気分を害したとしたら、謝罪する(I'm sorry if you were offended by what I said)」と言うことで、不正行為を個人的に認めることを拒否しつつ、責任を「気分を害した」人々にシフトさせる。「もし(if)」は、謝罪者が「自分が悪いことをした」ことを知らない(あるいは知る気もない)ことを意味する。あるいは、「悪いことをしたことを認めず」、したがって、「実際に反省している」からではなく、「謝罪する義務があると感じている」から謝罪するのだと見せかける。謝罪者が実際に後悔しているという形跡も、自分が悪いことをしたことから何かを学んだという形跡も見当たらない。John Kaborは自著"Effective Apology"で、「もし(if)、あるいは何らかの条件付き修飾語をつけることは、謝罪を『謝らない謝罪』にしてしまう」と書いている


2016/01/02

確率・自然・2つの敵

「確率を取り扱えない心」は面倒なものだ。日常的には...

  • 起きる確率はゼロではないが、1%に満たない(<1%)
  • ということは、起きないわけではないのだな
  • ということは、起きるか、起きないか、どちらかだ(~50%)
  • それなら、起きる方に賭ける(>50%)
  • 絶対、起きる(100%)

といったところ。こういう推論をするにであれば、どんな小さなリスクであっても、許容できないだろう。

ところが、その小さなリスクを回避するために、別のリスクと遭遇すると

  • 被害にあう可能性が20%あり、その場合は、深刻なダメージ。(20%)
  • ということは、被害にあう可能性は、あわない可能性より、はるかに小さい。
  • ということは、被害にあうことを考える必要はない。(~0%)
  • 当たらなければ、どうということはない。

といって、気にしなかったりする。判断の時に、確率を脳内で0%か100%と見なしてしまうのは、ありがち。

別のリスクが「自然」である場合は、別の推論で0%にしてしまうこともある。それは、世の中にある自然主義の誤謬の派生バージョンである道徳主義の誤謬と"Appeal to Nature詭弁"という対置される詭弁:

  • 自然への訴え(Appeal to nature fallacy):
    「自然は良い」に基づき、「Xは自然なので、Xは良い」あるいは「Xは不自然なので、Xは悪い」と主張する詭弁。自然主義の誤謬の単純化された形。
  • 道徳主義の誤謬(moralistc fallacy):
    「自然は良い」に基づき、「Xは良いので、Xは自然である」あるいは「Xは悪いので、Xは不自然である」と主張する詭弁。

これらの変形バージョンで...

  • 自然にしていれば悪いことは起きない。
  • 自然にしていて起きたことは、悪いことではない。



2つの敵を同時に相手にするのは難しいため、どちらかを「実は敵ではない」あるいは「大した敵ではない」と思ってしまうこともがある。そのため、「健康のためなら、死んでもいい」ということにも。


posted by Kumicit at 2016/01/02 09:37 | Comment(0) | TrackBack(0) | Quackery | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする